第2話
あの日の、あの時の、あの勝負で、あの生意気な若僧に不覚をとったのが敗北の発端であった。広汎な山野一帯に縄張りをもつ優秀な頭領であったこの狼は、その日を境に群れを追われた。それまでは鼻先一つで動いていた手下どもはいうにおよばず、血を分けた妻子たちまでが、一旦その弱さが暴露されるや否や、その若僧になびいたのである。
そいつが卑怯にも彼が尿を垂れている隙を狙ってふいに耳に食いついてきたのではないか。そしてそれを無残にも喰い千切ったのだ。たまらずに頭領である身を忘れて狼は、キャインキャインと情けない悲鳴をあげてしまった。多くの手下どもの見ているその前で・‥。
それから二年の歳月が流れた。苦労を分かち合う道連れとてない老体に、孤独の影だけがくっきりとついてくる。初めのうちは、群れの統率に神経をはらう必要のなくなった気安さから肩の荷をおろしたように清々としていた狼ではあったが、今や独り身は鉄よりも重い。一瞥で敵を威嚇した炯眼も白濁し、突風のように獲物を追った黄金の脚も朽ちた棒切れのようになってしまった。気性までも今や阿呆に成りはてて、骨の節々から腹が減ったという繰り言だけが、時という河辺に寄せる徒波であるかのようにとめどなく打ち寄せてくる。めっきり老け込んだ狼の銀髪は、涼風に吹かれておどるように中空に呑まれていく。はたしてこれで、この一冬を越すことができるのであろうか。
秋は実りを祝って、紅や黄の曼陀羅の祝杯をあげながら華々しく山野を通りすぎていく。だが、狼には団栗を喰らって生きる知恵は与えられてはいなかった。その臓器は、生あたたかい血肉によってしか癒されはしないのである。
馬鹿にしたように枯れ葉が顔を打つ。狼は顔をかく。枯れ葉はしかし悪戯をやめない。寒さはつのるばかりなのに、その毛並みには艶やかな生気がない。枯れ葉が抜け毛と空中で楽し気なワルツをおどる。その軽やかな舞踏は、さても親し気な死のワルツであった。
雄大な秋の山野の中でこの年寄りを嗤わなかったものは、生きようとする狼自身のせつない本能だけだったかもしれない。それ以外の万象は、山も野も林も河も小動物も枯れ葉も涼風も、不気味な表情を浮かべながら飽きることなく嗤っていた。一方的に苦しめられているのは、嗤われているのと同義なのである。
狼は昼にも夜にも傷ついた。彼の敵は、人、壁蝨、野犬、熊、蝮、病菌等、後続を断たなかった。しかも、飢餓、風雨、凸凹、傾斜、薮、渓流、冷気、夜陰等々、出会うすべてのものが彼を苛んだのである。
問題はしかし外部にあるのではない。彼を苦しめている一番の原因は、老いてがたがたになった狼自身の肉体なのであった。悠久なる天地が老いた一匹の狼を嗤うだろうか? 有体にいえば、天地は只あるのみである。生まれるものや死ぬものがあるがごときは、寄せる波が引くに等しい自然の常態であり、ことさらに取り上げて論うにはおよばないのである。
始まりはその内に終わりを含んでいる。盛があれば衰があり、生があれば死がある。そのかぎりない個の変転のなかで、大自然の本源のみが、永遠のひびきを天地に轟かせている。この大地のどこかで己の子孫がたくましく活きていることを思えば、用を果たして老いたものは滅んで然るべきものなのである。
それならば、老いた狼を嗤う声はどこからやって来るのだろうか?・・自明の理であろう。それは狼の頭蓋骨からなのだ。食い物にすべき雌鹿に蹴とばされて傷ついた狼の悲哀、それを狼自身の自尊心が嘲笑っているのである。景気よくすぎていく秋の日の夕暮れのように・・。
山間の大気は清く、時は午下がりであった。
狼は山をくだり野を駆ける。
苦痛・・そいつがなんだ!
狼ならば野を駆けよ!
雌鹿に蹴とばされてべそをかいている狼がどこにいる。
老いても狼は狼だ。
狼ならば、駆けて、駆けて、駆けて死ぬのだ。
風を恐れるな!
道なき道を恐れるな!
雌鹿がおらぬことが、野を駆けぬ理由にはならぬ。
血に飢えてさまようことを忘れた狼は、
もはや兎にもおとる痴れ者ではないか。
それは土塊だ。
血のかよわぬ石塊だ。
断じて狼ではない!
生きているからにはかける。
雌鹿の影を追ってどこまでも駆けつづける。
冬など恐れぬ。
地の果ての奈落もいとわぬ。
狼は天女さえも噛みくだく!
殺すのが狼だ。
死ぬまで血に飢えて殺しつづけるのが狼だ。
牛馬のごとく草を食むなど許されぬ。
そういって頭蓋骨が嗤うのだ。
狼ならば野を駆けよ!
何も目的がないわけではない。
今や己の自尊心を守るために、
駆けつづけることこそが目的なのだ。
狼よ!
狼ならば野を駆けるのだ!
そのような自己との格闘の最中であった。洗濯板のような助骨の筋をこっちの幹やあっちの岩にぶつけながらギクシャクと走っていた狼は、投げた石がガラスにぶつかったような衝撃に一瞬我を忘れた。前方の砂洲に埃があがっている。そのなかで白いものが身をくねらせている。狼は怪異の物を見たごとき印象を受けて後ずさった。
林の切れ間から見た異次元の蜃気楼が眼前の事実となったのは、数呼吸後のことであった。だらしなく弛んでいた願望の糸が、時を移さずピィーンと張りつめた。狼にとってもっとも似つかわしい光景が、偶然にこの世のものになろうとしていたのである。
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