図書館暮らし。

黒月水羽

黄昏時、図書館にて

 夕闇が迫ってくる。

 澄み渡った青にオレンジ色が混ざり、やがて黒に変わっていく。その変化にどうしようもなく焦って、私は必死に足を動かした。

 逃げなきゃ。早くいかなくちゃ。あの場所へ。

 頭の中に反響する言葉通りに、全力で走り、私は古びたドアを開けた。


 町のはずれ。人気のない静かな場所に古びた図書館がある。こじんまりとした造りは図書館というよりも、ちょっと大きめな本屋さんにも見える。

 いつ来ても人の気配は少なく、貸出カウンターでは司書さんが腕を組んでうたた寝していた。私が駆け込んでも全く動じないのはいつものことで、そんなことよりもと私は図書館の奥を目指す。


 私の倍の背丈がある本棚間を抜けていくと、奥の方に扉がある。初めてではまず気づかないような場所にひっそりと、隠すようにある部屋が私のお気に入り。

 一般書籍とは違い、このあたりの歴史などを集めた学習スペース。勉強に集中できるようにと区切られた個室のドアを、私は勢いよく開く。

 はあ、はあと自分の荒い息が部屋の中にこだまする。私は自分の息を整えるために胸に手を当てて、全力で走ったために乱れた髪を顔から払う。それからドアに後ろ手で鍵をかけ、ゆっくりと前を向くと、そこには少年がいた。


 窓から差し込む柔らかな光に輝く黒髪。窓際に置かれたテーブルに腰かけ、分厚い本を読んでいる。男だと分かる顔立ちだが、白い肌やほっそりとした手はどこか中性的。窓から入り込む風で揺れる前髪、真剣に本へと視線を落とす静かな表情は、私の心を落ち着かせる。

 ちゃんといる。ああ、よかった。

 私がそう胸をなでおろすと、本へと視線を向けていた少年が顔を上げる。少年の視界に自分が入ったことを確認すると、私は思わず口を開いた。


「いつもここにいるの」


 夕暮れ時。この図書館のこの部屋に、いつもこの少年はいる。私が思い出せる限りずっと。

 あまりにも出会う頻度が高いから、もしかしたらこの少年はずっとここにいて、この部屋から出ないのではないか。そんな馬鹿な想像をしてしまう。このテーブルとイス。本棚に囲まれた狭い部屋で暮らしているのではないか。そんなありえないことを私は考える。


「ここに暮らしてるんだ」


 私の想像を読み取ったかのように、少年は優しく微笑んだ。夕焼けに柔らかな光が少年の頬を照らして、キラキラ輝いて見える。その姿に私はホッとして、それから少しムッとする。

 きっとからかわれたのだ。

 この狭い部屋に少年が暮らしているはずはない。だって本以外に何もないのだから。食べ物もなければ、寝る場所もない。イスとテーブルとあるのは本だけ。少年はきっと他に住む場所があって、ちゃんと家に帰っているはずだ。

 それに私は気付いているけれど、あえて言及はしなかった。深いところに踏み込んで、この場から少年がいなくなってしまう方が私にとっては怖い事だった。

 よりかかっていたドアから体を放して、少年の元へ近づいていく。なんとなく隣の椅子に座る気になれなくて、少年の斜め後ろから分厚い本を覗き込んだ。


「英語だ……」

「毎回、同じ反応するね」


 くすくすと少年が笑う。

 少年が当たり前のように読んでいる本には、私には理解できない文字が並んでいる。眉を寄せて、知っている単語を拾おうとするけれど、全く分からない。

 こんな人気のない図書館に通い詰めるほど本は好きだけど、外国の本までは読もうとは思わない。目の前の少年は、散々親や友達に呆れられた私よりも重度な本好きに違いない。


「よく読めるね」

「勉強すれば君も読めるよ。教えようか?」

「えぇ……」


 嫌そうな顔をすると、少年はまたクスクスと笑った。

 それから読んでいた分厚い本を閉じて私へと向き直る。少年の読書終了の合図。そして私と少年の短い会話の始まりの合図だ。


「ずいぶん急いでいたけど、何かあった?」

「特に何かあったわけじゃないけど……夕暮れって何となく焦った気持ちにならない?」


 何気なく聞いてくる少年に私は視線を逸らす。早く来ないと帰ってしまうかもしれないでしょ。という本音は口に出せない。視線も合わせられずに、窓の外へと視線を向けると空はすっかり夕日に染まっている。


「そっか」


 空を眺めていると、小さな少年の声が聞こえる。どことなく残念そうな、悲しそうな声に驚いて視線を向けると、少年は私と同じように空を眺めていた。

 先ほどよりも間近でみる夕日に照らされた顔は、どこか儚げだ。大人の男性に比べると丸みをおびた少年の顔を見て、私はホッとする。このまま少年の時が止まって、大人になんてならなければいいのに。そう思ってしまうほどきれいな横顔だった。


 少年と私の不思議な時間がいつ始まったのか、正確には覚えていない。

 いつものように図書館にやってきた私は、いつものようにお気に入りの部屋のドアをあけ、そこで驚いた顔をした少年と会ったのだ。

 人がやってくるとは思わなかった。そんな顔をしてこちらを凝視した少年に対して、私もまさか人がいるとは思わなかった。という少年と似たような表情を返したと思う。

 この図書館はとにかく静かで人がいない。私以外の利用客などほとんど見たことがない。ヒマそうな秘書さんはカウンターで寝ていることが多くて、私の話し相手にはなってくれない。


 こんなに通い詰めているのに初めて出会った、私と同じ年くらいの少年に私は驚いた。その少年が本を読んでいることにも驚いた。

 図書館なんだから当たり前。そう言われてしまいそうだが、私の周りには図書館に来てまで本を読むような友達はいなかったのだ。


「いつもここにいるの」


 思わず私はそう聞いていた。こんなに来ているのに、会ったことがなかった事実に驚いた。時間帯が違ったのか、少年が初めてやってきたのか。それは分からない。だからその言葉が出たのは「ここにいてほしい」という私の願望があふれた結果だ。

 誰か人がいる方が安心する。静かな図書館も好きだけど、静かすぎる図書館は怖い。


「えっと、今日初めてきた……」


 少年は私の問いかけに戸惑った顔で答えた。

 思い返してみれば、初めて会ったとき少年は図書館に暮らしていなかった。


 空を見つめ続ける少年の横顔を覗き見る。

 少年はいつから図書館に住むようになったのか。私のバカみたいな質問に合わせて、暮らしている。そういうことにしてくれているのか。それとも、私が気付かないだけで本当に住んでいるのだろうか。


 そういえば毎日こうしてあっているというのに、少年の名前も知らなければ、図書館以外で何をしているのかもしらない。毎日夕暮れ時、日が沈むまでの短い時間にこの部屋で、少しだけ話す。そして変わりゆく空を見上げるのだ。

 他の人に話したら「なんだそれ」って言われるような奇妙な関係。それでも私は、少年とのこの時間を気に入っていた。隣に人がいる。それだけでも安心できることはある。

 とくにこの夕暮れ時。昼間と夜が交じり合う、奇妙な時間。気を抜くと夜に飲み込まれてしまいそうになるこの時間に、隣に人がいる。それはとても心強い。


「最近なにか本読んだ?」


 視線を私に戻して、少年が私にそう聞いた。

 ぼんやり空を見上げるだけで終わることも多いから、少年が話しかけてくることは珍しい。私は焦って、何かあったかな。と記憶を探る。


「……何読んだっけ?」


 けれど、いくら探っても最近読んだ本が出てこない。

 こんなに図書館に通い詰めているのにだ。重度の本好きだと周囲に呆れられているこの私がだ。可笑しい。と焦ると同時に、もしかしていつのまにか本を読むため。という目的が、少年に会うために置き換わっていたのでは。と私は恥ずかしい結論にたどり着く。


「えぇっと……まだ読みかけだから……」


 正直に伝えられるはずもなく、視線をそらして誤魔化すと、少年は「そっか」とつぶやいた。その声がやけに優しいから、あたたかい気持ちになる。まるで太陽。それよりは柔らかい夕日だろうか。

 私にとって夕焼けというものは恐ろしいものだが、少年が夕焼けなら怖くない。そう思うと同時に不思議に思う。

 何で私は夕焼けが怖いんだろう……。


「そろそろ日が沈むね。帰る?」


 あれだけオレンジが優勢だったのに、気付いたら空は重たい黒へと塗り替わりつつあった。日がだんだん暗くなり、この図書館の閉館時間も近づいてくる。


「私は帰るけど、君は帰らないの?」


 ドアへと近づきながら、私は少年を振り返る。

 少年はかわらず、窓際の席に座ってこちらを見つめていた。オレンジ色の光が弱まって、部屋は暗くなってきたけれど、それでも少年の優しい笑顔は変わらない。


「俺は、ここに住んでるから」


 笑顔でつげられた、とびっきりの嘘に私は呆れつつ、同時にやけに安堵しながら鍵のかかったドアノブに手をかけた。


***


 町はずれの人気のない場所。そこに小さな図書館がある。古びて人もほとんど寄り付かない。明日にでも閉鎖されそうなさびれた図書館。

 そこに俺は、この町に引っ越してきた日から通い詰めている。

 最初の理由は静かで誰にも邪魔されなさそうだったから。それは今も理由の一つだけど、もう一つ理由が増えた。


 立て付けが悪く、不気味な音を立てるドアを開いて中に入ると、カウンターで暇そうにスマホをいじっていた司書さんと目が合った。


「毎日、毎日、熱心だねえ」


 俺の顔をみて司書さんは呆れた顔をする。

 最初は驚いた顔をされたが、通い詰め始めてもう1年ほど。司書さんからすれば貴重な話し相手だ。

 何しろこの図書館は俺しか利用していない。


「司書さんこそ、毎回寝たふりご苦労様です」

「ふりっていうか、もう反射だなあ……。あの時間になると眠くなる」


 複雑そうな顔でいう司書さんに俺は笑う。毎日同じ時間に寝たふりをし続けたわけだから、体がそういうもんだと覚えてしまったのかもしれない。

 毎日同じ時間。夕暮れ時にこの図書館では怪奇現象が起こる。


 俺は司書さんに頭をさげて、奥の方にある個室へと移動した。

 ずいぶん分かりにくい場所にある個室は、勉強や読書に集中したい人のために開放されているらしいが今や利用者は俺一人。

 過去によく使っていたという少女を含めても、今までの利用者は数人程度だろう。図書館そのものの利用者も少ない上に、場所も分かりにくいときている。


 初めてこの図書館に足を踏み入れた俺をみた司書さんは心底驚いたが、この部屋のことは教えなかった。きっと気付かないんだろうと思ったのだ。だから、夕暮れになる前に帰った方がいい。そんな忠告だけにとどめた。興味本位で残ることがないようにという、分かりにくい優しさだったのかもしれない。


 けれど俺は、偶然この部屋を見つけてしまった。そのうえ司書さんの忠告なんてすっかり忘れて読書に集中し、この部屋で夕暮れを迎えてしまったのである。

 そしてその日、俺は静かな図書館に駆け込んでくるセーラー服の少女と出会った。


 学校や家では集中して読めない本の世界にのめり込んでいると、バタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。

 本から視線を放して、外を見るとすっかり夕暮れ時。いつも正確だなあ。と感心すると同時に悲しくなってきた。

 あの少女の時間は、この夕暮れで止まってしまったのだ。


 10年前。この図書館で殺人事件がおきた。

 被害者は近所の女子中学生。この図書館をよく利用していた本好きの子で、学校帰りいつも通りに図書館を利用し、帰ろうとしたところで不審者に遭遇した。

 最初から犯人が少女を狙っていたのか、偶然だったのかは分からない。新聞の隅っこにもうしうわけ程度に書かれた小さな記事では、事件について分かることはあまりにも少なかった。

 それでも俺から一つ言えることがあるとすれば、少女は町の方へと逃げるべきだった。人気がなく、管理もずさんな図書館なんかより、人が多い場所へと逃げるべきだったのだ。

 といっても、それは部外者の俺だからこその意見だろう。恐怖を味わい、混乱した少女が慣れ親しんだ場所へと逃げてしまったのも、あそこなら見つからない。そう思い込んでしまったのも仕方ないことだったのかもしれない。

 しかし、結果的にはその判断は、少女を袋小路へと追いやることになった。

 いつも放課後に、少女が一人読書をしていた図書館の一室に。


 静かな図書館に似つかわしくない、大きな音と共にドアが開く。

 きっと最期の日も同じように駆け込んだんだろう。それじゃ居場所を教えるようなものじゃないか。そう俺は思って、恐怖におびえる少女を見た瞬間に、やはり他人事の意見だと気持ちを改める。


 長い黒髪を乱れさせ、表情豊かな少女らしくない歪な表情を浮かべたセーラー服の少女がドアに背を預けて荒い息をついている。震えた手で鍵を閉めて、落ち着かせるように胸に手を当てる。青ざめ、震える唇に、目じりにたまった涙。

 死を目前にした人間の悲痛な表情は、何度見ても俺の心を揺さぶった。

 少女はぎゅうっと胸を押さえて、落ち着かせるように息を吐く。追いかけてくる犯人から身をひそめるように息を殺し、だんだん呼吸が正常になったところでゆっくりと顔を上げた。


 俺を視界に収めた瞬間、少女が泣きそうな顔をした。それは恐怖ではなく安堵。助けてくれそうな人が目の前にいる。その安心感。


「いつもここにいるの」


 私を一人にしないの。私を守ってくれるの。あなたがいたら私は無事でいられるの。

 そんな彼女自身気づいていないだろう、いくつもの願望と期待が浮かんだ言葉。

 自分が死んだことを気付いていない。死んですら毎日逃げ続ける憐れな少女の、あまりにも小さな懇願。

 それを聞いた俺は少女が安心できるように、笑顔を浮かべた。


「ここに暮らしてるんだ」


 だからもう逃げなくていい。って言葉は、少女が真実を受け入れられるまで、とっておこうと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

図書館暮らし。 黒月水羽 @kurotuki012

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説