第20話 誇りある旅立ち

 横倒しになった馬の体と、もはや物を言うことのない人の首。そこからあふれた血の河が森の大地へと染み込んでゆくよりも早く、主をなくした暗黒のマナが暴走し、壮絶な爆発を起こして真夜中の闇を赤々と炙った。


 オークの肉体は熱風をものともしない。爆炎に背を向けるようにして振り返れば、大樹の陰から未だこちらを覗き込んでいるヒルデガードの姿が見える。


「オスカー……あなた、その姿……」


 怯えの混じる少女の声を耳にして、オスカーは自分が河を渡ったのだと悟った。


 あらゆる意味において、もはや引き返すことはできない。オークの穢れた肉体を晒すとは、すなわちそういうことだった。


「……これがおれの正体だ」


 後悔は、ない。


「わかったろう? エルフが暗黒のマナを注がれて零落させられた存在、戦うためだけに造られた化物……その中の一匹がおれだ。きみやミヒェルから両親を奪った連中と、まったく変わらない存在だ」


 一語一語を噛み締めるようにしてオスカーは口を回し続ける。ヒルデガードに言い含めているのか、それとも己自身に言い聞かせているのか――もはや自分でも区別はつかなかったが、心のうちにはただ、途方もない達観と寂寥とが同居するばかりだ。


「まさしくきみが目の当たりにしたとおり、ひとたび戦いとなったなら、おれは獰猛な獣に変わる。今は戦いの間だけで済んでいるが……それもいつまで保つか。この身に暗黒のマナが息づいている限り、おれもいずれは心までオークになり果てるのかもしれん」


 蒼鏡の森で過ごした穏やかな日々を、いつまでも胸に留めておきたい。その願いに一片の偽りもないと、オスカーは名誉に誓って断言できる。


 ゆえにこそ、自分は里を離れなければならないのだ。


「だからここまでだ、ヒルデガード」


「待って……」


「おれたちは一緒にいてはいけない。里の皆におれのことを訊かれたら、逃げた敵を追っていったとでも伝えておいてくれ」


 決然と踵を返す。


 もう、振り返ろうとは考えない。


「――待ってよ!」


 果たしてオスカーの耳は、居ても立ってもいられぬとばかりに放たれたヒルデガードの叫びを聞く。


 次の瞬間、背中に強い感触が生じた。


 感触には人ひとりぶんの重さがあって、血の通った温もりと、ほんの微かに漂う香水の匂いが伴っていた。


「どうする気なの、これから?」


「戦い続ける」


 オスカーは即答、


「モルゴーンひとりをたおしても、パウラ教団が依然として健在であることに変わりはない。この瞬間にも世界のどこかでエルフの里が襲われているかもしれないんだ。おれは、やつらの企みを叩き潰すために力を振るいたい」


 意志はとうに定まっている。あるいはモルゴーンの根城を脱出したそのときから、自分が戦いの嵐の中に飛び込むことは運命づけられていたのかもしれない。


 旅路の果てにどんな結末が待ち受けているのか、オスカーには未だ判断がつかない。


 だとしても、運命から逃げるつもりはなかった。


 自らが何を生み出したのか、パウラ教団に身をもって教えてやる。白亜の森やオスカー自身の仇をとるためにはそうするのが一番であると、オスカーは強く信じている。


「……そっか」


 ヒルデガードの声が上擦った。


「行かないでとは言わない……でも、お礼くらいさせてよ。オスカーが来てくれなかったら、私たちの森はきっと教団に支配されたままだった」


 少女の言葉を受けて、蒼鏡の森での始まりから終わりまでがオスカーの脳裏に蘇る。


 かつて同胞だった追手を打ち倒したこと。


 泉のほとりでヒルデガードに拾われたこと。


 病に冒されたミヒェルのために夜の森を駆けたこと。


 月下に輝く一面の夜光草。


 襲い来るリカントロープを退けたこと。


 姉弟と暮らした穏やかな日々。


 コーネリウスと知恵を合わせて長老たちを動かし、サピエンスとの同盟への道をひらいたこと。


 そして、森からオークの群れを駆逐したこと。


 蒼鏡の森に起こっためまぐるしい変化の、すべてを自分がもたらしたと考えるほどオスカーは自信家ではない。体を張りもすれば背中を押しもしたが、最後の線では結局のところ里のエルフたち自身が決断したからこそ、森はエルフのもとに戻ってきたのだと思う。


 それでも、ヒルデガードはきっぱりと口にした。


「あなたは英雄」


 彼女の声音は、もう震えてなどいなかった。


「たとえあなたの身体がオークであっても、あなたの勇気と献身だけは絶対に揺るがない真実よ。私は……私たちは、あなたがあなたとして帰ってくるのを百年でも二百年でも待っているから」


 ――ありがとう、オスカー。


 その囁きを最後に、ヒルデガードは身を離した。


 別れの合図だった。


 オスカーは歩みを進める。決して振り返りはせず、かつてあれほど醜いと恥じたオークの姿を隠すこともなく、ひとり木々の向こうへと消えてゆく。




 今、オスカーの胸にはささやかな誇りが宿っていた。


 少女が灯してくれた誇りだ。


「おれは、オスカーだ」


 確かめるように告げる。あたりに己以外の人影はなく、森の動物たちは言葉を理解などすまい。


 だからこの呟きは、己に巣食う闇への挑戦状だ。


 自分は、暗黒のマナがもたらす破壊衝動になど負けはしない。


 たとえ肉体がオークであっても、魂がオスカーである限り、勇気と献身をもってエルフの味方であり続けることができるのだ。そうであるならば、この命が尽きるそのときまで、必ずやオスカーとしての心を守り通さねばなるまい。


「おれはオスカーだ。すでにエルフの体ではなかろうと――」


 木立が途切れた先には一面の平地が広がっている。白く冷たい月光の下、風に吹かれて揺れる草原を眼前にして、オスカーは断固として宣言した。


「おれは、おれであることに誇りをもつぞ!」



     ◇ ◇ ◇



 オスカーはオークである。


 彼を改造したパウラ教団は、邪神復活を企む魔教の使徒だ。


 オスカーはエルフの自由と平和のため、パウラ教団と戦うのだ――高潔なるエルフの魂と、かけがえのない数々の思い出とともに。




<了>

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オスカー・ザ・オーク -亜人を狩る者- スガワラヒロ @sugawarahiro

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