第19話 さらばヒルデガード

 突風のように空間を貫いたオスカーの拳を、半人半馬の体となった邪教の神官モルゴーンは前肢を高々と上げてかわした。


「蒼鏡の里のエルフどもを捕らえるついでに、亜人の母体となるに相応しい健康な娘を確保する算段だったが……貴様を連れ戻すことまで叶おうとはな。嬉しいぞオスカー!」


「どれ一つとして叶うものか。おまえは死ぬんだモルゴーン……今日、ここで!」


 オスカーは獣のごとく喉を鳴らして、さらに力強く前へ出る。が、それを迎え撃つかのようにモルゴーンが姿勢を戻すのを見て、すんでのところで踏みとどまった。


「ちいっ!」


 平原の生き物に明るくないオスカーでも、馬が脚力に優れることくらいは知っている。


 ずん、と周囲の木々を騒がす激震。


 もう一歩でも前に出ていたら、オスカーの頭はケンタウロスの強靱な蹄によって粉砕されていたはずである。


「さすがに勘が良いな、オスカーよ。しかし――なればこそ理解しているのではないかね」


「何の話だ?」


「エルフが徒手で私に勝てるはずがない、ということだ」


「……くだらん」


 粘着質な笑みとともに投げかけられた指摘を、にべもなく切って捨てるためには一拍の間を要した。


 図星だったからだ。


 今の攻防にしてもそうだった。せめて手元に剣の一本も残っていれば、前肢を振り下ろされる前に斬撃を届かせることも充分にできたはずなのだ。


 剣はもうない。リザードマンとの戦いで天命を終えた。


 足りない間合いを補うためには、より速く鋭く踏み込んでむこうの反応のほうを遅らせたいところだが――


「どうしたね、オスカー。変身しないのか?」


 嘲笑交じりの宿敵の言葉が、オスカーの思考に先回りした。できるはずがないと高をくくっているのは明らかで、それもまた的を射た見立てであることがオスカーの心を苛立たせる。


 オスカーは背後を一瞥する。潤沢なマナのもとで育った大樹の陰には、ヒルデガードが身を隠している。


 そのヒルデガードと目が合った。少女は不安げな表情を浮かべつつも、こちらの勝利を信じて静かに見守ってくれていた。


 ――ここで変身すれば……。


 当然、彼女の前で正体を晒すことになる。そうなればもはや、蒼鏡の森に自分の居場所はないだろう。


 ――どうする。


 燃えゆく白亜の森の光景が脳裏を灼く。


 ――どうする。


 ヒルデガードやミヒェルと過ごした日々が胸を衝く。


 煮えたぎる怒りと平穏への未練が逡巡となってオスカーの判断を鈍らせ、気づいたときにはモルゴーンの巨躯が眼前に迫っていた。


「がッ……!」


 絶望的なまでの体重差に加速度が乗って、衝撃がオスカーの全身を打ち据える。瞬く間に天地が何度も入れ替わって、気づいたときには樹の幹に背中を預けていた。


 立ち上がれたのはオスカーだからだ。


 もっとも、それとてこの場が森の奥深くだったからに過ぎない。もし平原で今の体当たりを食らっていたら、いかにオークの肉体といえども無事では済まなかったことだろう。


 オスカーは悟る。


 変身しなければ、勝ち目はない。


「オスカー!」


 すぐ背後からヒルデガードの声が聞こえた。


「逃げましょう! 地の利は私たちにあるんだもの、戦いじゃ分が悪くたって逃げ切ることなら難しくないはずよ!」


「……きみは逃げろ。おれは戦わなければならない」


「どうして!?」


 ヒルデガードの語気に明確な焦燥の色が滲む。


 少女の心のうちを思うと、オスカーも胸が張り裂けそうなほどの罪悪感を覚えずにはいられない。短い間とはいえヒルデガードとは家族のように過ごしてきたのだ。本来の家族をほとんど亡くしている彼女からすれば、自分を置いて一人逃げることなど耐えがたい苦痛に違いない。


 しかし、だとしても。


 オスカーには、戦わねばならない理由がある。


「逃げて、その先はどうなる? こいつは教団の重鎮で、しかもきみたちの里の場所を知っている。拠点に帰ることを許せば、こいつは再び手勢を率いて攻めてくる」


「それは……そうかも、だけど!」


「こいつはここで殺すしかない。こいつを殺せるのはおれしかいない。――おれは、逃げるわけにはいかないんだ」


 そうだ。


 モルゴーンを仕留めることに失敗すれば、白亜の森の惨劇が遠からず繰り返されることになる。そのとき真っ先に犠牲になるのは、十中八九、この蒼鏡の森なのだ。


 いくつもの顔がオスカーの脳裏を巡る。


 それは恐怖を越えてオークと戦うことを選んでくれた長老たちの顔であり、同志として共に立つことを望んでくれたコーネリウスの顔であり、無邪気に慕ってくれたミヒェルの顔だ。


 そしてオスカーは、最後にそっと背中を振り返った。


「さよならだ、ヒルデガード」


 覚悟が決まった。


 オスカーがこの戦場に留まる限り、ヒルデガードもまた離れようとは考えまい。


 ならば――偽りの姿を取り払い、彼女に真実を教えるまで。


「おれの本当の姿を見せよう。おれが何者であるかを目に焼きつけたら、きみは里へ向かって走れ」


「オスカー? 何を……」


 困惑まじりのヒルデガードの声が、眉を寄せた白皙の美貌が、オスカーを引き留めんと迫ってくる。


 それらすべてを振り切るごとく、オスカーはモルゴーンへと向き直って叫んだ。


「――変身ッ!!」




 戦いは、枝から落ちた木の葉が地面につくまでの間に終わった。


 モルゴーンは首から上を引きちぎられて死んだ。

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