オイルに写る夜

フカイ

掌編(読み切り)









 コンバーチブルのスポーツカーのステアリングを握り、彼女は西へ向かう。


 夏の長い夕暮れ。


 見上げる空には、濃紺から紫、紫からオレンジへの無段階層のグラデーションが美しい。


 たなびく長い雲。


 輝きだす、星たち。


 昼間の暑さを忘れつつある、宵風。


 時速100マイル(約160km/h)をわずかに越える速度で、彼女はこの4.7リッターV8を巡航させてゆく。





 緑色の路線案内板が、飛ぶような速さで後方に消えてゆく。


 シフト・レバーにかけれた指。長く伸ばした爪には、パールのマニキュア。


 近づいては去ってゆく黄金色のハロゲンライトが、屋根のない車内を照らしては消える。


 ホワイト・レザーでしつらえられたシートにも、ステアリングホイールに置かれた彼女のパールの爪先にも、そのライトの点滅が写りこんでいる。


 左手には、海が見える。


 砂浜ではなく、小石を敷きつめた浜。オフショアの夕凪に、オレンジ色に染まった波がいくつもはじけていく。


 音楽はかけずに、V8の奏でるイタリアン・サウンドと、風切り音だけをBGMに。


 車の性能から言えば、本来の30%程度の能力しか発揮していない状態の巡航。


 もし、スロットルを床まで踏みつければ、あの暮れてゆく太陽に追いつけるだろうか?


 いつまでも、暮れない夕陽を追い続けられるのではないか?


 栗色のやわらかにカールした髪が、そっとたなびく。


 車外風を巧みにカットする設計のこのコンバーチブルでは、ロングヘアの乱れを気にする必要はない。





 右側の助手席のクラッチバッグを片手で探り、彼女は煙草を取り出した。


 視線はたぐり寄せられる路面に固定したまま、指先だけで封の切られたパッケージから、メンソールの煙草を取り出す。


 そして、唇でそれをくわえる。


 同じくバッグからガス・ライターを取り出す。慣れた手つきでその重量感のある金属のキャップを開くと、小気味良い手ごたえの着火ボタンを彼女は押した。


 瞬間、青く細身の炎が、鋭く立ち上がった。すこしだけそれに目を移し、煙草の位置を確認すると、その先端に火を移した。


 そして、深く、最初の一服を吸い込んだ。


 ゆっくりと、身体のなかに、紫煙を充たした。


 身体がほんのりとしびれて、ぼんやりする。


 ニコチンが血流に徐々に溶けだして、彼女をすこしだけ幸福にした。


 やがて吐き出されたその紫色の煙は、すこしだけ、車内にたゆたった。


 そして車外にたなびくとその瞬間、100マイルのスピードにかき消された。


 その消えっぷりが、素敵だった。


 彼女はもう一服を吸い込むと、意識して車外に煙を吐いた。


 車内にいるうちは、彼女の呼気にまっすぐ吹かれていた煙は、車外に出た瞬間、どこへともなく消失した。





 気分が良かった。


 アクセラレーター・ペダルをより踏み込む。


 V8がその本能の片鱗をすこしだけ剥き出しにした。


 排気音が轟き、深く上半身をホールドしてくれるシートに、身体がめり込んだ。


 視界が狭まり、暮れゆく夕陽にいまなら追いつけそうに思える。


 吸い終わった煙草を、車に備え付けの吸殻入れにねじ込み、火を消した。


 そしていま一度、助手席のクラッチバッグを手探りした。


 今度、彼女が手に取ったのは折りたたみ式の携帯電話だ。


 右手で器用にそのフラップを開けた。


 先ほどよりも夜の濃度が濃くなった車内に、白く、貧相に、その携帯電話のモニタ画面が光った。


 その画面を彼女は一瞥した。


 着信も、メイルも、何もなかった。


 それを確認すると、彼女の右手は、円を描くように頭上に向けて鋭く回転した。


 手のひらの中には、軽く、携帯電話がホールドされていた。


 フロントグラフの高さの手前で、右手を上げることを、彼女はやめた。


 同時に、握っていた電話機を、離した。


 携帯電話は慣性の法則にしたがって、彼女の頭上に向けて短く飛翔した。


 そして、フロントグラスの高さを越えた瞬間、時速100マイル超の車外風に吹かれ、一瞬で後方に、それは飛び去った。


 次の瞬間、彼女の車もその場を走り去った。





 携帯電話は、風に吹かれ、くるくると回転しながら、アスファルトの路面に向かって落下していった。


 回転運動と、落下運動を同時進行で体現しながら、硬い路面に、それは衝突した。


 ちょうど、人間が通話する時の、耳に当たる部分から、地面に接触した。


 その衝撃で、プラスティックのフレームの一部がはじけ飛んだ。


 衝撃は携帯電話を一度、二度と路面にバウンスさせた。


 地面に接触するたびに、どこかしら、なにかしらの箇所が裂け、割れ、はじけ飛んだ。


 四回目のバウンスで、筐体がくまなく傷だらけとなった携帯電話は、路面から跳ね上がる力を失った。


 時速100マイル超の車内から放り出された勢いで、路面を7メートルほど、それは滑走した。


 そして、路上で完全に沈黙した。


 夕凪が、また静かに吹いた。


 車の消えた高速道路には、潮騒の音が響いていた。


 砂利の浜の奏でる、ざわざわとした耳障りのよい潮騒。


 空は、最後の残照が消えてゆくところだった。





 数分後、白い商用バンが、その道路を走ってきた。


 路面に転がる携帯電話にまっすぐ到達するコースで、そのバンも100マイル近い速度で接近してきた。


 あたりに折れたプラスティックの破片や、ネジなどが散らばっていた。


 やってきたそのバンは、ぼろぼろになった携帯電話を踏みつけた。


 携帯電話は、強い力でプレスされ、瞬間的に平たく伸ばされた。


 次の瞬間にはその商用バンは、はるか彼方まで走り去っていった。


 路面には、粉々に砕かれた携帯電話の残骸だけが残った。


 液晶のオイルが、すこしだけ、アスファルトの路面に流れた。


 その、オイルにも、暮れなずむ夜が写っていた。





 走り去った彼女も、携帯電話のメモリも、彼のことを忘れた。









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オイルに写る夜 フカイ @fukai

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