苦娑婆と花

ニル

されど桜は いろづいて


 ある貧しい村に、百花ももかという女の子がいました。百花はお父さんとお母さん、そして体の弱い弟と一緒に暮らしていました。おとうさんとおかあさんは、汗だくで、顔を土で汚して、毎日毎日働いていますが、なかなかぜいたくな暮らしはできません。


 百花はふたりがいない昼間は、体の弱い弟の世話をしながら、いつもひとりで遊んでいました。友だちはいません。


 なぜなら、百花は少し不思議な子だったからです。


「やーい、はなおばけー!」

「はなおばけー!」


 百花が家の前で洗濯をしていると、通りすがりの村の男の子たちがからかってきました。百花は知らんぷりしていましたが、男の子たちは石や枝を投げてきます。たまらなく悲しくなって、百花は家の中に逃げ入りました。ぐっすり寝ている弟のそばで、じっとひざをかかえて悪口に耐えます。


「なきむしおばけー!」


 しかし、そとから聞こえる笑い声に、百花の目にはあっという間に涙がたまっていきます。


「あたしは、おばけじゃないもん」


 やがてそのひとしずくがまつげを伝って転がり落ちる瞬間、透き通った涙が深紅に色づき、花びらに変化しました。あとから溢れる涙も、小さく、深く暗い赤色の花びらとなって、はらはらと床に散ってゆきます。



「やあ、きみが百花ちゃんだね」

 ある日、身なりの良い商人が百花を訪ねてきました。商人はぷかぷかと大きな葉巻を吸いながら、にんまりとした笑顔で言いました。


「花びらの涙を流す、可愛い女の子がいると聞いて、ここまでやってきたんだ。どれ、ちょっと泣いてみてくれよ」


 そうは言っても、かんたんには泣けません。百花が困っていると、商人はため息まじりに煙を吐きました。あんまりにもけむたくて、百花の目にはじわりと涙が浮かびます。ひとしずくだけこぼれたそれが、うす黄色の小さな花びらに変わりました。


 それを見た商人は、大喜びしました。そしてお父さんとお母さんに言いました。


「これはすごい、大もうけできるぞ! 父上どの、母上どの。どうかこの子を、私に引きとらせてください。街で有名になれば、きっとお金持ちになれますよ。稼いだお金も送ります。百花ちゃんにも、裕福な暮らしをさせましょう」


 お父さんは、

「百花は村ではいじめられ、かわいそうな思いをしています」


 お母さんは、

「この子には、不自由なく暮らして欲しいんです。おねがいします」


 と、商人の手をにぎりながら、感謝の言葉をならべました。

 そのようすを見た百花もまた、この男の人についていけば、幸せになれるのだと思いました。


 そして次の日の朝、百花は家族に見送られながら、商人に手を引かれて村を出ました。

 


「さあ、今日からじゃんじゃん稼いでもらうよ」

 そう言って、商人は百花にかわいらしい洋服を買いあたえました。さっそく泣いてみろ、と葉巻の煙を顔にかけられましたが、目がうるむだけで、涙はこぼれてきません。困った商人は、百花に言いました。


「今までの悲しかったことを、たくさん思い出しておくれ」


 百花は村の子供にからかわれてきたこと、大人たちに辛く当たられたこと、たくさん思い出しました。


 道を歩けば、小石をぶつけられました。

 声をかければ、つきとばされて逃げられました。

 のろいがうつる、とぶたれました。

 むらはちぶだ、と山に引きずられたこともありました。


 心の中に、ちかちかと嫌な思い出がよみがえります。いつの間にかぽろぽろとなみだが溢れだし、紫いろの花びらが愛らしい洋服の上に舞い落ちました。


 ぱちぱちぱち! と激しく手を叩く音にはっとして、百花は顔を上げました。商人はとても嬉しそうな笑顔をたたえています。


「すばらしい! 舞台の上に立ったら、今みたいに悲しいことを思い出しておくれよ」


 しかし、百花は言いました。「いやよ。悲しい気持ちになんてなりたくないもの」


 すると商人は、花びらの一枚を拾って百花に見せました。

「いいかい、百花。きみの涙は、幸運の花びらなんだ。きみが涙を流すほど、おじさんも嬉しいし、みの家族も、楽なくらしができるってもんだよ」


 百花は、村に残した家族のことを思い出しました。

「あたしが泣いたら、みんなよろこぶ?」

「もちろん! きみのなみだは、みんなを幸せにするんだ!」


 だから、これはきみにとっても幸せなことなんだよ。百花はその言葉にうなずきました。



「さあさあお立ち会い! 世にもめずらしい花のなみだを流す少女だよ! この花びらには幸運を手にする力がありまぁす! 貴重なひとひらをぜひ手に入れてください!」


 それから、百花の涙を流す日々がつづきました。百花は泣くために、いろいろな方法を試しました。舞台に上がる前に、悲しい本を読んでみる。いじめられた時のことを思い出す。どうしても泣けない時は、商人に鞭で叩かれたこともありました。


 商人は、百花の花びらに高値をつけました。花びらは飛ぶように売れ、百花をひとめ見るために、見世には人が毎日のようにおしよせました。そしてあっというまに、百花はうつくしいお洋服に新しく住む部屋をあたえられ、まいにちお腹いっぱいおいしいものを食べられるようになりました。


 寂しさや悲しさは、小さなささくれのように、ぴりぴり痛みます。そのたびに、百花は自分に言いきかせました。


「でも、お父さんもお母さんも、これで苦労しなくて済むわ。あの子の病気を治すお金も出せるようになるわ」


 そして百花は、おいしいものをたべて、きれいなものに囲まれて、その痛みを知らんぷりしつづけました。



 やがて暮らしはこれ以上にないほど満たされ、百花はだんだんと泣くことがとても難しくなってしまいました。ある夜、商人にそれを告げると、彼は困り顔であれこれ提案してきました。


「村に残した家族のことを考えてごらん」

「寂しいけれど、あたしがいっぱい稼いだおかげで、きっとみんな幸せだもの。悲しくなれないわ」

「いじめられたことを思い出してごらん」

「今はもういじめられていないもの」

「いいから泣けっ」


 かっとなった商人にぶたれましたが、痛いだけで涙は出ません。代わりに、きっと睨みかえして言います。

「もうたくさん稼いだわ。あたし、村に帰りたい」


 すると商人は、意地悪く鼻を鳴らしました。

「ふん。お前にはもう、帰るところなんてありゃあしないよ。お前の弟は、お前が村を出てすぐ、かかりっきりで世話をする者がいなくなっておっちんじまったんだ! 金だって、あの親どもに送っちゃいないさ。なんせ、お前の分の稼ぎは、お前の食べ物や洋服を買うのにぜんぶ使っちまったからな。お前は、お前がぜいたくに暮らすために家族を捨てたと思われているだろうよ」


 でも、いいじゃないか。おどろきに目を見開いて、動かないでいる百花をよそに、商人は両手を大きく広げ、百花のかわいらしい部屋をぐるんと見渡しました。


「なんせ、お前は今、とっても幸せだろう。これからもずっと、こんな贅沢ができるんだ。もうかればもうかるほど、もっといい暮らしができるぞ。わかったら、とっとと泣く方法をさがせ。お前はここで満たされて生きるんだ。もうみじめな村むすめとはちがうんだよ」


 そして商人は、明日もたのむよ。と言って部屋を出て行きました。


 独りになった百花は、部屋のまんなかに座り込みました。不思議と、悲しいも、腹立たしいも、心にわいてくることはありません。ただ、トクトクと心臓の音と、口や鼻から空気がとおり抜ける音が聞こえてくるだけで、心と体がきりはなされたような、自分がからくりにでもなってしまったかのような気がしました。


「…泣かなきゃ」

 ぼんやりとしているうちに、ふと商人の言葉を思い出しました。泣いたら、これからも不自由なく暮らせます。涙を流すだけ、贅沢な暮らしができます。


 悲しくもないし、寂しくもないし、悔しくもないし、痛くもない。

 何も感じていないのに、不思議と涙は出てきます。

 くすんだ青い花びらが、月明かりの部屋に小さな影を落としました。



 それからというもの、百花は何も考えなくても涙が出せるようになりました。


 お客から笑えと言われたので、今では笑顔を見せながらなみだをこぼすことだってできます。


 踊れと言われたので、花びらをそこら中にふりまきながら、音楽に乗ってくるくる踊ります。


 商人は気を良くして、欲しいものはなんだって買ってくれました。幾度も幾度も百花に会いに来るお客もいて、誰しもから愛される百花は、みなから羨まれました。


 そうして幾月か過ぎたころ、百花は群がるお客のすみに、こちらを見つめるちいさな影を見つけました。百花と同じくらいのこどもです。

 その子はそれから、毎日のようにお客にまじって百花を見つめていました。他のお客とはちがって、じいっとまじめな顔をしてこっちを見続ける一対の目は、なんだか百花の心をざわつかせるのでした。そのことを商人に話すと、彼は二つ返事でそのこどもを追っぱらうことを約束してくれました。


 そしてその翌日、その子はお客の中から消えていました。ほっとしたものの、百花の心はなぜかまだ、ざわざわと落ち着きませんでした。


「どうしてこんなに、あの子が気になるのかな…」


 他のお客のように、百花を近くで見ようとはせず、でも、誰よりも、百花のことをじっと熱心なまなざしが、百花は忘れられません。なんだか二度と会いたくないような、もう一度会ってみたいような、よく分からない気分です。


 ふわふわのベッドの上で思い悩んでいると、窓のそとでがたん、と音がしました。びっくりして身を固まらせていると、月のうす明かりを背にして、小さい影が窓のふちに乗り上げてきました。どこかで見覚えのある姿です。


 その影はやさしく、こんこん、とガラスを叩きました。

「だ、だれ?」

「ここ、開けてよ」


 窓ごしのくぐもった声の主は、ちょんちょん、と窓の鍵を指し示しています。恐る恐る窓際に寄った百花は、その影の主がやけにみすぼらしい身なりをしていることに気づき、鍵を開けるのを迷いました。


「何もしないから、すこし窓辺に座らせてちょうだいよ。いいかげん、落っこちちゃいそうなんだ」

 そういうちいさな影は、たしかに足の指やら右手やらを、力いっぱい窓のふちにからませていて、すこし辛そうに見えます。


「わかったわ」

 そして百花はゆっくり窓の鍵を開けました。器用窓を引き開けた影は、窓枠に背を預けて座りました。光の影になってよく見えなかった顔が、はっきりと見えるようになりました。


「ふう、助かった」


 可愛らしい顔のその子は、髪が短く、顔や手足もうすぎたなくよごれていました。


「あたい、ちはなってんだ。よろしくね。あんたは百花だよね」

「この部屋には、お金なんてないわよ」


 問いかけには答えず、百花はそう告げました。するとちはなと名乗ったその女の子は、おかしそうに吹き出しました。

「だいじょうぶ、あんたからお金をぶんどろうなんて、思ってないよ。ただ、ちょっと話してみたかっただけなんだ。最近、追っぱらわれてお見世には行けなくなっちゃったし」


 その言葉に、百花はやっぱり、と思いました。やっぱりこの子は、あのまじめなまなざしの持ち主です。


「どうして、あたしをずっと見ていたの?」

 ずっと気になっていたことをたずねると、ちはなは肩をすくめて言いました。

「なんだか、かわいそうにみえちゃってさ」

「かわいそう?」


 百花は首をかしげました。だって、目の前のこの女の子の方が、ずっと貧しくて、かわいそうに見えます。そんな子から、自分がかわいそうに見えている理由がよくわかりませんでした。


 きょとんとしている百花に、ちはなはちょっと悲しそうに笑います。

「だって、ぜんぜん幸せそうじゃないんだもん。今のあんたもそうだよ。ぜんぶぜーんぶあきらめたみたいに、まっくらな目をしてるんだもん」


 そう言われて、百花はどきりとしました。とっさに言いかえしました。

「そんなことないわ。あたしには、なんでも買ってくれる商人がいるし、立派なおうちに住んで、好きなお洋服も着て、おいしいものだって毎日食べられるもの」


「理由をならべたって、幸せにはなれっこないよ。それにあたいは、あんたの持っているものはなぁんにも、ひとつだって持っていないけど、あんたよりずっと、幸せだと思うよ」

 やなことも、辛いことも、たくさんあるんだけどね。そう言って笑うちはなは、ちっとも辛そうに見えず、百花は言葉が出てきませんでした。


 どうして、こんなに満たされた暮らしをしているのに、この子の方が幸せそうなのでしょう。もう百花は、貧しくもないし、いじめられてもいないのに、かわらず、それどころか、村にいた時よりも、ずっとずっと……


「……あたし、苦しい。今の暮らしがとっても苦しいの。なにも感じずに、涙だけが出てくる毎日に、息が詰まって死んでしまいそう」


 それなのに、こんなに苦しい今は、涙は一滴も出てきません。


 うつむいて、お洋服の裾をぎゅっと握りしめていると、棒のように細い手が、百花の手くびをつかみました。ぎょっとして顔を上げると、ちはなが部屋に入ってきて、すぐ目の前にたっていました。


「じゃあ、逃げようよ!」

「えっ」

「だって、ここじゃ息がつまるんでしょ。あんたが苦しくないところを、探しに行こう!」


 あぶらとほこりでよごれた前髪からのぞく瞳が、うす暗い部屋の中でもわかるくらいに、きらきらと輝いていました。百花はごくりと息をのんで、けれどもやはり、少し怖くなりました。


「でも、商人にばれちゃったら……」

「かまうもんか、もう帰ってこなければいいのさ」

「あたし、独りで生きていけないわ」

「なに言ってるんだ。これからはあたいが一緒にいてやるよ。助けてくれる人だってたくさん知ってるし、びんぼーでもけっこう楽しく暮らせるさ」


 ちはなにかっと笑って、百花の手を引いて部屋を出てしまいました。連れられるまま、百花は夜の暗い廊下を、こそこそと駆け抜けます。


 ついに玄関までたどり着いたところで、後ろからゆらりと灯りがともされました。


「こらっ! なんだお前は!」


 振り返ると、商人がランプを手にずんずん近寄ってきます。


「ほら、行くよ!」


 あっという間に扉の鍵を開けてしまったちはなに引っ張られて、百花は裸足で外に飛び出しました。ころびそうになりながらも、ちはなに合わせて精いっぱい足を動かしているうちに、百花は風にでもなったような気分でした。


「待てー!」

 商人が大慌てで追ってきますが、追いついてくることはありませんでした。


「あはははっ、あのおっさん、すっごい怒ってら!」

「……ふふっ」


 ちっとも安心なんてできないはずなのに、ちはながあんまりにもおかしそうに笑うので、百花もつられて笑い声が漏れました。



 走って走って、二人は街を抜けだしました。


「もう追ってこないはずだよ。あんた、足だいじょうぶ?」

「あ…ほんとうだ」


 そう言われてはじめて、百花は裸足が傷だらけであることに気がつきました。痛いけれど、むしろ晴れやかな気分です。


「でも、平気よ」

「そっか。じゃあもう少し歩こう。見せたいものがあるんだ」

 手をつないだふたりは、街の灯りもとどかない夜の道を、てくてく歩きました。月も、星も、りんと澄んだかがやきをたたえて、ちいさな二人の影をぼんやりかたどっています。



 歩いて歩いて、ちはなが百花をつれてきたのは、海辺の小高いがけの上でした。離れたところに浜辺があります。


 やがて白み始めた水平線の向こうから、きらりと光が差し込みました。だんだん強くなるその光は、百花の冷えた体をやさしく温めてゆきます。


「ここ、おてんとさまが一番きれいに見える場所なんだ」


 ちはなは、まぶしそうに目を細めて言いました。

「嫌なことあっても、辛くて大泣きしても、ここにきておてんと様を見ると、あたい、生きててよかったなって思えちゃうんだ。だから、あんたにも見せたいなって、生きててよかったって思ってほしくて、どうやって連れてこようか、初めてあんたを見たときからずっと考えてたんだ」


 返事をするかわりに、百花はぎゅっと、ちはなの手をつよくにぎり返しました。目の奥がじわりとあつくなって、水平線がゆがんでみえます。


 やがてこらえきれなくなったように、透き通ったしずくは目からこぼれ落ちました。その瞬間、それはうす桃にいろづきました。


「今まで見たあんたの涙で、一等きれいだ!」

 嬉しそうなちはなに、百花はしぜんと微笑みを向けました。

「ありがとう。こんな気持ちで泣いたのは、はじめてよ」


 つぎつぎこぼれる花びらは、潮風にのって朝日に照らされた海のかなたへと舞ってゆきます。



 

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