サンカ―春夏秋冬―

餅の種

一之花

桜夢




 桜並木の間を、春風が通り過ぎていく。

 桜色の花弁が風に撫でられ、ふわりと空を舞った。

 それは儚い命の終わり、散り逝く花の、最期の時。

 だというのに……。

「きれい……」

 誰かが口にしたその言葉は、何よりもその情景に抱ける、素直な気持ちだった。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



    

 夢を見ていた。

 美しい桜の夢……きれいと語った誰かの言葉が甦る。

 それが誰の言葉なのかは思い出せないが、夢の中の人物のことを思い出す必要もないだろう。

 そして僕は目を開ける。

 無機質な病院の天井、身体に繋がった医療器機……意識はあれど、言葉は出ない。

 経緯は思い出せないけれど、僕は事故か何かでここに運ばれたんだと思う。

 運ばれてどれくらい経ったか……動くこともできないで、慌ただしく働く看護婦や、時折来る会社の同僚、その家族と話す日々を送っていた。


 話すと言っても、事故の影響で耳も悪くなっているから表情くらいしかわからない。

 でも悲しい顔をしている人もいたから、きっともう先も長くはないだろう。


 そんな退屈で、先のない自分にとって……さっきみたような桜の夢は、とても大切な心の癒しだった。 

 きれいな桜、また見れるものなら見たいが、蝉の声が聴こえる今の季節に見ることは叶わないだろう。

 それだけが少し、寂しかった。



 だからだろうか……僕はまたその夢を見た。 

 いつか桜をきれいと言った、その人の姿と共に。



「邦昌さんは、桜はお嫌いですか?」 

 桜並木の道を歩きながら、僕とその女性は語らっていた。

 邦昌と言うのは、僕の名前だ。

 その名を呼んでくれた、美しい着物を着こなした彼女の名前を、僕は知らない。

 これは夢なのだから、夢に見る彼女の名前を知らないのは当然で……でもそのわりにははっきりとした色彩が、僕の意識を明確なものにさせる。

 奇妙な夢だった。

 まるで現実のように感じられるけれど、これが夢なのだと、どこか自分で確信している奇妙な夢。

 僕はそんな中で彼女の名前を聞こうかと思ったが……夢の中の僕は、僕の意思には従わず、勝手に言葉を紡いでしまう。

「桜は好きだよ」

「でも、お顔が不機嫌そうですよ?」

「気安く笑えるものか」

 僕の言葉に、彼女はくすりと笑う。

「たまには、笑われてもいいのですよ?」

 舞い散る桜の中で交わされる会話は、どこか幻想的で、儚く……懐かしい。

 何故、僕は彼女と親しげなのか、彼女は誰なのか……それが分からないことが切なくて、談笑を重ねる夢の中、桜舞うその夢に映る自分と彼女の姿を……僕はただ、切なさと共に眺めていた。



 目が覚める。

 僕の顔に涙がこぼれた。

 懐かしく、悲しく、暖かな夢だった……でも、その感情が何故湧くのかが分からない……それがなにより切なく、もどかしかった。

 今日も、病室はつまらない。

 人は来ないし、看護婦もたまに来るだけだ。

 燻るような感情だけを抱いたまま、僕は無機質な病院のベッドを見上げていた。

 僕は、どうしてここにいるんだろう。

 考えるだけじゃ答えは返ってこない、身体も口も動かないんだから、誰も僕に答えてはくれない。

 本当に動けないのだろうか……。

 もどかしい感情に突き動かされるように身体を動かそうとする。

 でも身体は、決して意思に従ってはくれなかった。

 何度足掻いても、身体は微動だにしない、天井を見上げるばかりで景色は動かない。

 動かない身体、言葉にならない声……途端、自分がただただ、一つの物に成り下がったように感じて、虚しくなって、その悲しさにまた僕は、涙を流した。

 そうして昼となり、夜となり……何かをすることもできないまま僕は眠りに落ちて。



 ――また、桜の夢を見る――



「昌邦さんも、行かれるのですね」

 桜が舞い散る中、寂しげに彼女は微笑んでいた。

「はい、今、自分がやらねばなりません。それに親友も皆、向かいましたから」

「どうかご無事で」

 桜吹雪が、二人に降り注いでいた。

 夢の中の僕と彼女は、互いにじっと見つめ合い……そして、別れた。 

 彼女は桜並木を歩く僕を悲しげに見送り……僕は涙を堪えて、桜並木の間を歩いていた。

 散り逝く桜。

 美しい桜。

 それを見て、きれいだと動いた彼女の唇が懐かしく、その名を呼んだ日が、懐かしくて……。

 ああそうだ、彼女の名は……。



 そして、僕は目を覚ました……。

 そこには、いつものような無機質な病院の天井……。

 夢の中の彼女の名前だけが、僕の中に残っていた。

 忘れてはいけない、これは、忘れてはいけない。

 彼女のことを、決して失ってはいけいから。

 だから僕は……その人物が僕の隣に立っていた時、驚きと、大きな喜びを抱けたのだろう。

 それは、夢で見た彼女……そのままの姿だった。

 着物ではなかったけれど、それでも美しいその姿を、決して見間違うはずはなかった。

 あぁ……今、声を伝えられたら……。

 この口が動くなら。

 僕は彼女に声をかけようとするけれど、言葉にならない。

 掠れた声だけが、喉から溢れた。

 でも、伝えなければならない、そうだ、伝えなければならないのだ。

 ただただ意思を込めて、唇を動かそうとする。

 それを見て……彼女は、笑顔を浮かべた。

 あぁ、伝わった。

 きっと、伝わったのだろう。

 そう思った時に、ふ、と、僕の中の何かが抜け落ちた気がして……。



 夢を、見ていた。

「お帰りなさい」

 桜並木を歩く僕を、彼女が出迎えてくれた。

 そうだ、全て終わった。

 悲しいことも、辛いことも、全ては終わって……あとは彼女とまた、歩んでいくんだ。

「ただいま帰りました、三枝さん」

 寄り添うように歩く彼女と僕を、桜吹雪が包んでいく……。

「きれいですね」

「ええ、本当に」



 そして、僕達は……。







──────────────



───エピローグ───



 看護士さん達が、慌ただしく病室を行き来していた。

 ここは私のお爺ちゃんの病室。

 お爺ちゃんは昔に戦争に行った事のある人で、とてもしゃきっとした人だったのだけど……数ヶ月前に脳卒中で倒れ、寝たきりの状態になってしまっていた。

 脳をやられたから、戦後に勤めた会社の同僚と家族を間違えたり、自分のことも忘れかけたりと、酷い状態になっていたらしい。

 私はそのお爺ちゃんが元気だった頃に可愛がってもらってて、よく、死んだお婆ちゃんの事を話してもらえていた。

 私はお婆ちゃんの若い頃にそっくりだっていってくれていたことを覚えている。

 お爺ちゃんと話した頃の記憶が、今さらのように胸を過ぎていく……。

 最後に私を見て、なにかを話したようだけれど……お爺ちゃんは何を伝えたかったのだろう。




 窓の向こうから、蝉の声が聞こえて来る。



 初夏、夏の始まりを謳う蝉の声は……お爺ちゃんの好きだった春の季節を、遠く彼方へと運んでいくような気がした。





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サンカ―春夏秋冬― 餅の種 @_daihuku_

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