第5話

 紗菜はあれから三日間、有給休暇だと言って会社を休んだ春と共に過ごした。

 一人でいると気が滅入ってしまいそうだったが、人がいる空間は落ち着く。何か話すわけでもなく、一緒に出かけるわけでもない。二人ですることと言えば食事をとることぐらいだったが、春が側にいてくれたおかげで気が紛れた。

 和菜を失った傷は、まだ癒えそうにない。それでも、紗菜の心は落ち着きを取り戻しつつあった。

 そして、瞬く間にやってきた四日目の週末。紗菜は、春と共に美術館の前にいた。


「恋人とね、一緒に行こうって約束してたんだけど。……こういう場所、苦手でね。結局、行かないままだった」


 春の声には、後悔が滲んでいた。

 紗菜はかける言葉を見つけることができず、口をつぐんだまま歩く。現代アート展と書かれた看板の前を通り過ぎ、入り口で春が二人分の料金を支払う。


 館内はそれなりに人がいたが、静寂に包まれていた。紗菜と春は熱心に展示物を見る人々に交じり、館内を回る。

 展示されているのは、色とりどりの線が交わった絵、穴の空いた何か、動物のようなもの。

 春が眉間に皺を寄せながら、小さな声で言った。


「……面白い?」

「私はちょっと……。こういうの、よくわからなくて」

「私もまったくわからない」

「芸術って、難しいですね」

「そうだね。でも、一緒に来れば良かった」


 キャンバスに塗料をこぼしたような絵の前で、春が力なく笑った。紗菜は、叶うことのなかった世界を口にする。


「一緒に見たら、面白かったかもしれませんね」 

「本当にそう思う?」


 春が眉根を寄せ、疑わしそうに尋ねてくる。


「すみません。やっぱり、面白くないかも」

「だよねえ」


 そう言って、春が最後の展示に背を向けた。二人は展示室から出ると、人がまばらなエントランスホールのソファーに腰掛ける。

 春が背もたれに背中を預け、コートのポケットに右手をいれた。大きく息を吐き、紗菜を見つめる。


「本当は、何回かここに来ようとしたんだけど、一人じゃ無理だった。一緒に来てくれてありがとう。美術館に行くって約束、叶えられた気がする」

「私は恋人じゃないですよ」

「それでも。そんな気がするから、それでいいの。それに、山鳥さんのおかげで、楽しいって気持ちが思い出せそうな気がしたから」


 エントランスホールの天井を仰ぎ見て、春が微笑んだ。

 紗菜は、それを嬉しく思う。そう感じられる程に、春と過ごした時間は心地の良いものだった。紗菜も春と同じように、背もたれに背中を預ける。硝子張りのエントランスホールからは、外の景色がよく見えた。


 今日も和菜が消えた日と同じように、街には雪が降っている。それは、紗菜に和菜の最後を思い出させた。

 あの日、叶えられなかった約束のかわりに何かできることが欲しいと願う。

 どんな小さなことでもいい、自分にできること。

 紗菜は、頭に浮かんだものを言葉にした。

 

「高瀬さん。私、早く笑えるようになろうと思います」


 それは紗菜にとって、和菜が聞いたら喜んでくれそうだと思えるものだった。


「いいね、それ。私は楽しいこと、たくさん見つけようかな」

 背もたれに寄りかかっていた春が体を起こして、紗菜を見た。

「最後のお姉さんの顔覚えてる?」

「笑ってました。いつもみたいに」

「きっと幸せそうな顔、覚えていて欲しかったんだろうね」

「絶対に忘れません」


 紗菜は左手をコートのポケットに入れると、中に入れておいた小瓶を握りしめた。


「高瀬さん。また二人でここに来ませんか?雪になる前に」

「そうだね。また来よう」


 春が立ち上がり、手を差し伸べる。紗菜はその手を掴むと、春に引っ張られるようにして立ち上がった。繋いだ手から春の体温が流れ込んでくる。その温もりは、紗菜を穏やかな気持ちにさせた。

 手を繋いで外へ出ると、ふわふわと雪が落ちてくる。

 紗菜は、降り続く雪に今度こそ後悔のないように約束を叶えようと誓った。

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雪降る町の消失簿 羽田宇佐 @hanedausa

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