第二話
「す、すみません」
彼女に手を握られたまま、いくつもセクターを抜けて行く。すれ違う度、その人たちは点検をやり直さなくちゃいけないんだと場違いな申し訳なさを抱いて、何度も何度も平謝りしていた。
そんな僕に構う様子もなく、彼女はカンカンカンと規則的な足音を響かせた。決して音の出やすい床でもないのに、嫌に強く耳に飛び込んでくるのはなぜだろう。これまた場違いな疑問だったけど、そういう場違いな何かでも考えていないと頭がどうにかなりそうだ。分からないことが多過ぎて手に負えない。
「なんで謝るの?」
「だって」
「あれを気にする必要なんてないのに。ね、どうして?」
「あれ、って。そんな物みたいな」
どうやら彼女には、僕以外の人はどうでもいいものとして映っているらしかった。困ったことに、僕自身も強く否定する気にならなかった。何度もすれ違って会釈はしたけど、こうして手を握って一緒に走るなんてことは一度もなかったから。彼女のひんやりとした手の平は、僕が生まれて初めて感じた、僕以外の人間の温度だったんだ。ぴちゃりと、おそらく外で降っているらしい雨の水が付いたものだって、僕には初体験。
それらは新鮮で、少し恐ろしくて、興味をそそる。外ではもしかして、手を握ることが日常的に行われていたりするんだろうか。彼女のように息づいている人がいて、ファーザーのような存在もいて、そのくせ天蓋がなかったりする。それでも周囲は汚染された、何色だかも分からない大地が広がっているか、ずっと昔の人間の痕跡が転がっている。この天蓋の街とはまるで違う作業に毎日従事して、廊下ではない場所を歩いていく。そんな心躍ってしまうような場所なのだろうか。考えるほどに頭がぐちゃぐちゃになって、なのに背中がぞくぞくした。
走ることしばらく。セクターH0、ちょうどど真ん中のその場所に着くと、彼女は僕の手を握ったまま振り向いた。
「さ。始めよう」
「何を?」
首をかしげる僕を見て、彼女はにんまり笑った。
「せかいを壊すんだよ」
突然、彼女が恐ろしくなった。なぜ、と問うことも出来ず、僕は手から伝わる冷たさに身震いしながら、踵をずるりと後ろに動かしていた。
「このセカンダリを壊そう。他のセカンダリも壊そう。いつかプライマリに辿り着くまで、全部のせかいを壊そう。私にはそれが出来る。だって致死毒だもの。だから許可を頂戴? 世界の心臓」
そうだ。ファーザーに知らせなくちゃ。彼女は多分、ファーザーにとって危険だ。ファーザーは僕をこれまで生かしてくれた。僕だけ何もしないなんて許されない。
僕は、おそらく生まれて初めて、声の限りに叫んだ。
「ファーザー! セクターH0に侵入者です!」
「ちょっ」
叫んだ直後、彼女は僕の手を離し、僕は後ろに飛び退こうとしてどさりと倒れ込んだ。飛び退き方なんて分からなかった。立ったままの彼女が嫌に大きく、怖く感じられて、まるで動けなくなった僕の前に、ファーザーのボットが割って入ってくれた。
『セクターH0、侵入者の存在を確認しました。フロアパネル3番から5番開放、防衛ボットによる排敵を実行します』
「もう! 意気地なし!」
見るや、彼女は意外なほどあっさりと逃げて行った。きっと追い回されている内に外まで放り出されるはずだ。
だけど、僕は彼女が逃げてしまったことが残念でならなかった。ボットに叩かれたりすることを望んだわけじゃないし、その逆も嫌だけど、彼女には逃げてほしくないと感じていた。僕の人生に劇的な何かを放り込んだのに、放りっぱなしで行かれたことが嫌だった。
『では、あなたには指示に背きここへ来た理由を求めます』
残っていたボットから声がして、僕はその質問に至極正直に答えた。興味をそそられたことから彼女との会話まで、覚えている限りのことを伝えた。怒られるかと思ったけど存外そんなこともなく、どうやらファーザーはただの報告として受け取ったらしい。
そのまま何事もなく部屋に戻って、いつも通りに食事を取って、いつも通りにシャワーを浴びた。まるで今さっきのことがただの夢だと言うかのように。僕は今日、いつも通りに点検業務をこなして、いつも通りにここまでを終わらせた。どこのセクターにも大きな異常はなかったし、地上ゲートも何ともなかった。僕の人生に劇的なことなんて起こらなかった。これからの人生にも。これまでもこれからも、いつも通りの日々が続いて行く。ファーザーと僕と、すれ違って会釈だけ交わす人たちと、ファーザーのボット。それだけが僕の人生に登場する。何もないんじゃない、何事もない日々。
『全体警報。セクターA11より浸水が拡大中。セクターA11の修復優先度を3へダウン、対浸水プロトコルの実行優先度を1に設定。セクターAに属する全エリアの隔壁を閉鎖し、これよりセクターAへの接近を禁止します』
何かあったとしても、ファーザーが守ってくれる。僕は何も危険に遭うことはなく、ただ日々を生きて行く。ファーザーさえ信じていればいい。そうすれば、普通の日が流れて行くだけなんだ。
だけど、なぜだろう。なぜ僕の手はこんなにも冷たいのだろう。濡れたものに触ったから、なんてわけもない。シャワーならさっき浴びた。じゃあ、シャワーから出たから。これもおかしい。だったら片手だけじゃなくて両手が冷たいはず。
「手」
手。
彼女の手はどうだったろうか。たしか、とても冷たかった。なのにその手を振り解く気にはならなかった。冷たさが心地よかった。初めて握った誰かの手はあまりに冷たくて、ずっと握っていたくなるものだった。
今はただ、彼女の手をもう一度握りたい。
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