第一話
平凡で退屈な日常、と言うらしい。
朝起きて、身支度を整え、食事を取り、部屋から出て廊下を歩き、既定の労働に従事し、廊下を歩いて部屋へ戻り、食事を取り、シャワーを浴び、寝る。この繰り返しのことを、大昔は平凡で退屈な日常と呼んだらしい。
違う点があるとすれば、その頃は娯楽、とか、とりあえずそう呼ばれるものがあったくらいだろうか。電光パネルは情報を映すだけのパーツではなく、毎日のように何か劇的な楽しみを提供していた、らしい。聞いただけのことを信じる気はないけど、それだけのものがあったなら、まず退屈でも平凡でもなかっただろうと思う。
『おはようございます。本日の点検エリアは、セクターA8からセクターA12です。セクターA11には封鎖中の地上接続ゲートであるゲートβが存在します。通常のセクター点検の他、ゲート点検用マニュアルに従って作業を行ってください』
「イエス、ファーザー」
カメラとスピーカーしか僕らの目に映らない、毎日の労働を指示するだけの機械。だけど、このファーザーが僕らの全てを保証している。同じように点検労働を指示された全員の食事と生命を約束している。汚染された地上で僕らは生きていられないし、食べ物も得られやしない。
こうして生活する以外の方法はないだろうし、そんなもの、僕は知らない。気付いた時にはこうして生活していたんだから、当然と言えば当然。ファーザーの指示に従って、ファーザーに生かしてもらう。そうして成り立っている。この壁と天蓋の外と内で、人も物もやり取りはない。ファーザーがいれば十分生きていられる。
だから僕らは今日も従事する。ファーザーの言う通りの場所で、ファーザーに言われたように点検を進める。他の部署では、例えば食糧生産プラントだとか、エネルギープラントだとか、そういった場所で働くこともあるらしい。僕は僕に定められた、外壁点検業務を粛々と進めて行く。
「セクターA8、点検終了。異常なし」
『セクターA8点検終了を確認しました。続いてセクターA9へ進んでください』
この壁の外は汚染された地上。汚染ってつまり何なのか、そんなことは知らない。僕に分かっているのは、地上は人が住めないほど汚染されているってことだけで、たったそれだけでもここから出ないでいるには充分な理由になる。この天蓋の街だけが、僕の全てだ。
「セクターA9、点検終了。第25外壁パネルに摩耗を確認」
『セクターA9点検終了を確認しました。報告のあった箇所へ修復ボットを派遣します。続いてセクター10へ進んでください』
僕と、ファーザーと、行き会って会釈だけ交わす人たち。壁と天蓋と床。それだけが全てで、それ以上が必要ないことは、ずっと前から分かっている。
いつかまで生きて、いつか死ぬ。人はそのために生きているんだと思う。つまり僕は、この点検作業という唯一僕に与えられた仕事をこなしながら、いつか死ぬために生きている。そんなものだ、と、思う。
「セクターA10、点検終了。セクターA11への隔壁が壊れています」
『セクターA10点検終了を確認しました。セクター11に大規模異常を確認したため、セクターB10からセクターB12を経由してセクターA12へ向かってください』
ファーザーがこんな風に言うのは珍しい話じゃない。危険から遠ざけてくれているんだ、って、安心感に浸ることも出来る。いつもなら従っているはずだった。
だけど、僕は。僕は行かなければいけない気がした。セクターA11へ。ファーザーが遠ざけた、隠した場所へ。理由はいくらでもある。例えば、セクターA11への扉が少し壊れていて、その先から人の声が聞こえるだとか。良く分からないノイズのような音も響いているだとか、なんだかひんやりする風が吹いているだとか。いくらでも理由は付けられたけど、僕はただ、そこに行かなければいけない気がしたんだ。
「Rain, rain, go away. Come again another day.」
わずかに聞こえるそれが何なのか分からないけど、とにかく人の声であることは確かだった。吹き込む風の冷たさも何故なのか知らないけど、とにかくそこへ行きたいと思ったことだけが確かだった。
「I wants to play. Rain, rain, go away.」
この日からずっと後になって、僕はこの日を最高の一日と呼び、同時に起こらなければよかった一日だと呪うことになる。
壊れた扉の先で、もう一枚の壊れた扉と、鉛色の肌を持った少女が出迎えた。ゲートβの代わりに大穴が空いていて、強い風と共に水玉が大量に吹き込んでいた。それが雨、とかいうものだと思い出すのに、かなりの時間が必要だった。
「君、誰? 外から? それともまさか、中からこの穴を? 地上は汚染されて」
「You wants to play?」
彼女は僕の言葉を遮って、突然に良く分からない疑問を投げかけて来た。ファーザーとしか会話をしてこなかった僕は、その意味を推し量ることもせず正直に答えた。
「遊ぶって、何?」
「hmm…」
答えを聞いて、彼女はどこか満足そうに笑った。
「やっと見付けた」
僕は彼女に目を奪われていた。良く分からないけど、ただただ目が離せなかった。彼女が美しいからとか、外から来たのかもしれない人が珍しかったからとか、そんな程度じゃ断じてない何かが、心の奥から湧き上がって来ていた。
同時に、彼女から目を離したくて仕方なかった。ずっと見詰めていることが耐えられなかった。彼女と目が合うとどうしようもなくお腹の中がざわついた。相反する二つの感情の間で、僕はどうすることも出来なくなっていた。
「お待たせ。さあ、行こう? 世界の心臓」
「え、あ」
世界の心臓、と言うのが、僕のことを指しているらしい。それに気付くにも時間が必要だった。おずおずと自分を指さすと、彼女はにんまりと笑って。
「君を止めに行かなくちゃ」
僕の手を取って、走り始めた。
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