第四話

 中にあれだけ水が溜まっていることを前提にすれば、雨は存外穏やかだ。いつぞやシャワーが壊れた時みたいなとんでもない勢いかと思っていただけに拍子抜けとも言える。そんなことを、空を眺めながらぼんやりと考えていた。顔にぺちぺちぶつかってくる雨粒に少しだけ辟易しつつも、初めて見た空から目を離せない。

 隣では彼女が同じようにして座っている。滑り落ちないようにか腰に回された腕は、背を預けるには少し硬いけど、確かな安心感があった。


「どうして、世界を壊すの?」


 しばらくの沈黙を経て、僕は最初にそう質問した。何を聞けばいいのか分からないから、手近にあった疑問をぶつけるようにして。


「今のせかいではね、誰にでも何にでも、やらなきゃいけないことがある。私にとってはせかいを壊すことがやらなきゃいけないことなんだよ」

「やらなかったら?」

「たぶん、今のせかいがもう何百年か続くんじゃないかな」


 続いてはいけない、ということなのだろうか。追って浮かんだ疑問に答えるように、彼女は続けた。


「私は続いてほしくない。いつか死ぬために生きるせかいなんて辛過ぎる。壊せば変わるのかなんて分からないけど、悪くはならないって信じてる」


 僕にとっては正解だと思うその生き方を、彼女は辛いと言う。いつか死ぬまで、ファーザーの言葉に従いながら生きる。それこそが正解だとずっと思っていた。ファーザーに多少なり疑問を抱いた今でさえ。

 あるいは今よりずっとファーザーを疑うようになれば、僕も彼女と同じ考えに行き着くのかもしれない。そう思うと、彼女がまた恐ろしく見えた。


「出来る?」

「分からない。でも」


 だけど、彼女と同じものが見られるのなら。


「君がそうしたいなら、今は頑張れる、と思う」

「分かった。じゃあ行こう」


 また、彼女に手を取られる。昨日初めて握ったその手は、握られた僕の手へ強い安心感を抱かせた。あるべき場所にあるとでも言おうか、とにかくそんな感覚。僕に笑いかける顔を見てむず痒くなって、手から伝わる冷たさで頬が緩む。今鏡を見たら、僕は相当変な顔をしているんだろう。

 浸水箇所を抜けると同時に彼女は走り出し、僕も同じように走る。彼女は軽いステップを踏んで、僕は全力で。遅れそうになると緩む足取りが優しくて、今しがた感じた恐怖は簡単に消えて行った。


「何をしに行くの?」

「ここを壊すんだ。君を騙していた機械をね」


 僕ではない誰かに、それも彼女に言われたことで、ファーザーがついていた嘘が頭を駆け巡った。平凡でないもの、外にいた人、人は会釈以外も出来ること、冷たい手の温かさ、そして外の世界の色、色、色。何一つ本当のことを教えてはくれなかった。


「私はそれが出来るけど、君が許してくれないとダメ。ここから出るために、君自身の選択でここの全部を壊すの」


 選択、という言葉に眩暈がした。僕はずっとファーザーに従ってきた。逆らったのだって昨日が初めてで、今更ながらにそれを僕が選択したのだと思い出されて目が回りそうだ。昨日それをしたばかりの僕が、今さらに大きな選択をしようとしている。その事実が頭の奥深くをじんわりと痺れさせて、思考が追い付かない。

 本当にそんなことをして良いのか、ファーザーに怒られはしないか、彼女に従うのも間違いだったりしないか。痺れ切った頭の中で、そんなことばかりがぐるぐると回っている。次第にそれすら考えられなくなって、今何をしているのかすら分からなくなる。


「大丈夫」


 手が、ぎゅっと握られた。

 冷たさが一層伝わって、ゆっくりと頭を冷やす。声が駆け巡って、その言葉だけで埋め尽くす。どこか危険な予感すらするほどに僕を濁しながら、いろいろなものを洗い流してくれた。最後には彼女だけが残って、僕の中をぴったりと満たしていった。

 もたついた足を踏み直して、最後の扉を潜る。一度は彼女を拒んだその場所は、今日も何も変わらない灰色だ。


「着いたね」


 セクターH0。中心に巨大な機械、ファーザーの本体を擁する、天蓋の街の心臓部。彼女はここを壊すと言う。

 考えるほど、やっぱり眩暈がした。その破壊は僕の選択で、僕が壊すと決めたから実行される。逆らうどころか壊す。あまりにも大それた行動に脳味噌が揺さぶられる心地がした。視界が歪んで、まっすぐ立っているかも分からない。それでも彼女の言葉は、僕の背を押してくれた。


「頑張れる?」

「うん」


 震えながら頷くと、彼女は背中のジッパーを下ろし始めた。僕が着ているのと少し形が違うらしいスーツの背中が開けられ、鈍色の肌が顔を覗かせる。その中心辺り、ちょうど僕の手と同じくらいの大きさだろうか。手の輪郭を描いたような筋がある。


「手形があるの、分かる?」

「右手みたいなこれ?」

「そう。あれを壊せると思ったら、そこに手を添えて。そうすれば君の怒りが、終わりを始めてくれる」


 何度か、あるいは何十回か、はたまた一度も出来ていないか、深呼吸をして手を開いた。これは僕の選択になる。その事実に兎角押し潰されそうだけど、頑張ると言ったことを嘘にしたくない。

 幾ばくかの後、震える手を、彼女の背に添えた。


『認証コード確認。さいごのきかい最終プロトコルを発動します』


 終末は、ファーザーの声から始まった。

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