第三話
朝起きれば、また平凡な日常が始まっていく。昨日のあの瞬間まで僕の全てだった生活が、今は確かに退屈な日常らしいと分かってしまう。どうにか忘れようとしたけど、そう都合よく記憶からなくせるはずもなく、ざわざわする胸の中を塗り潰し切らないままでいた。
『おはようございます。本日の点検エリアは、セクターD17からセクターD20です。なお、セクターAに属する全てのエリアは対浸水プロトコルを実行中です。立ち入り及び接近を禁止します』
あの時ファーザーの言うことをちゃんと聞いていたなら、こんな思いをすることもなかったのに。今更後悔しても遅い。この世界には劇的な何かがあると知りさえしなければ、僕は今日、何を思い煩うこともなかった。ただの事実であってやり直せることじゃない。ファーザーのせいではなく、あくまで僕の責任だ。
いっそ、叱ってくれたらいいのに。言うことを聞かなかった僕をこっぴどく叱ってくれさえすれば、多少は気が晴れる気がした。何も言ってくれないファーザーを、僕は生まれて初めて、恨めしく思った。
一つそんな風に思うと、あとは何だって嫌に感じられた。平凡じゃないものがあると教えてくれなかった。外に誰かがいるなんて聞かされなかった。人は会釈以外のことも出来るって分からなかった。鈍色で冷たい彼女の手が、ファーザーといるより温かいなんて知らなかった。何でも教えてくれていたはずのファーザーは、本当は何も教えちゃくれなかった。僕はこの世界のことを何一つとして知らなかった、その事実がどうしても悔しかった。
「セクターD17、点検終了。異常なし」
『セクターD17点検終了を確認しました。続いてセクターD18へ進んでください』
だけど、それで何かあるわけでもない。地上で生きることなんて出来ない。ファーザーがいるここで過ごすしかない。天蓋の下で死ぬまでやっていくしかない。僕はファーザーがいなくちゃ。
本当に、本当にそうだろうか。
ファーザーがいないと本当に生きていられないだろうか。天蓋の外では必ず死んでしまうだろうか。天井も壁もない世界で、死ぬために死ぬしか出来ないのだろうか。死ぬために生きることすら出来ないと、本当にそうなのだろうか。静かなノイズを響かせる雨と、肌をさわさわと撫でて行く冷たい風と、それらで彩られた彼女を見てもなお、僕はファーザーがいないと生きていけないだなんて、本当に考えて、諦めていられるだろうか。
いつの間にか走り出していた。誰に手を引かれることもなく、自分の意志で、自分の足で床を蹴っていた。知りたかった、確かめたかった。ファーザーは決して何かを隠していたわけではないと、僕が聞かなかっただけだと信じたかった。セクターAの扉の前まで来て、僕はこれまた、おそらく生まれて初めての覚悟を決めた。
「わぷっ!」
強制開錠ボタンを押して扉を開く。ざぶりと流れ込んできた水に足を取られ、倒れて、全身びしょ濡れになって、それでも進む。這ってでも進む。
隔壁を開ける度そんな様になりながら、僕は無性に楽しくなっていた。バシャバシャと跳ね上がる水が心地いい。膝まで溜まった水だなんて初めてだ。頭からつま先まで、服の内外を問わずぐっしょり濡れて、その上からさらに水を被って、時折壁に向かってぶちまける。この楽しさをずっと知らずにいたなんて、随分ともったいないことをした。
流れてくる水を辿りながら行き着いたのは、彼女との出会いの場所。大穴でしかないゲート跡から今も少しずつ水、おそらく雨水が寄せている。滑る足場を慎重に、はやる気持ちを抑えて進み、僕は初めて、これだけは何が何でも初めて、間違いなく生まれて初めて、外へ出た。
「ファーザーは、嘘つきだ」
頭上に鈍色が広がって、眼下に緑が続いている。全身に強く打ち付ける水玉はその強さと裏腹に祝福しているようで、どこまでもどこまでも壁のない世界が、手招きするように出迎えてくれた。ついさっきまで僕の全てだった天蓋は今この瞬間、僕の全ての幾らも占めないちっぽけなものになり下がった。灰色だけの世界は終わりだ。僕の世界には、緑色も、鈍色も、焦げ茶色も、何だってある。目の前にきらきらと広がる何もかもが僕の世界だ。僕の生きる世界だ。
雨とは違う水が顔を濡らし始めた。どうやら目から出ているようで、色がちゃんと見えなくなって少し疎ましく、確か涙とかいうそれを流せることが狂おしいほどに嬉しくなる。僕は今、間違いなく生きている。その実感になる。
「風邪ひくよ」
「わっ!?」
突然横から声がして、飛び上がると同時に転がりそうになる。彼女はまるで予想していたように僕の背を支えた。空と同じ鈍色の腕は、硬く強く、抱え起こしてくれた。
「来ると思ってた。君はそういう人だから。座った方が良いよ。立つには危なっかしいもん」
壊れた外壁の縁、二人並んで座る。彼女に訊きたいことはたくさんあって、あり過ぎて口が動かない。ようやく零れた質問も、問う意味があるか分からないもので。
「外がこんなだって、知ってたの?」
「うん。君が生まれるよりずっと昔から」
「僕が?」
「そうだよ。君が生まれるよりずっと昔から、君が何度もいなくなるくらい」
僕の方を向きながら、僕じゃないものを見ているかのように、寂しそうに笑った。そっと僕の頬に添えられた手は昨日と同じように、冷たいのに、温かい。
「さあ、せかいを壊しに行こう。今度はきっと大丈夫」
言い終えると、彼女は静かに僕を引き寄せて、額に口を押し当てた。
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