第六話
ぬるり、と、それは僕の足を緩く掴んだ。
土だか砂だか言葉しか知らない僕には判別がつかないけど、とにかく茶色の地面はべちゃべちゃと一歩ごとに沈み込む。草が生えて緑が強い箇所なら比較的マシと気付いたのは、数回足を取られて転がった後の話だ。灰色だったジャンプスーツも茶色く染まり、顔や手には小さなぬるぬるした物がへばりついている。天蓋の外はいつもこうなのだろうか。だとすれば早めに慣れた方が良いのかもしれない。
何せ、もはやその残骸すら満足には見えていない。地面と同じ色をした、これまた初めて現物を間近で見る木々に視界は覆われていて、雨と合わさって幾層ものフィルターを通したようだ。あの場所へ戻ることは二度と叶わないだろうと、理屈よりも直感で理解していた。
とは言え何をどうすればいいのか。こうして歩いている間はともかく、寝るにはベッドがなく、食べるにもミールキューブがない。まさか地面で寝るなんてわけにいかないし、ましてや周囲に食べ物なんて全く見当たらない。小さいとはいえ、これだけ不規則な形状ばかりの中で立方体のキューブを見落としはしないだろう。
どうしようもないことだけ確かで、ひたすらに歩くだけ。一歩たりとも同じ風景に出会うことはなく、場所を示す記号もなく、緑と茶色の空間がこれでもかと続く。通路らしき箇所も見当たらず、延々と木の隙間を抜けるしかない。初めの内は目新しさに心躍ったが、ここまで何も代わり映えしないのではむしろ、目古い、とか言い換えた方が正しいように思う。
そんな中でも驚いたのは、濡れたままでいる辛さだった。服の内側に水が入って気持ち悪いし、瞼に落ちる水滴で視界も遮られる。一歩ごとに髪から腕から指から、いたるところから新たに滴る雫にもそろそろうんざりだ。初めて見た雨は綺麗で素晴らしいものに映ったけど、こうまで打たれ続けると嫌気が差してくる。
いろいろと耐えながら歩き続け、ついに天蓋だった物が雨の向こうに見えなくなった頃、しばらくぶりの灰色に出会った。コンクリートに似ているけど少し違う。石とかいう代物だろうか。僕が二人縦に並べるような高さで、そこらの木々より上まである。ともかくも、灰色を見て少なからず安堵した。安堵すると同時に後悔が込み上げてきた。こうして灰色を見て安心するくらいなら、僕は決断なんてするべきじゃなかった。今この場でファーザーに叱ってもらえたらどれだけ良いか。もはや期待することも出来ない夢に、重ねて悔いが沸き上がる。
気が滅入る状況に心情も加わって、劇的な全てと思えた外の世界が何のことはないつまらないものと感じられ始めた。結局のところ僕は何も知らなかっただけで、彼女に上手い事利用されただけなのではないか。つまらない色彩に比べたら灰色一色の安穏も何ら悪くない。そこから引っ張り出した彼女は、本当は僕を騙していただけだったりしないか。ファーザーは確かに嘘をついたけど、果たして騙すための嘘だったのか。脳裏には薄赤の上で踊る彼女の姿が浮かぶ。狂っている、と僕に思わせたあの光景。
考えてみればおかしな話だ。天蓋を壊して中に入って来たのに、僕の味方だとか、安全だとか言うわけがなかった。きっとあの姿も僕を騙すために取っているもので、内側はガチャガチャに詰まった機械の塊なんだ。でなければ人が死んで踊るなんて出来るはずがない。
言い聞かせるようにして、もう一つの後悔を抑え込もうとした。僕はやっぱり彼女の手を取るべきだったんじゃないか、と。少なくとも直感に従っていたならこうして一人ではいなかったはずだ。狂っている、そう思ったとも。でも、僕は彼女だけが狂っているのかどうか判断出来ていない。同じようにファーザーが狂っていないとも分からない。そう考えたから、僕は彼女に従って決断したはずだった。
彼女が正しい、とはもう思わない。だからこそ、何が正しいとも思っていない。強いて言えばそんな状態で決断した僕が間違っていた。歩き続け考えに考えを重ねて、引っ張り出せたのはその程度のものだった。
二つの後悔が頂点に達した辺りで僕の足は動かなくなった。どれくらい歩いたのか、少なくとも天蓋の瓦礫は全く見えないし、身の丈の倍ほどもあった石も位置が分からなくなって久しい。ここまで歩いてきたことで、天蓋へは本当に帰ることが出来なくなった。安心したような不安になったような、しかし僅かながら達成感すらある。
何にせよこれ以上動けないことは確かで、例え脚が動かせたとしてもしばらく前から続く眩暈で立っているのも難しくなりつつある。体中が末端から徐々に冷やされ、手足の指はすでに感覚がないに等しい。濡れる度シャワーを浴びるよう指示が降りていたのはこういう理由だったのかもしれない。その後はすぐ寝るように言われていたっけ。今はシャワーなんてないから、とりあえず寝るのが先決のはずだ。
ばしゃりと横に倒れてみると、予想以上に柔らかい地面に受け止められて一気に睡魔が襲ってきた。ベッドがないからと困っていたけど、この分なら何も問題なさそうだ。体に当たる雨滴も心地よくて、実は睡眠に最適な環境なんじゃないかとも思えてくる。
横になって、ほんの数十秒。僕の意識は暗く塗り潰されていった。
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