エピニャーグ
空が白み始め、小鳥のさえずりが聞こえ始める頃。
葉介はげっそりした顔で地面を這っていた。
夜通し探し続け、息も絶え絶えという様子で地面を這って行く先に靴が見えて動きを止める。
靴から視線を上げ、足……、腰……、胴……と目をやった先に女性の顔を認めた。
ぼやける視界に目を凝らして誰かを判別しようとする。
それが誰であるかを判別するよりも早く、その人影は箱のようなものを目の前にかざした。
「ご苦労さん。茶トラの子、見つかったよ」
明るい声に、葉介は訝し気に眉を顰める。
その様子を見てか、女性は顔を綻ばせるように笑った。
葉介はゆっくりと立ち上がり、目の前の箱、キャリーバッグの中を覗き込んだ。
そのまま動かなくなる。
しばらくキャリーバッグを覗き込んだ後、探していた猫が見つかったんだと理解したのか、葉介はゆっくりとキャリーバッグを持つ女性の方を見る。
そこでようやっとそれが真央なんだと理解したようだ。
どこで? なんで? どうやって? と聞きたい事は山ほどあったが、疲れと安堵感で思考が停止したようだった。
尚も固まったまま動かない葉介に真央は笑いをこらえながら立ち上がる。
「さ、帰ろ。始発までもう少し時間あるから、急がなくていいよ」
歩き始める真央を呆然と見送る葉介だったが、
「どこで?」
と声を絞り出した。
「あの人の狂言だったよ。脱走はしてない」
あの女性は知人から「猫を譲り受けようとしたが審査に落ちた」と相談されて代わりに譲渡会に来たのだ。
正式譲渡してすぐに猫を知人に譲り渡した。
もちろんそれは譲渡契約で禁じられているので発覚すれば契約を取り消される。
譲渡の条件は団体によってまちまちだが、どこにも最低限のラインがある。
ほとんどの場合で定められているのが経済的な水準。
定期収入を得られていない。
生活保護を受けている。
独身一人暮らし。
など、経済事情が変わりやすい人には厳しい。
他にも外国人、子供がいる、またはいない、お年寄りがいるなど本人ではどうにもならない場合もある。
その断られたという人も、フリーターで定職を持っていない。
日々の暮らしもままならない状態では餌はおろか、病院へ連れて行く事も難しいだろう。
「だからまずはご自身の生活を安定させてみてはいかがですか? って先送りにしたのよ」
それらの事情を聞いた後、真央は単身譲り渡した先へと猫を返してもらいに行ってきた。
その相手は
その間、葉介は知らずに必死に探し続けていた。だからずっと悪戯っぽい笑いを浮かべているんだろう。
その事には怒りが込み上げてくるが、無事だった事の安堵の方が勝り、葉介はへたり込む。
「だって、確かめるまでホントかどうか分からないし。それも嘘だったら捜索も続けないといけないでしょ」
葉介は少し落ち着いた所で腰を上げた。
「そもそもあの人が代行したのだって、最初に譲渡を断ったのが原因だろ。だから親切心で、代わりに貰ってやろうとしたんじゃないか。始めから譲渡していれば、こんな騒ぎにならなかったんだ」
「この騒ぎはね。でも命に対する責任は軽いものじゃない。簡単に信用して譲渡して、酷い目に遭った子もいる。私はもう二度と同じ目に遭う子を作らない。私は猫達に必ず幸せにしてあげると約束してるのよ。自分の生活もままならない人の元で幸せになれると思う?」
「そんな事分かるか。猫だって、ただいい餌をもらうだけが幸せじゃないだろ。自分の食費を削って貰える少しのご飯の方が、何倍も愛情が籠ってるもんだ」
真央はムスッとしたように口をへの字に曲げる。
「飼い主だって、猫が来る事で元気が出て、働く意欲が湧くかもしれない。それで生活が持ち直せば、互いの絆がより深いものになるだろ」
真央は口を曲げたまま黙って聞いていたが、やがて息を吐くように表情を緩めた。
「そうね。何が正しいのかなんてのは私にも分からない。私には、私にできる事を精一杯やるだけ」
「猫は、その……最初の相手に譲渡するのか?」
「まさか。契約は契約だもん。所有権はにゃんけんよ。それでも譲り受けたければまた申し込めばいいわ」
真央はキャリーバッグを持ち上げて歩き出す。
「通るのか? 別に最初の人が不正をしたわけじゃないだろう?」
葉介はふらつく足を立て直しながら後を追う。
「審査基準は同じよ。自分の生活立て直すまで私は譲らない」
「短い期間でも一緒に過ごしたんだ。愛着があるだろ」
「愛着だけじゃ幸せになれないわよ」
「しかし……」
「なら、あなたが面接すればいいじゃない」
「え?」
「あなたの面接報告を見て、譲渡するかどうかを決める」
振り返って笑みを浮かべる真央に、葉介は足取りを重くする。
「なんでオレがそんな事……」
「にゃんけんへようこそ」
「オレは入るつもりはない!」
「水飲む?」
聞けよ! と言いつつもペットボトルを取る。昨晩から飲まず食わずなのだ。
「でもこの四万年前の水の賞味期限が一年っておかしくない?」
真央はペットボトルのラベルを眺めながらぼやく。
「そんなの簡単だろ」
一気に半分まで飲んだ葉介が何でもないように言う。
真央は「理由がわかるの?」と言わんばかりに葉介の顔を凝視する。
「四万一年が賞味期限なんだよ」
真央は、キョトンとしたまま葉介を見ていたが、突然「ぶっ!」と吹き出す。
そのまま大笑いして葉介の背中を派手に叩いた。
痛いと文句を言うのにも構わず、真央は叩き続ける。
早朝の街に、軽快な笑い声を響かせ、酔狂な男と女は駅へ向かって歩いて行った。
NPO法人にゃんけん 九里方 兼人 @crikat-kengine
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