後編
リムはお転婆な子供だった。日照りも終え、冬を越し、春を迎えると、喜んで山の中を走り回る。果敢に木登りに挑戦して落ちても、へこたれず、何度も挑戦して、ついに木から木への移動も楽々にこなすようになった。
まるで猿のようだ、と呆れ返りながらも、ヴィルディアはリムが木から落ちたときに受け止めようと、リムの傍らを離れなかった。
危ないから止めなさい、と口にするのも憚れる。リムは本当に嬉しそうに、そして楽しそうに野山を駆け回るからだ。
そんな姿を見ると、やめろ、とは言えなかった。結局、ヴィルディアは渋々とリムに付き合う羽目になるのだ。図体だけは大きい身体を引き摺りながら、そんな自分に嘆くが、不思議と嫌ではなかった。
リムの食事と衣類は、ヴィルディアが近くの街に下り、買い与えていたが、日照りも終わり、木々が元の生命力を取り戻し、茸や木の実が実りだすと、それを食べるようになった。
人間は肉と野菜、両方を食べないと栄養が偏って、成長できず、死んでしまうことがあるらしい。その知識は、以前人間の社会に身を置いたときに学んでいた。だから、渋々狩りをしてリムに肉を与え、果物や茸だけではなく、野菜も採ってくるように、と口酸っぱく言うと、素直に自生していた野菜を採ってきた。
好き嫌いする子ではなかったが、一緒に食事を取りたがる。人間が怯える姿をしている自分の前でも、リムは嬉しそうに、そして美味しそうに果物を食べる。
しかし、自分が食べづらいので、人間の姿になって一緒に食事を取ることにした。初めて、人間に擬態した姿を見て、リムはぽかんと口を開いて、ヴィルディアを凝視した。
その時の間抜けた顔を、ヴィルディアは忘れられない。思わず笑声を上げたのだから。
食事にも気を遣った。人間の胃は、竜と比べると頑丈ではない。むしろ、脆弱だ。だから、魔法で火を熾し、肉にも野菜にも火を通して、食べさせた。当然、一緒に食事を摂るのだから、火を通した肉を初めて食したのだが、悪くはなかった。
穏やかな生活はなくなった。やんちゃで野山を駆け回り、怪我をしないかハラハラと見守る生活のどこが、穏やかであろうか。だが、その代わりに退屈がなくなったともいえる。
そんな日々を過ごすうちに、自分に怯えずむしろ懐いている、この希有な存在が大きくなっていった。愛おしくて、守らなくてはならない存在となっていった。
月日が流れ、当初六歳だったリムが、十二歳になった。この頃から、ヴィルディアは考えるようになった。
そろそろ、リムに人間社会を教えなくてはいけないのではないか、と。
リムは竜ではなく、人間だ。ここにいるより、人間社会にいたほうが幸せではないか、と思うようになったのだ。リムは自分の傍にいたがるが、それはちゃんとした人間社会を知らないからだ。それを知った上で、ここにいるか人間社会にいるか、決めて欲しい。
だが、だからといって、急に街に放り出すのは駄目だ。人間社会を知らないリムが野垂れ死ぬ可能性が高いからだ。しかも、自分と急に離れるとなると、泣くかもしれない。目を離した隙にいなくなるような子だが、ひとりぼっちを嫌っている。迷子になっては、しょっちゅう大声で泣いていたものだ。それに一人にさせるのは、とてつもなく心配だ。
と、なると、答えは一つ。ヴィルディアはさっそく準備を始めた。リムに気付かれないように、こっそりと。
その日も、ヴィルディアはこっそりと準備をして、あらかた終わり、そろそろリムにも話そうと思い、住処に戻ったのだが、一向にリムが帰ってくる様子がない。
(なにかあったのか……?)
空はもう暗くなりかけている。いつもなら、木の実をたくさん収穫して、誇らしげに帰ってきてもおかしくないというのに。
昔ほど無茶はしなくなったので、多少目を離しても安心するようになったので、徐々に慣らしていくことにしたのだが、今日はそれが仇になったようだ。
(たく、あのお転婆娘が)
心の中で舌打ちしながらも、ヴィルディアはリムを探すことにした。だが、どれだけ探してもリムを見つけることは出来なかった。
ヴィルディアは焦りだした。名前を呼んでも、リムは姿を見せない。いつもなら、「お父さん!」と、満面の笑みを浮かべて、ひょっこりと顔を出すというのに。
さすがにおかしすぎる、とヴィルディアは妖精を探すことにした。この山には妖精がいて、妖精を可視できるリムと交流している。妖精に聞けば、何か分かるかもしれない。
妖精を見つけたのは、それからすぐ後のことだった。二つの光の玉が現れて、慌てた様子でヴィルディアの眼前まで飛んできた。
『竜、大変!』
「なにがあった」
『リムが攫われた!』
「なんだと」
ヴィルディアは低く唸る。
「誰に攫われた」
『人間! 嫌がるリムを、無理矢理連れていったの!』
「人間だと」
ヴィルディアは眉間に皺を寄せた。今更、リムに何の用があるというのだ。
それに、リムもリムだ。嫌なら、魔法でも使って応戦すればいいものを。リムには魔素を操る力、つまり魔法を使う素質があったので、ヴィルディアは護身になるだろう、と教えていたのだ。だが、まだ加減が巧くなくて、無闇に魔法を使うな、自分の前以外で魔法を使うな、と言いくるめていたから、それを律儀に守ってしまったのか。
『リョウシュっていうやつに頼まれたって、その人間が言っていた!』
「領主、か」
リムと領主の間にどんな関係があるのか、ヴィルディアは知らない。だが、どんな関係であれ、リムを迎えに行かねばならない。
「分かった。では、その領主とやらの許に行く」
『リム、助けに行く?』
「助けに行くのではない。迎えに行くのだ」
言い放ち、ヴィルディアは翼を羽ばたかせて、飛翔した。その姿を見送り、妖精たちは言い合う。
『迎えに行くって言っていたけど』
『怒っていたねー!』
『ねー!』
『様子を見に行きたいけど』
『巻き込まれたくないから、行かないでおこう』
『ねー!』
リムは訳が分からなかった。訳が分からぬまま、ユウシャイッコウと自称する人間たちに攫われ、領主がいる屋敷に連行された。その頃になると、空はすっかり暗くなってしまっていた。
ユウシャイッコウは、青年二人、少女一人、壮年男性が一人で、壮年男性ではなく、大きな剣を背負っている青年がリーダーらしい。
ユウシャイッコウが何なのか分からないが、ヴィルディアが言っていた人攫いをする組織の連中に違いない。リムはそう確信していた。
ユウシャイッコウは、訳の分からないことばかり言っていた。父君が心配しているよ、とか、もう大丈夫だよ、とか。
リムの父親は、ヴィルディアだけだ。父親だと知らされていた人は、自分の父ではない。だって、面と向かって言われたのだ。こんな子供知らない、私の子供はハリーとフィアンテだけだ、と。だから、父親から貰うはずの名前を、与えられなかった。
リムは所謂、庶子というもので、詳しい事情は知らないが、女中だった母親は放逐され、リムを育てていたが領主の妻からの嫌がらせを受けて、結果亡くなってしまった。
リムの父親だと教えられた人は、領主と呼ばれる人だった。領主は、自分の存在を疎み、頑なに自分の子供ではないと言い続けていた。母親が死に、日照りが続くと、生け贄を出そうという話になった。父親はこれ幸いに、とリムを捧げるよう領民に命令したのだ。
だから、リムはあの大穴に捧げられた。神が住んでいると伝わる、あの大穴に突き落とされたのだ。
ユウシャイッコウが言っている、父君というのは、領主のことだ。話の中で、その単語が出てきたのだから間違いない。
領主が今更、自分に何の用だろうか。わざわざ自分の子を連れてこい、と言ってまで。自分の存在を認めていなかった人が、どんな風の吹き回しか。
ユウシャイッコウに囲まれ、リムは二階にある一室の部屋に連れてこられた。魔法で逃げ出したかったが、ヴィルディアと約束したので出来ないでいる。
連れてこられた部屋は、寝室ではなさそうだった。机と椅子がある。絵画があって、本棚がない。仕事部屋ではなさそうだった。
その部屋の奥に、一人の男が突っ立っている。その男に見覚えがあった。領主だ。
リムの顔が強張る。男はユウシャイッコウに囲まれたリムを見つけて、にっこりと笑った。貼り付けたような、笑顔だった。
「おお! サリーシャ! よく無事で!」
心当たりがない名前に、リムは後退る。
「ダリエン子爵。お嬢様で間違いないでしょうか?」
「ああ! 間違いなくサリーシャだ。竜と一緒にいると情報が上がったときは、心臓が止まるかと思ったが……さすが、勇者御一行! まさか、生きてサリーシャと再び会うことができるなんて!」
誰だ、この人。リムは思った。
リムが知っている領主は、こんなことを言わない。
「ねえ、サリーシャって、だれ?」
リムは勇気を振り絞って、問いかける。すると、ユウシャイッコウのリーダーらしき青年が目を見開き、リムを見やる。
「誰って、君のことに決まっているじゃないか」
「サリーシャなんて、知らない。わたし、サリーシャっていう名前じゃない」
ユウシャイッコウにどよめきが走る。領主が焦った様子で、言い募る。
「な、なに言っているんだ? サリーシャ。私のことを忘れたのかい?」
「忘れていないよ。領主様でしょう?」
「領主様だなんて、そんな他人行儀に。お父様って呼んでおくれ」
「でも、領主様が言ったんだよ? お前はわたしの子じゃないって」
ユウシャイッコウから、息を呑む音がした。
「な、なに言っているんだい? そんなこと言うわけがないじゃないか。誰かに言われたことを、間違えて覚えているんだな」
「だったら、なんでわたしを生け贄にしたの? なんで、わたしに名前をくれなかったの?」
「生け贄……!?」
青年が愕然と呟く。
「な、名前呼んでいるじゃないか。な、な何を言っているんだい?」
「サリーシャなんて名前、知らないもん。わたしには、お父さんがつけてくれた、リムっていう名前があるもん」
「リムなんて、そんな下品な名前、お前には」
「お父さんが付けてくれた名前を、下品だなんて言わないで!!」
リムは声を張り上げた。
「心配していただなんて、嘘ばっかり! だったら、なんで生け贄にしたの? どうして、今まで探しにこなかったの? わたしのこと、いらない子って、自分の子じゃないって言っていたの、領主様でしょ!」
それは、ずっとリムが心の内に仕舞っておいた叫びだった。父が付けてくれた名前を
「そ、それは……そう、妻のこともあって、表向きお前達を擁護できなかったんだ。だが、妻は流行病で死んだ。妻が死んだのは悲しいが、これで胸を張ってお前は私の子だっていえると思ったんだ。たしかに許されることではないだろう。不甲斐ない私を許しておくれ」
「奥さんのことがあったんなら、お母さんを放っておけばよかったのに?」
子供の作り方なんて、リムは知らない。だが、周りの人達が言っていた。領主は母に手を出した、お手つきになった、と。手を出す前に、母を放っておけば、領主の奥方が癇癪を起こすことなんてなかったはずだ。母も死ぬことはなかった。
「自分はお父さんだなんて、言わないで! わたしのお父さんは、領主様じゃない!」
はっきり拒絶すると、領主が怒りを顕わにする。それが見えたのか、青年と少女がリムの前に出た。
「子爵、これはどういうことですか?」
「昔、娘が竜に攫われて、諦めていたら生存報告があったから助けにいってくれってあなたに頼まれました。生け贄ってどういうことですか? あたしたちに嘘を付いていたのですか?」
「攫われたって、わたしをさらったの、あなたたちでしょ?」
「あははは。お嬢ちゃんには、そう思われていたか」
壮年の男性が軽口を叩きながら、ぐしゃりとリムの頭を撫でた。少し痛かったが、悪意を感じなかったのでリムはその手を払いのけなかった。
「生け贄制度は廃止するようにと、十四年前に王命があったはずですが……妙ですね。この子の年齢を考えると、矛盾していますね」
もう一人の青年が、淡々と告げる。
領主の顔に青筋が浮き出る。
「いいから、その娘を渡せ! 私だって、伯爵の息子がその娘に一目惚れしなければ、こんなことをするつもりはなかったんだ!!」
リムは首を傾げる。伯爵の息子とはどういうことなのか。まったくもって、身に覚えがない。
「なるほど。生存報告をしたのは、その伯爵の息子ってことか」
リーダーじゃないほうの青年が、低く呟く。リムには、ちんぷんかんぷんだったが、壮年の男性がこっそりと教えてくれた。
「要するに、政略結婚させようと俺たちにお嬢ちゃんを探させたってことだよ」
「せーりゃくけっこんって、なに?」
「あれだ。簡単に言うと、愛のない結婚だ」
「けっこんって?」
「そこからか……ああ、つまり、男と女が家族になるってことだ。夫と妻になるっていったほうがいいか?」
「うーん。なんとなくわかった」
リムは頷いた。本当になんとなくだが、多分この人が伝えたいことは分かった気がする。
「なら、この子を渡すわけにはいきません。この子のいう、父親に返します」
「ま、待て! そもそも、そいつの父親は誰だ!? 山の中で暮らしている人なんて聞いたことがないぞ!」
人ではないから、とは言えない。父は人間社会に嫌気が差して、この山に越してきたと言っていた。それなのに、父の正体を明かすことは、父に迷惑が掛かる。
言葉を窮しているリムに、領主は勝ち誇ったような表情を浮かべ、リムを見下ろす。すっかり化けの皮がはがれていた。
「ふんっ。やはり嘘か。なら、私が引き取っても問題はあるまい?」
「嘘じゃないもんっ! お父さんはいるもん!」
「口がなっていない子だ。あとで教育をし直そう」
もうリムを引き取る前提で話している。リムはきっと領主を睨み付けた。
「ちがうもん! 領主様はお父さんじゃないもん! いつもわたしを心配してくれて、わたしのワガママにつきあってくれるのは、お父さんだけだもん!」
ヴィルディアはリムが木に登ると、さっさと下りろ、と冷たく言い放ちながら、その顔には心配が滲み出ていることに、リムはちゃんと気付いていた。熱を出したときも、慌てながら看病してくれたし、服も食材も調達してくれた。食べる必要はないと言っていたのに、自分に合わせて一緒に食事を摂ってくれた。
だが、領主はそんなことをしてくれなかった。ただ、自分の子ではない、と一蹴しただけだ。
「妄想の父親を作り出すとは……全て私の責任だ。償いのために、さあ、そいつを渡せ」
「渡すわけにはいきません!」
少女が吠える。だが、領主はにたりと笑って、少女を見据える。余裕の笑みだった。
「勇者御一行といえど、庶民の集まり。貴族の子供もいらっしゃるが、所詮は子供。爵位を持っていない。だが、私は子爵といえど爵位を持っている。そんな私に逆らうのは、賢明かな?」
「くっ!」
リーダーの青年が、悔しそうに歯噛みをする。
その時、突然暴風の音が聞こえた。
「嵐……?」
「まさか。そんな予兆はなかった」
青年と男性が小声で言い合う。だが、リムはぱあ、と顔が明るくなった。
この風は、いや、翼の音は間違いない。
刹那、壁が激しい音とともに崩壊した。破片が暴風とともに一行に襲う。壮年の男性がリムを庇ってくれたおかげで、リムは怪我を負わずにすんだ。
暴風が止む。リムを除いた一同は、おそるおそる壁があったところに目を向けて、戦慄した。
そこには、漆黒の竜が自分達を見下ろしていた。金色の瞳がぎろっと、一同を睥睨する。
「な、なななな……」
領主がわなわなと震えながら、突然現れた竜を見据える。あまりの恐ろしさに足腰が震え、その場に尻餅をつく。ユウシャイッコウも、唖然と竜を見据えた。尻餅をついていないが、竜から放たれる気迫に圧倒され、言葉を失っている。
ただ、一人、リムを除いては。
「お父さん!」
リムが嬉しそうに、竜に駆け寄り、前脚に抱きつく。漆黒の竜――ヴィルディアは、目を細め、リムを見やる。
「リム、大事はないか?」
「うん!」
リムが大きく頷く。
「あのね、そこのお兄ちゃんたちがわたしをかばってくれたの」
「そうか……」
ヴィルディアは、ユウシャイッコウを一瞥する。
「リムを連れ去った無礼は、それで帳消しにする。感謝するのだな」
憮然と言い放ち、領主に視線を向ける。鋭い眼光に当たられ、領主はひぃっ! と、悲鳴をあげた。
「貴様が領主か。この子に何用か」
「ひ、ひぃ……」
あまりの恐ろしさに、領主は声が出ないようだ。ヴィルディアは再び、ユウシャイッコウに視線を向けた。
「ぬしら。この男の目的を知らぬか」
「なんか伯爵の息子が、山にいたお嬢ちゃんに一目惚れしたとかで、政略結婚をさせようとしたらしいっす。俺たち、まんまとそいつに騙されたくちで。あ、なんかその子の父親って名乗っているっす」
答えたのは、壮年の男性だった。
「お前……よく、この状況で軽く言えるな」
青年が半眼で男性を見つめる。
「俺もびっくり」
よく見ると、男性の額に汗が滲んでいた。それを見やり、ヴィルディアは領主を睨めつけた。
「ほう……? 貴様がこの子の父親とな? 生け贄という形でこの子を捨てたというのに、どの面下げて連れ戻したというのだ? 聞けば、この子の存在を認めていなかったというのに。まったく、都合の良い人間だ」
ヴィルディアが低く呻る。怒りを感じる声色に、領主の顔が真っ青になる。だが、負けじと声を張りはげて、応戦してきた。
「そ、その子の幸せは竜と暮らすことではない! 身分の高い者と結婚することなのだ!!」
「この子の幸せを、勝手に決めつけるな!! この子の幸せは、この子が決めることだ!」
「ひ、ひぃ……だ、だが」
「リムよ。その男と、私。どちらの許で暮らしたい?」
「お父さん!」
即答だった。ヴィルディアの足を離さず、ぎゅっと抱き締めるリムに、ヴィルディアは勝ち誇ったかのように鼻息を漏らす。
「だ、そうだ。そもそも、貴様に父親を名乗る資格もなにもないのだがな?」
と、言いながらヴィルディアは優しくリムを抱えた。
「本当はこの屋敷を崩壊したいところだが、そこの若者たちに免じてこれくらいにしておこう。だが、今後この子に関わるようであれば、縁者共々貴様を喰うぞ」
釘を刺して、ヴィルディアは翼を広げ、羽ばたかせる。暴風が再び巻き起こる。屋敷の一部を崩壊させながら、竜は高く飛翔した。
西へと飛び立つ竜の姿を、唖然と見送るユウシャイッコウ。一番目に我に返ったのは、壮年の男性だった。
「いやぁ。竜って初めて見たぞ。すげぇ迫力だな」
軽い口調に、他の者も肩の力を抜いて、その場にへたれこんだ。
「まさか、お父さんが竜だったなんて思わなかったな」
「うん、予想外」
リーダーの言葉に、少女が頷く。
「噂で聞く竜とは、違いますね。なるほど、たしかにあの竜はお父さんでしたね」
「だな」
領主を見やると、尻餅をついたまま白目を剥いていた。
「気絶してるぞ……」
「うわ、器用」
「だが……」
青年が、うーん、と呻る。
「あの竜の特徴……心当たりがあるような……」
「なに、賞金首なの、あの竜」
「賞金首じゃない。もっと、昔の……ああああぁぁぁぁ!!」
青年が叫ぶ。滅多に叫ばない青年が叫んで、一同は目を瞠った。
「な、なんだよ。そんな大声出して」
「そうだ! オノペール王国一夜物語に出てくる竜と同じ特徴だ!」
「オノペール王国一夜物語って……」
少女が呟く。その顔は、心なしか青い。
オノペール王国一夜物語。物語としているが、千年前、栄華を誇っていたオノペール王国が、一夜にして滅んだという実話が伝説化したものだ。オノペール王国を滅んだ原因は、一頭の竜だった。その竜が暴れ、オノペール王国は一夜にして滅んでしまったのだ。
「その背丈、大樹の如く。その身体、漆黒の闇が如く。翼は蝙蝠の如く。角は羊の如く。身体は狼の如く。尻尾は大蛇の如く。竜の証である、黄金の瞳を輝かせ、王国を蹂躙した竜……」
その竜は退治されることなく、どこかへ消え去った。
その、竜の名は。
「邪竜、ヴィルディア……!」
まさか自分が伝説になり、邪竜と呼ばれているとは思ってもいないヴィルディアは、リムを寒さから守るため、両前脚でリムを包み込みながら、西へと飛んでいった。
住処に戻るためではない。自分が姿を現したことで、討伐隊が組まれる恐れがあるため、もう住処には帰らない。自分だけならいいが、リムを巻き込むわけにはいかなかった。
自分の存在がバレていなくても、近いうちに越す予定だった。それが早まっただけのことだ。
国境を越え、ヴィルディアが下りたのは、森の中だった。一旦、リムを下ろす。リムは疲れていたのか、すっかり夢の中だ。ぐぅぐぅと寝息を立てるリムを見て、ふっと笑いながら、ヴィルディアは人間に擬態した。
擬態したヴィルディアの姿は、黒く長い髪を一つに束ねた、美丈夫な青年だった。金色の瞳を、紫色に変色して、よし、と呟く。そして、リムを起こさないようにゆっくりとした動作でおぶった。
むりゃむりゃと寝言を言っているらしいが、言葉になっていない。耳元を擽る息に、口端を吊り上げながら、ヴィルディアは歩き始める。
これから向かうのは、大きな街だ。ヴィルディアは、リムに人間社会を教えるため、この街での居場所を確保することに時間を費やしていたのだ。
既に住む場所は確保しているし、仕事も決まっている。この街は戸籍を持っていなくても、役所に申請すれば、すんなりと戸籍を貰える。治安は心配だが、竜である自分が戸籍を得られるためには致し方ないことだ。
しかし、とヴィルディアは笑う。
(まさか、再び人間社会に身を投じることになろうとは)
まだヴィルディアが若い竜だった頃、彼は怒りのあまり王国を滅ぼしてしまった。その王国で見つけてしまったのだ。母の頭蓋骨を。そして、母を討ったことを武勇伝として語る男を。
それを見た直後のことを覚えていない。気付いたときには、王国は滅んでいた。
そんなこともあり、もう二度と人間社会に身を置いたりしないと誓ったものだが。
(私も変わるものだな)
これもリムの影響だ。
ヴィルディアは、熟睡しているリムを一瞥する。あどけない寝顔を晒し、涎まで垂らしているリムに苦笑して、足を速める。
この子に何かあったら、あの時のように暴走してしまうかもしれない。そのことを考えると恐ろしいが、そうならないようにこの子を守らないといけない。
もう、手放すことはできないから。温もりを知ってしまったから。だから、命に代えてまでも、この子を守らないといけない。
リムを抱え直し、ヴィルディアは街へと向かう。
夜空には数多の星々が輝いていた。その中で、一等に輝く星を目指すように、ヴィルディアは確かな足取りで歩く。背中に、一番大切なぬくもりを感じながら。
【完結】邪竜は人間の娘を育てることにしました 空廼紡 @tumgi-sorano
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