終章

 空になった眼窩を穏やかな風が通り過ぎていく。そっと眼帯に触れながら、レーゲングスは奪われなかったもう一つの眼を開いた。

 視界に柔らかな花弁をゆらすジャスミンの花が映り込む。自分の手に持ったそれを降ろし、レーゲングスは周囲を見渡した。

 円形に並ぶ支柱がレーゲングスの眼前には建っていた。円を描く支柱には猫の顔をした女が彫られている。この蒼猫島を創ったとされる女神の彫像だ。

 草原の上に建つ遺跡を眺めながら、レーゲングスはそっと眼を細める。

 もうあれから何年経っただろうか。

 亜人の福音とも呼ばれる金魚鉢での集団自決から、数年が経とうとしている。

 レーゲングスがそれを知ったのは、悲劇が終わったずっと後だ。

 アルプトラウムは捕えた自分を殺さなかった。覚悟の証として死を望んだ自分を、彼は片目と引き換えに生かしてくれた。

 そしてすべてが終わった後、彼は自分を解放したのだ。

 金魚鉢が壊れた世界では、何もかもが変わっていた。

 人々は蔑んでいた亜人たちに憐憫の眼差しを向けるようになり、亜人にも人権を与えるべきだと主張しだした。

 金魚鉢での悲劇が、世界を変えた。

 世界はまだ亜人に冷たい。だが、国連で亜人の人権が認められてからもう数年が経つ。

「君は、凄いな……」

 翠色の眼に笑みを浮かべ、レーゲングスは支柱の一つにふれてみせる。そこに描かれた女神が自分に語りかけることはない。レーゲングスは悲しげに眼を歪め、女神から顔を逸らした。

 遺跡の周囲を見回す。

 円形の遺跡を取り囲むように丸い水路が設けられ、その水路の中を金魚たちが泳いでいた。水路の向こう側には、硝子でできた慰霊碑の列が延々と建ち並んでいる。

 金魚鉢が壊れた後、この場所は身を投げた亜人の少女たちを慰霊する公園となった。今では世界中から、彼女たちの死を悼む人々がやってくる。

 この慰霊碑のどこかに、自分の妹の名前も刻まれているのだろうか。

 茜色の狐耳に手を伸ばし、レーゲングスはその耳を優しくなでる。自分の柔らかい毛並みは、フクスのそれとよく似ていた。

「フクス……」

 呼びかけても、応えてくれる者はいない。涙をこらえながら、レーゲングスは翠色の眼を歪ませていた。

 金魚鉢にいた亜人の少女たちのように、フクスは金魚鉢の谷に身を投げたという。妹がなにを想い谷の底に落ちていったのか、レーゲングスに知る術はない。

 少女の笑い声がレーゲングスの狐耳に響く。

 レーゲングスは弾かれたように顔をそちらへと向けていた。その笑い声が、妹のものとそっくりだったから。

 水路にかかった橋を渡り、一人の少女がこちらに駆けてくる。その少女を見て、レーゲングスは眼を見開いていた。

「フクス?」

 彼女がフクスと同じ、赤い狐耳を持っていたからだ。少女の面差しは、幼い頃の妹を彷彿とさせる。

「凄い! お兄さん、私と同じ赤狐だ!」

 翠色の眼をきらきらと輝かせ、彼女はレーゲングスへと駆け寄ってくる。その眼の色を見て、レーゲングスは息を呑んだ。

「君は――」

「こら、フクスっ!」

 凛とした女性の声がレーゲングスの声を遮る。懐かしい声だ。その声で彼女はよく自分を罵った。そして、その声で彼女は自分に囁いた。

 ――愛する者のために、共に堕ちて欲しいと。

「あ、ママっ!」

 少女は来た道を戻り、こちらへと近づいてくる女性に抱きついた。長い青髪を風に靡かせながら、彼女はそっと少女を抱きしめ返す。その髪のあいだで嬉しそうに蒼い猫耳がゆれていた。

 アルプトラウムは言っていた。

 彼女は、金魚鉢での悲劇を伝えるために世界中を駆け巡っているのだと。その努力が実を結び、私たち亜人は人として認められたのだと。

 彼はこうも言っていた。彼女は愛する我が子のために生き残ったのだと。

 導かれるようにレーゲングスは彼女へと駆けていく。少女を抱き寄せる女性がこちらへと顔を向けた。そんな彼女にレーゲングスは微笑んでみせる。

 美しい瑠璃の眼を大きく見開き、彼女は微笑む。そんな彼女の手を振りほどき、少女はレーゲングスへと駆け寄ってくる。赤い狐耳を躍らせながら、彼女はレーゲングスに抱きついた。

 彼女の赤髪をジャスミンを象ったセラドン陶器の髪飾りが彩っている。翠色に輝くその髪飾りを見て、レーゲングスは笑みを深めていた。

 それは、遠い昔に我が子を望んだ少女に自分が贈ったもの。

 少女の眼が自分を見あげてくる。その眼に笑みを湛え、彼女は微笑んでみせた。

「お帰りなさい」

「ただいま、フクス」

 レーゲングスは翠色の眼を細め、微笑んでみせる。

 少女は嬉しそうに笑みを深めてみせた。そんな我が子を、レーゲングスは優しく抱きしめる。レーゲングスはフクスの狐耳をなで、ジャスミンの花を彼女の耳に飾り付ける。

 翠色に輝く陶器のジャスミンの横で、その花は優美に白い花びらをゆらしてみせた。嬉しそうにそのジャスミンの花にふれ、彼女は微笑む。そんな彼女にレーゲングスは微笑んでいた。

「やっと渡せた……」

 狐耳に添えられたジャスミンの花をなで、レーゲングスは囁く。レーゲングスはそっと眼を瞑って、愛しい少女を強く抱きしめていた。

 もう二度と彼女を離さないように。

 愛しい彼女と、離れることがないように。



          



           金魚鉢      了

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金魚鉢 長編版 猫目 青 @namakemono

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