陽光~蒼空序曲

 朝陽に照らされる金魚鉢は、まるで戦場跡のようだった。艶やかなアールヌーボーの遊廓は崩れ落ち、船が行き交っていた水路には少女たちの遺体が浮かぶ。

 そっと蒼い空を仰ぐと、死んだ金魚の横たわる硝子のアーケードが視界に映る。体をべったりと水槽の底に押しつけ、金魚たちはピクリとも動かなかった。

 金魚鉢には死がもたらした静寂が漂っていた。

 生きるものが絶えたその廃墟を、ミーオはあてどなく歩み続ける。

 みんな。みんな、死んでしまった。

 みんな、自分が殺してしまった。

 ――ミーオの嘘つき。

 フクスの声が猫耳に響き渡り、ミーオは眼を見開く。瓦礫に覆われた地面に膝をつき、ミーオは瑠璃の眼からほろほろと涙を流した。

 ミーオは自分の腹部へと眼をやり、両手で腹部をなでる。とくりと小さな心音が腹の中で響き渡った。

 だって、仕方がなかった。

 本当はこの子と一緒に谷に身を投げるはずだった。でもそうすれば、この子の命を自分が奪うことになっていた。

 この子を救うために嘘をつくことを、フクスが許してくれた。

 自分はみんなの命を奪っておきながら、この子可愛さにみんなに嘘をついて生き延びたのだ。

「ねぇ、フクス。私、これでよかったのかな?」

 縋るように言葉をはっしても、応えてくれる者はいない。

 そのときだ。こつりと、足音がしたのは。

 驚いてミーオは顔をあげる。

「あぁ、まだ隠れてた方があなたのためなのに……。やっぱりあなたみたいな人でも、生きていてくれた方がいい……」

 立ちあがり、ミーオは苦笑を顔に浮かべていた。彼が生き延びてくれていて少しだけ安心する。その人物は大きく息を吐いて、ミーオに言葉を返す。

「フクスは私を殺していなかった。それだけのことだ。それに、もう私の外見も君たちのそれと変わりない。人のフリすらできなくなったよ……」

 銀色の狐耳を朝風に靡かしながらアルプトラウムは苦笑する。彼は縋るように蒼い眼をミーオに向けた。彼の片目を覆う眼帯が痛々しい。

「さぁ、我らが蒼猫。君の望みはすべて叶った。君は、これからどうしたい?」

「願いなんて、何にも叶えてなんかいないわよ……」

 鮮烈な赤がミーオの脳裏を横切る。自分を突き飛ばした赤狐は、暗い谷に身を投げた。何度も彼女の名前を叫んだ。谷を覗き込んでもそこにフクスの姿はなく、谷の深淵が自分を見つめ返してくるだけだった。

 暗い谷にミーオは身を投げることすらできなかったのだ。

 フクスを置いて、死を決意したはずの自分はこうして惨めに生き残っている。

「どうしたいかなんて、分らない。だってフクスはもういないんですもの……。私は結局、彼女のために死ぬことすら出来なかった……。私は……」

「じゃあ、好きにすればいい。誰も君を咎める者はいないよ。私の赤狐もそれを望んでいるだろうから。」

 アルトプラウムの言葉にミーオは眼を見開く。片目に眼帯を巻いた彼は悲しげに眼を細め、空を仰いだ。ミーオの猫耳と同じ、蒼い空を。

「あの人が、生きてるの?」

 彼の言葉を聞いて、ミーオの脳裏に翠色の眼が浮かぶ。フクスと同じ色彩の眼をした青年の姿が。

「さぁ、どうだろうね。縁があれば、また君たちは巡り会うかもしれない。それがどこだか分らないけれど」

 ミーオの言葉に彼は眼を細め微笑んでみせた。それは、自分に子を授けてくれた青年のことだろうか。それとも、彼ではない赤狐のことだろうか。

 赤い狐耳が脳裏を過って、ミーオは眼が熱くなるのを感じていた。そっと腹部に手を充て、ミーオは空を仰ぐ。

 この空の向こう側には自分と同じく、運命に翻弄される人々がいるのかもしれない。自分と巡り会う運命を持つ人々が、いるのかもしれない。

 金魚鉢が人々の運命を手繰り寄せる場所であったように、この空はミーオと遠くにいる人々を繋いでいる。

 自分のように愛しい人たちを守れなかった少女たちは、この空を眺めて涙を流しているのだろうか。

 空から視線を逸らし、ミーオは周囲を見回す。

 瓦礫に覆われた金魚鉢の水路には、折り重なった亜人の少女たちの死体があった。黒い虫が少女たちの周囲に湧き、悪臭が鼻を突く。

 それでも少女たちは、穏やかな笑みを浮かべていた。

 その笑顔が美しく、恐ろしい。

 彼女たちを殺したのは自分だ。自分はその罪を背をって生きていく。

 我が子が生まれる世界に、彼女たちのような少女をつくらないために。

 少女たちの亡骸を見つめながら、ミーオは凛とした言葉を放つ。

「生きるわ。私はこの子と生きたい」

 愛しい命の宿る腹部を優しくなで、ミーオはそこへと視線をやる。

 我が子は、小さな心音でミーオに応える。

 その音を聴いて、ミーオは微笑んでいた。


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