終曲~遊廓終焉




 そうして時は今に至る。

 回想を終えたフクスは、静かに眼を開けてた。翻る赤い腰布が視界を掠めてフクスは大きく眼を見開く。金魚の鰭のようにタイドレスをはためかせて、ミーオがアーケードの上を駆けていた。

 花火の爆音がミーオの快活な笑い声と共に辺りに響き渡る。少女たちの悲鳴が聞こえる足下を眺めながら、ミーオは涙を流して笑っていた。

「流れていく……。みんな流れていく……。これで、終わりになるのかな? これで、私たちは何も奪わなくてすむのかな?」

 流れていく少女たちを眺めながらミーオは足を止め、そっとフクスへと顔を向けた。夜風が彼女の蒼猫耳を煽って、周囲に涙を巻き散らす。

「これで、亜人は人になる。亜人はもう神でもない。誰も亜人を差別ないし、崇めもしない。私たちはやっと、私たちになるの」

 そっと腹部に両手を充て、彼女は愛おしげにそこを見つめる。瞬間、辺りにノイズ音が走った。

 



  ――さて、何から話そうか

  我ら亜人が、その発現から貴殿ら人間に追害されてきた歴史は誰もが知るものだろう。

 なぜなら我らは人ではない。亜人なのだから――



 ミーオの声がノイズと共に辺りに響き渡る。フクスは狐耳を立ち上げ、その声を聴いた。



 ――では、なぜ我らは人の腹からから生まれてくるのか

 なぜ、人を父母に持ち人を慈しむのか。

 それでも貴殿ら人は我らを同胞とは見做さない。

 貴殿らにとって、我らはさしずめ金魚という所か。狭い金魚鉢の中に押し込められ、気に食わなければ鉢の水を抜かれて殺される――



 これは、ラジオ放送だ。

 協力者の力を借りて、ミーオは自分たちの意思を世界中に伝えようとしている。

 金魚鉢が崩壊する数日前に、彼女はこの声明をレコードに録音した。大戦に敗れた極東の帝がおこなった放送に因み、彼女はこの声明を亜人の玉音放送と揶揄して嗤ってみせた。

 金魚鉢にいる亜人たちが、その命と引き換えに亜人たちの悲惨さを世界に伝える。これはその意思を伝えるための放送だ。

 この放送を聞いて、後世の人々は金魚鉢の崩壊を悲劇として伝えていくだろう。

 彼女たちは、亜人の置かれた悲惨さを伝えるために命を落としたと。

「まさか、金魚鉢にいるほとんどの人たちが、私の意見に賛同してくれるなんて思いもしなかった」

 ミーオの笑い声が聞こえる。彼女へと視線を向けると、ミーオは夜空を仰ぎ言葉を紡ぐ。

「この世界にいる不幸な亜人たちが人として認められるために、この命を投げ出そう。もうこれ以上何も奪われないように金魚鉢を壊して、私たちですべてを終わりにしよう。そう私はみんなを唆して、この金魚鉢を壊そうとしてるの」

 ゆっくりと彼女の顔がフクスへと向けられる。瑠璃色の眼から涙を流しながら、彼女は囁く。

「私は、私の愛のためにみんなを利用して、殺すの」

 瑠璃色の花火が彼女の顔を蒼く彩る。その光はミーオの眼の中で瞬いて、フクスにとある光景を思い出させた。

 彼女と初めて肌を重ね合わせた夜。ミーオはフクスを金魚鉢の滝へと誘い、花火を見せてくれた。鮮やかな花火が咲き誇る空を背景に、二人で金魚鉢の闇に呑まれないよう懸命に歌をうたった。

 その闇に、自分たちは呑まれようとしている。

 お互いの愛を貫くために。

 夜風が蒼色キンギョの涙を煽る。その涙は花火の光を受けて虹色に輝く。翻った涙はフクスの頬にあたって、はじけ飛んだ。

 フクスは世界で一番愛おしい少女の元へと駆けていた。

 金魚鉢を壊す。それは、ミーオがフクスに見せた愛の証。

 自分たちが死ねば、蒼猫の血脈はそこで絶える。金魚鉢を壊せば、この島の女神の聖地は消滅する。金魚鉢の崩壊は、この島の亜人たちが守ってきた信仰の破壊を意味するのだ。

 そのことに気がつくものはいない。皆、女神の化身であるミーオが、その命と引き換えに亜人を救済することを信じていた。彼女たちは従順な信者となって死んでいったのだ。

 ミーオは終わらせたいだけなのだ。亜人という存在によって生じた信仰と、それに翻弄されてきた自分たちの運命を。

 ミーオは亜人を人にすることによって、自分たちのような存在をこの世から消そうとしている。金魚鉢を壊すことで亜人を人にし、自分たちのような存在が作られないよう彼女は未来を切り開いた。

「ミーオっ」

 嬉々とした声をはっし、フクスはミーオに抱きついていた。優しく微笑みながら愛しい少女は自分を抱きしめ返してくれる。

 フクスたちは手を取り合い、崩壊する金魚鉢のアーケードを駆け抜ける。

 爆音が響く。アーケードの硝子が吹き飛ばされる。金魚たちが宙に投げ出されるれ、その鱗が花火に照らされて蒼く輝く。

 走りながら、フクスはアーケードの下へと視線をやる。

 ゆれる水槽の水底で、美しい遊郭が崩れていく。瓦礫と化したそれらは濁流となった水路に呑みこまれていく。濁流の中で少女たちが嬌声をあげながら、獣耳を金魚の鰭みたく動かしてみせる。

 彼女たちは金魚鉢の中の金魚のよう。暗い鉢に囚わた彼女たちは、鉢の水を抜かれて死のうとしている。

 フクスは涙を流していた。

 あたたかい涙が頬を伝うのを感じながら、フクスは声をあげて笑っていた。

 顔を上げミーオを見つめる。ミーオは自分の手をしっかりと握り、微笑みを返してくれる。

 二人は歌う。

 金魚鉢の絢爛豪華さを。空を泳ぐ金魚たちの群れを。飾り窓の少女たちの美しさを。金魚のような獣耳の愛らしさを。

 爆音と嬌声を伴奏に、可憐な少女たちの歌声は、壊れゆく金魚鉢を祝福する。花火が漆黒の夜空を彩り、金魚鉢を鮮やかに照らしていく。

 空を仰ぎ、フクスは金魚鉢を壊していく花火を仰いだ。この花火は、ミーオが金魚鉢の弔いのために仕掛けたものだ。

 花火の光は金魚鉢に囚われた少女たちの命の灯。それが消えゆくさまは、少女たちの命が終わることを意味しているという。

 色とりどりの花火は、フクスにいろんなことを思い出させてくれる。

 蒼い花火はミーオの猫耳を。翠の花火は兄の眼の色を。白銀の花火はまっしろなジャスミンの花と、愛らしい銀狐を。

 眼を瞑って、フクスは瞼裏に広がる色彩の残滓に涙を流した。そうして彼女たちは、金魚鉢が終わる場所へと辿り着く。

 硝子の壁が瑠璃湖から金魚鉢を守り、その水が滝となって落ちる谷へとフクスたちは辿り着いていた。

 滝からは嬌声をあげる少女たちが谷へと放り込まれ、月光にその肢体を晒している。翻る彼女たちの衣が月光に照られ、水の中を泳ぐ金魚のように煌めいていた。

「綺麗……」

 うっとりとミーオが呟く。フクスが彼女へと振り向くと、眼を瞑った彼女は幸せそうに言葉を紡いでみせた。

「私たちのために、みんなが金魚になって落ちていく。私たちの愛のためにみんなが死んでいく。こんな素敵な人たちと一緒に、私たちは旅立てるの……」

 そっと眼を開けて、彼女は瑠璃の眼を腹部へと向ける。そこにいる命を愛おしむように、彼女は片手を腹部に充ててみせる。

「だからあなたは、ちっとも寂しくなんかないよね。恐くなんかないよね。私たちと一緒だもの……」

 花火の光に彼女の眼が白く煌めく。その煌めきと共にミーオの眼は美しい涙を生み落としていた。それは月光に照らされて、真珠のように輝く。

 彼女は真珠のような涙を生みながら、腹の中の我が子に語りかける。

「生んであげられなくて、ごめんね……。でも、私たちみたいな子はもういなくなるから。みんな普通に生きられる子になるから、私と一緒に来てくれるよね……。あなたを、そんな世界に生んであげたかった」

 彼女の涙を見て、フクスは思う。彼女は愛しい我が子を想い涙を流している。

 その涙は自分のものであったはずなのに。

「駄目だよ、ミーオ……。嘘は駄目」

 ミーオの手を放し、フクスは彼女に語りかけていた。

 ミーオが弾かれたようにフクスへと顔を向ける。大きく見開かれた彼女の眼はしっかりと自分に向けられていた。

 彼女の中に自分がいないことは分かりきっていた。そこから眼を逸らすのはもうやめよう。彼女はフクスのためではなく、最愛の存在のために生きるべきだ。

「フクス……」

 蒼猫耳を怯えたように動かし、ミーオが自分に呼びかけてくる。彼女はそっと首を振って自分を抱きしめてきた。

「いや、一緒よね。私たちはずっと一緒……。そうでないと……」

「ミーオの、嘘つき」

 彼女の猫耳に囁きかけると、ミーオは眼を大きく見開き、自分を見つめてきた。そんな彼女を、フクスは突き飛ばす。

 彼女とお揃いの赤いタイドレスを翻して、フクスは谷へと身を投げた。

 谷から流れる風がフクスの体を煽り、赤い衣を金魚の鰭のように翻していく。

 耳朶には、自分の名を叫ぶミーオの声が木霊する。

 その声が愛おしくて、とても憎い。

 だから自分は、ミーオに呪いの言葉を残した。

 ――嘘つきと。

 彼女が愛しているのは自分ではない。彼女は母親になろうとしているのだから。

 谷から溢れる風を浴びながら、フクスは夜空を仰ぐ。翠色に輝く月が谷を蒼く照らし、少女たちの亀覗き色の陰影を崖に描いていた。

 翠色の月を見てフクスは眼を細める。

「あなたには負けたわ、兄さん……」

 ミーオは自分と通じて兄であるレーゲングスと繋がっていた。彼は彼女にとって最愛の存在を残し、この世を去っていったのだ。

 彼女の中には新たな命が宿っている。その子を殺すことはできない。

 その子に、罪はないから。蒼猫が創り出す新たな世界に生を受ける子だから。

 フクスは眼を瞑る。

「だから、今だけは私のものでいて、ミーオ……」

 フクスの声に応えるように、ミーオの泣き声が谷に響き渡る。

 ミーオが自分を追いかけて落ちてこないだろうか。仄かな期待に眼を開けるが、そこに映るのは兄の眼を想わせる月だけ。

「そう、それでいいわ、ミーオ……」

 翠色の眼を笑みの形に細め、フクスは愛しい彼女に語りかける。

 これで彼女は永遠に自分のことを忘れない。

 自分を喪った悲しみを抱えながら、彼女は生涯を過ごすのだ。

 恋焦がれた蒼色キンギョは、永遠に赤狐を想い続ける。彼女の心をフクスはようやく手に入れることができた。

 愛しいミーオが名前を呼び続けてくれる。

 その心地よい声を聴きながら、フクスはゆったりと眼を閉じていた。

 

 

 

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