前夜~蒼猫決起

 兄の会社の工房があったという村にフクスが連れていかれたのは、アルプトラウムの一件からしばらくたった後だった。

 高台にあるその家からは亜人たちが働いていたという工房が一望できる。だが、ミーオが聞いたという人々の笑い声がフクスの狐耳に響くことはなかった。

 煙を慌ただしく吹き上げていた工房は宵闇の中に沈み、水路を行き交う船の姿もない。人のいなくなった集落は沈みゆく夕光の中で寂しく佇んでいた。

「ここでね、レーゲングスは子供たちに独逸語を教えてた」

 低い竹の欄干に両手を乗せていたフクスに、声をかけるものがある。振り向くと、竹で編まれた床に座り込むミーオの姿があった。

 彼女は眼に笑みを浮かべ、床に散らばる小さな黒板をなぞる。歪な独逸語が書かれた黒板を懐かしげに眺めながら、ミーオはフクスに顔を向けた。フクスを見つめる瑠璃の眼が、夕陽に照らされ黄昏色に輝く。

「私も、兄さんに文字を教えてもらった……」

 ミーオの言葉にフクスは微笑んでいた。兄が硝子ペンを持つ自分の手を優しく握りしめ、アルファベットの綴りを教えてくれたことを思い出す。幼い頃、兄は自分の住む離れに入り浸ってはフクスの知りたいことを何でも教えてくれた。

 狭い離れが世界のすべてだったフクスにとって、兄は自分と知らない世界を繋ぐ架け橋だった。

 そんな兄はもういない。兄は自身の身を引きかえにミーオを守ろうとしたのだ。 狂った自分からミーオと、彼女の中に宿る命を守るために。

「私が、兄さんを殺したのね……」

 フクスの言葉を聞いてミーオの顔が曇る。床に置かれた黒板を両手で持ち、彼女は言葉を続けた。

「あの人はこうも言っていた。フクスのために自分はここを創ったんだって。ただ、私たちが私たちでいられる場所にあなたを連れていきたかったって」

 黒板を胸に抱きしめ、ミーオはフクスのいる欄干へと歩む。暗がりに沈む村を見つめながら、彼女は告げる。

「あなたが、幸せになれる場所を創りたい。ただ、それだけだって」

 ミーオの言葉にフクスは大きく眼を見開く。彼女は胸に抱いた黒板を抱き寄せ、言葉を続けた。

「なのにあの人は言った。蒼色キンギョには敵わないって。私は自分と同じ亜人の人たちが笑える場所を創ることなんて出来ない。なのに、みんなはそんな私を大切にしてくれる。私が、蒼猫だから……」

 言葉を詰まらせミーオは俯く。フクスの狐耳に小さな泣き声が木霊する。

 ここに亜人たちはもういない。ミーオとフクスが手を打ち、みんな遠い異国へと旅立っていった。

 伯剌西爾で珈琲豆を栽培するための開拓団として旅立った人々もいる。戦後まもない日本に渡った人々も大勢いるそうだ。

 どちらも、昔から亜人に偏見をもたない国だという。

 伯剌西爾は阿蘭陀に支配されるまで翼の生えた蛇の亜人を神として崇拝しており、今でも亜人に敬意を払う国だという。阿蘭陀人の伝えた基督教も、国に根付く土着の宗教と混じり合い亜人ですら聖人として崇める独特の信仰を生み出している。

 自然の事象を祖霊信仰と結び付ける日本でも、亜人は神の使いとして親しまれてきた。特に狐の亜人はお稲荷様と称され、豊穣をもたらす存在として重宝される。 世界は広い。亜人を人間と変わらず扱ってくれる場所があることに、フクスは驚きを隠せない。けれど、この蒼猫島は違う。

「どうして、私たちは人じゃないんだろうね……」

 思いが言葉になる。翠色の眼を伏せ、フクスはミーオを見つめる。

 どうして自分たちは、亜人として生を受けたのだろう。どうして、亜人は人の中から突然生まれてくるのだろう。

 亜人という特異な存在が蒼猫の信仰と、白人たちによる差別を生み出した。その狭間で亜人である自分たちは翻弄され、その血脈により蒼猫島に伝わる信仰を担わされた。自分も眼の前にいる蒼猫の美しい少女も、その信仰のために生み出された存在に過ぎない。

 自分たちには、己のために生きることすら許されなかった。

「だから私は、亜人を人にするの……」

 瑠璃の眼を細め、ミーオが笑う。彼女の眼は沈みゆく夕光により黄昏色の光を宿していた。その眼は、遊郭都市の浮かぶ広大な湖を想わせる。

 信仰により生み出され、金魚鉢という名の牢獄に囚われていた蒼色キンギョは、自らの手によってそれを壊そうとしている。

「そうしれば、わたしたちはただの人になる。蒼猫の血脈を崇めるこの島の風習も、亜人への差別も新しい世界には存在しない。だれも人でないことから生じる運命に弄ばれることなく、自分でいられる世界がやってくる」

 光を帯びた彼女の眼が嬉しそうに煌めく。まだ見ぬ未来を見つめ、彼女は言葉を紡いでいく。その笑みを湛えた眼は、フクスへと向けられる。

「だから、私と一緒に死んでくれるよね? フクス」

 フクスの五指を自分のそれで絡めとり、彼女は問う。彼女の眼を見つめ、フクスは彼女の手をしっかりと握り返していた。

 翠色の眼を細め、フクスは彼女に微笑んでみせる。ミーオは嬉しそうに眼を輝かせ、フクスに抱きついた。

「嬉しい。これで私たちは永遠に一緒になれる。もう誰も、私たちを引き離せない」

 フクスの肩に顔を埋め、彼女は涙を流す。

 ミーオはすべてを終わらせるつもりなのだ。

 自分たちは、運命に翻弄され、惹かれあい、大切な者を喪った。

 オーアも、兄のレーゲングスも、そしてミーオの父であるファーゲアも。

 フクスが思いを寄せたアルプトラウムも、この世にはもういない。

 皆、この島に伝わる信仰によって生み出され、金魚鉢に囚われて死んでいった。

 ミーオを愛したフクスが、彼らを破滅させた。

 そんな自分を彼女は愛しているという。愛しているから、共に死のうという。

 フクスは眼を細め、ミーオの腹部へと視線を向ける。

 そこには、兄の血を引いた新たな命が宿っている。

 自分を守るためにミーオは兄と関係を持ち、子を身籠った。それは蒼猫の血脈を次代に伝え、フクスを守るための手段だったはずだ。

 ミーオは自分を守るために子を身籠り、兄と深い信頼で結ばれた。

 その絆にフクスは嫉妬したのだ。

 子が生まれれば、ミーオの愛は兄へと移るかもしれない。そんな恐怖がフクスを狂わせ、兄を死なせる結果となった。

「ミーオは私が憎くないの?」 

 震える声がフクスの喉からはっせられる。

 ミーオの父すら手にかけた自分を、ミーオは愛してくれる。

 どうして彼女はそれほどまでに、自分を愛せるのだろうか。

「私を愛してるから、フクスは狂ってみんなを殺したんでしょ?」

 甘いミーオの言葉が狐耳に突き刺さる。

「父さんが死んでとても悲しかった。レーゲングスが死んでとても悲しかった。でも、とても嬉しかった。それは、フクスが私を愛した結果だから。あなたはこの世界の誰よりも、私を愛して、私のために狂ってくれた。それは、私が一番欲しかったもの。望んじゃいけない、あなたのすべて……」

 ミーオが細い首を動かし、フクスへと顔を向ける。彼女の眼は涙に濡れ、白銀色に煌めいていた。ほろほろと涙を流しながら、彼女はそっとフクスを放す。

 彼女の両手は、腹部へと添えられていた。

「だから、この子も連れていくの。この子はフクスのためにあの人に授けてもらった子だから。フクスのために生むはずの子だから。この子は、フクスと私の子。だからきっと一緒に来てくれる」

 瑠璃の眼を細め、ミーオは微笑む。慈愛の光を宿したその眼を、フクスは見つめることしかできなかった。





 その集会は、金魚鉢の崩壊前夜に行われた。

 蒼猫は自らの力でもって、島中の亜人たちに語りかけたのだ。女神の化身たる自分の声を聴くために、聖所に来いと。

 瑠璃湖の水が流れ込む谷底は光で溢れていた。

 滝壺に作られた櫓を松明を持った人々が取り囲んでいる。みな陰影に獣耳を揺らめかせながら、滝壺の岸辺を歩くミーオを見守っていた。

 赤いタイドレスに身を包んだミーオは、蒼い猫耳を翻しながら颯爽と滝壺の中へと足を踏み入れていく。滝壺の中央には櫓が組まれ、松明が櫓の黒い影を瑠璃色に輝く水面に描いていた。

 人々に見守られながら、ミーオは櫓へと昇っていく。

 瑠璃湖を想わせる可憐な眼に凛とした光を湛え、蒼猫は声をはっする。

「臨時政府の手により、私たちと政府の橋渡しをしていたラタバイ・ベスティエは亡くなり、その後継人であったアルプトラウム・ベスティエもこの世を去りました。私たちに自由を約束してくれた金魚鉢はもうすぐなくなる。私たちは白人たちの奴隷になる」

 ミーオの宣言に、煌びやなタイドレスを纏った少女たちが騒めく。金魚鉢で暮らす遊女たちだ。そんな遊女たちを慰めるように、彼女たちの周囲に集まった老婆たちが彼女たちの肩を抱く。

 獣耳を悲しげに垂らした老婆たちは、奈落に暮らすかつての遊女たちだ。彼女たちは金魚鉢で働けなくなってからも、滝壺の絶壁に穿たれた奈落の中で生き続けてきた。

 ミーオの話は真実だ。アルプトラウムという臨時政府との交渉役を失った金魚鉢は、その自治を臨時政府に奪われようとしている。彼らの真の目的は金魚鉢の地下に封印された女神の遺跡と、蒼猫の血を引くミーオだろう。

 極東の敗戦国では、神の血を引く帝が人であったという宣言を戦勝国に促された事件があったという。それと同様のことを、臨時政府は蒼猫である自分にも強要する気だ。

 すべてはこの島の古い秩序を壊すため。その秩序を壊し、臨時政府は自分たちの描く新たな秩序を島に築こうとしている。

 そんなことをさせるわけにはいかない。だからミーオは人々に語りかける。

「かつて白人たちは私たち亜人を奴隷に貶め、その存在すら悪魔の化身として嫌悪した。そして、私たちから土地を奪い、同胞であった島人たちすら私たちを忌むべきものと見るようになってしまった。それでも、この島の信仰はこの島の秩序を守るために残された。その秩序が今、彼らの傲慢によって壊されようとしている」

 すっと息を吸い、ミーオは言葉を続ける。

「だから、私たちの手で金魚鉢を壊そう。私たちの死をもって彼らを裁き、世界中に散らばる亜人たちに語りかけよう。あなたたちは立ちあがるべきだと。人と同等の存在になるべきだと。そのために、私はこの島の秩序を自ら壊す。私の死をもって愚かな人間たちに鉄槌を下す!」

 凛としたミーオの声が谷に響き渡る。その声に人々は歓声を送る。

 彼女を讃え、賛美し、自らも彼女の後に続くと人々は口々に叫ぶ。そんな信者たちに笑顔を送りながら、蒼猫は演説を終える。

 人々は知らない。櫓を降りる彼女が涙を流していることを。

 蒼猫は人々に嘘をついた。

 この島の要たる蒼猫は、自らの愛を貫くために金魚鉢を壊すことを決めたのだ。

 彼女は蔑まれる亜人たちのためではなく、愛する一人の少女のために死を選んだ

 櫓を降り、滝壺から離れたミーオは愛しい彼女のもとへと帰っていく。

 金魚鉢で待つ愛しい赤狐の元へと。

 


 

 

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