決別~月下美人

 銀色に光る月を見るたび、レーゲングスは思いだすことがある。暗い月光の下で、兄のように慕っていた銀糸の麗人に押し倒されたときのことを。 

 フクスが生まれたその夜、彼は瓔珞樹でレーゲングスを抱きしめながら泣いていた。君もいよいよ私と同じになるのかと、彼はレーゲングスを涙に濡れた眼でみつめてきたのだ。

「どうして泣いているの、アル兄さま……?」

「君を見ていると悲しくなるからだよ、レーゲングス……」

 優しく茜色の髪を梳いてくれる兄は、レーゲングスに囁く。蒼い彼の眼は涙で潤んみ、澄んだ海の蒼を想わせた。

 海のような眼から零れる涙は、どんな味がするのだろうか。気になってレーゲングスは兄の頬に舌を這わせていた。

 涙が伝う兄の頬は、塩辛い味がする。眼を見開く兄に笑いかけ、レーゲングスは己の舌をアルプトラウムに見せつけてみせた。

 瞬間、彼の顔が眼の前に迫る。彼は自身の舌をレーゲングスの小さなそれに絡み合わせていた。逃げ惑うレーゲングスの顔を両手で掴み、彼は口腔へと舌を進める。舌を引き抜かれると、大きな脱力感がレーゲングスを襲った。朦朧とする視界に映る兄は、凪いだ蒼い眼を自分にむけるばかりだ。

 その眼が三日月のように細められる。下草に寝そべるレーゲングスの頬にそっとふれ、彼は口を開いた。

「いいよ、君が私を望むのならそうしよう。そのときが来たら、私を君のものにしよう」

 レーゲングスの頬を優しくなで、彼は顔を近づけてくる。唾液に濡れた唇を塞がれて、レーゲングスは大きく眼を見開いていた。

 唇を離した兄は、自身の耳元に囁きかける。

「だから、この言葉を覚えておきなさいレーゲングス。ジャスミンだ。ジャスミンの花をそのときが来たら君に贈ろう。君が私を望むのなら、私と共に抗いたいと思ったのなら、私は君と共に君の望みを叶えよう」




 脳裏に浮かんでいた回想が消えて、視界に現実の映像が映り込む。木製の格子とそれを背に佇む銀糸の麗人を捉え、レーゲングスは苦笑していた。

 ミーオと一夜を共にしてからの出来事が、自分の脳裏を駆け巡る。船に乗って村へと帰ろうとする自分たちをかどわかした者たちがいた。気がついたら自分は、ここに放り込まれていたのだ。

「ミーオは、どこに……」

 彼が来るたびに口にしていた言葉を繰り返す。体を捻ると、激痛が全身を駆け巡った。鎖の擦れる音がして、自分の手足が枷によって拘束されていることを思い出す。

「彼女は無事だよ。君の愛しい赤狐と共にいる。そして、こうなることを望んだのは、君の愛する赤狐だ」

 悲しげにレーゲングスの眼前に立つアルプトラウムは眼を細める。彼は床に膝をつき、レーゲングスの頬にふれた。

「私とて、愛しい君をこんなところには閉じ込めたくない。けれど、これは我らが主たる蒼猫の意思でもあるんだ。彼女は赤狐と共にいることを選んだ。君が彼女の側にいる限り、フクスは君を殺そうとするだろうね」

 アルプトラウムの言葉にレーゲングスは彼を睨みつける。フクスが自分を陥れたという事実をレーゲングスは受け入れることができないでいた。

 アルプトラウムはここに来るたびに、その事実を自分に伝えている。妹を愛する蒼猫が、自分をここに閉じ込めておくことを望んでいることも。

 おかしくてレーゲングスは嗤っていた。嗤うたびに、頭部に生えた茜色の狐耳が小さく蠢く。ミーオと関係を持って生じた亜人である証。その証は、フクスを裏切った罪の証でもある。

 ミーオと自分は愛するフクスのために、彼女を裏切った。蒼猫の血脈があるからこそ、人々はミーオを女神と崇め服従する。その密かなる信仰の力が金魚鉢とそこにいる妹を守っているのだ。

 フクスを守るために、自分はこの身を女神たる蒼猫に差し出した。

 後悔はしていない。ただ、気にかかることが一つある。

「俺の子は元気なの?」

 ミーオの中に新たな命が宿っていることを、ここに閉じ込められてから知らされた。それから、レーゲングスは我が子のことばかりを考えている。

 自分たちはロクでもない親だと思いながらも、レーゲングスは我が子のことを愛おしいと思っている。

 自分たちの親もこんな屈折した愛情を抱いていたのだろうか。そう思うと、両親のことを愛おしく思えるから不思議だ。亡くなった母は、その負目から自分を愛せなかったのかもしれない。

「レーゲングス……」

 アルプトラウムの眼が憐憫に震える。

 彼もまた自分たちと同じロクでもない理由で生み出された子供だった。その役割のために彼は愛しい姉と引き離され、その役割から姉を開放するために彼女を手にかけた。

「分かってる。俺とミーオは繰り返しただけ。アル兄さまはその連鎖を断ち切った。俺たちみたいな存在が増えないように。でも、俺は馬鹿だからそれができない……。そうやって、俺たちの親は罪を重ねて、その罪を子供たちも繰り返してきたんだろうな……」

 レーゲングスの一族は時の権力者に取り入り、近親相姦を繰り返すことで神聖なる血筋を保ってきた。男は人間に成りすまして蒼猫を守るために世間を動かし、女は次の世代に続く子を孕むために産み落とされる。そうして何世代にもわたって、この島の人々は自分たちの要たる信仰を守ってきたのだ。

 金魚鉢はその内に女神の聖所を秘めた牢獄。その密やかなる力は金魚鉢の自治として表に表れ、その金魚鉢を通じ狐の一族たちは蒼猫の血脈と島の信仰を守ってきた。そのために生まれた子たちは、その運命に翻弄され生涯を終える。

 なぜ親たちがそんな愚かなことを繰り返してきたのか、レーゲングスは分からなかった。我が子を得て、初めてレーゲングスはその理由を知ったのだ。

「でも、今はそんな親たちの気持ちがわかる。愛おしんだ。俺の子も、その子を授けてくれたミーオも。そんな連鎖の中で生まれてきたフクスも……。それを生み出したこの島が愛おしい」

 眼を瞑ってレーゲングスは我が子に思いを馳せる。

 歳の離れた妹が生まれたとき、彼女を抱いたことがあった。丸まった狐耳の生えた妹は、優しい笑みを浮かべる母に抱かれていた。

 母から手渡された妹のあたたかさにレーゲングスは眼を見開いた。軽いのに、安らかな寝息を立てる彼女を見て、こんな小さな命があるのかとレーゲングスは泣いてしまったのだ。

 腕の中にいる小さな存在が愛おしくて涙を流す自分を、母が抱き寄せてくれた。

 母に抱きしめられたのはそれっきり。レーゲングスは母と妹から引き離され、人間として育てられた。

 寺院の中にいるフクスと再会したとき、レーゲングスはただ嬉しかった。

 腕の中に抱いたあの小さな妹を再び抱きしめられたことが。そんな彼女が健やかに成長していたことが。

 だから自分はフクスを愛した。

 そして、まだ生まれぬ我が子にもレーゲングスは同じ思いを抱いている。

 眼を開けると、苦笑を宿すアルプトラウムの顔があった。彼は優しくレーゲングスの頬をなで、言葉をはっする。

「君の子は、蒼猫の血を引いている。ミーオを愛するフクスがその子に手をかけることはないだろうし、その子を殺そうとすれば、この島の亜人が黙ってはいないだろうね。私もミーオの子供に関しては精一杯のことはするつもりだよ」

「本当ですか?」

「勿論、蒼猫は我らが主。それ以上に、ミーオの腹の子は君の子でもある。その子を私も愛おしく思っている。私たちのように、ならなければないいけど……」

 アルプトラウムは蒼の眼を歪め、小さく言葉をはなった。

 彼の眼が潤んでいる。泣きそうな彼に、レーゲングスは体を近づけていた。

 擦れる鎖の音を耳にしながら、彼の唇に己のそれを重ねる。唇を離すと、大きく眼を見開く彼と眼があった。

「アル兄さま、遠い昔の話だよ。とある銀狐が幼い赤狐の唇を奪った。銀狐は赤狐が自分と同じ運命を背負わされたことを嘆いて、涙を流したんだ。そして彼は自分と同じ運命を背負った赤狐を愛してくれた。彼は約束してくれたんだ。君が私を望むのなら、私は君の望みを叶えようと――」

「レーゲングス……」

 唇に五指を這わせながら、眼の前の銀狐は困惑に眼をゆらす。レーゲングスはそんな彼に嫣然と微笑んでみせた。

「花の代わりに、あなたは俺に銀貨を贈ってくれた。ちゃんと受け取ったよ。だから俺の望みを叶えてくれ。アルプトラウム兄さん」






 赤い部屋にフクスは足を踏み入れる。金魚の意匠が施された観音扉を潜ると、様々な色合いの垂れ幕が天井から垂れさがっていた。

 茜、辰砂、埴生、紅、緋色。

 赤い織物の林の中。その中央に、天蓋を纏った豪奢な寝台はあった。金魚の寝具が並ぶその寝台の上に蒼い猫耳の少女が横たわっている。

 赤とは対照的な青い髪を真紅の布の上に広げ、少女は瑠璃の眼を自分に向けてきた。瑠璃の眼は涙に潤み、悲しげに光り輝いていた。

 フクスは愛しい蒼猫のもとへと駆けていく。

 豪奢な着物にフクスは身を包んでいた。極東の遊女が纏うというその衣装は、深緑の地に赤い狐と曼殊沙華が踊る錦絵の施されたものだった。そんな着物を翠色の帯でフクスは止めている。赤い髪にはセラドン陶器で象った簪が高く結わえられ、赤い狐耳にはブーゲンビリアを象った翠色の耳飾りが踊る。

 対して寝台の上のミーオは、蒼いタイドレスを纏っていた。飾り毛が美しい彼女の蒼猫耳を想わせるドレスは、瑠璃の帯留めで止められている。駆けるフクスを見つめるミーオが体を動かすと、足首に嵌められた枷の鎖がかすかに鳴った。

「あぁ、ミーオ! ミーオ!!」

 愛しい恋人の名を呼び、フクスは寝台へとのぼる。膝を動かしてミーオへと近づくと、彼女は弱々しく微笑んで自分を抱きしめてくれた。

 ミーオの体があたたかい。フクスは眼を瞑り、狐耳を彼女の腹に押しつける。

 微かに膨らむ彼女の腹部からは、小さな心音が聞こえた。ミーオのそれとは違う頼りなくて、愛らしい心音が。

「あぁ、今日も私たちの子は元気……。私とミーオの子がここにいる……。兄さんが授けてくれた愛しい子が……」

「あの人は無事なの……?」

 ミーオの震える声にフクスは眼をゆったりと眼を開く。顔をあげると弱々しく猫耳をたれた彼女と眼があった。瑠璃の眼は縋るようにフクスを見つめている。

「ミーオ……」

 冷たい声がフクスの喉からあがる。フクスはミーオの手を振りほどき、彼女を寝台に押し倒していた。

「フクスっ!」

「やっぱり、あなたの中には兄さんがいるのね。私を通じて兄さんがあなたの心に根づいてしまったのね」

 フクスは彼女の腹部に手を近づけ、そこを鷲掴みにしてみせた。ミーオが苦悶に表情を歪める。彼女は腹部に充てられたフクスの手を両手で掴み、それを引き離そうと懸命に足掻いてみせた。

 そんな彼女を見て、フクスの中に愛おしさが生まれる。

 彼女は腹の中の我が子を必死に守ろうとしているのだ。ミーオはなんて健気で優しい母親なのだろう。そして、自分ために彼女はその子を身籠ってくれた。

 彼女の中にある蒼猫の血脈が、この島の信仰の中心にはある。そしてこの金魚鉢は聖なる女神の神所を内包している。

 その二つの影響力を持って、彼女はフクスを守ろうとしてくれたのだ。フクスを守ってくれる血脈を引き継ぐ子を成すために、彼女は兄を選んでくれた。

 自分の兄を通じて、彼女はフクスの子供を生もうとしてくれている。

 その兄の存在が彼女の中で大きくなっていた。下手をすると彼女はフクスではなく、兄を選ぶことになる。

 先ほどもミーオは自分を歓迎する言葉でなく、兄を案じる言葉を吐いた。ミーオにもっとも愛されているはずの自分が側にいるのに。

「ごめんね、ミーオ……」

 彼女の腹部から手を放し、フクスは彼女の頬を優しく包み込む。苦しげに歪めた眼をフクスに向け、ミーオは荒い息を吐いてみせた。

「私はどうなってもいいから、この子とあの人だけは……。お願い、フクス……。あの人はあなたのお兄さんでしょ……? 何でこんな……」

 瑠璃の眼から涙が流れる。涙に彩られ輝くその眼を見て、フクスはうっとりと眼を細めていた。他者を思いやる蒼色キンギョのなんと健気なことだろう。そんな彼女が心の底から愛おしい。

 フクスは彼女の唇に口づけを落とす。ミーオは大きく眼を見開き、震える眼を自分に向けてきた。

「やだ……。やめてフクス……。お腹の中の子に何かあったら……」

 両手で腹部を庇いながら、ミーオは首を振ってみせる。暴れる彼女の顔を抑えつけ、フクスは優しく声をかけていた。

「大丈夫よミーオ。愛し合うだけじゃない……。私が、あなたの子に害を及ぼすなんてありえないわ……」

 翠色の眼を嫣然と細め、赤狐は嗤う。涙を流す蒼色キンギョの顔を覗き込みながら、フクスは彼女の唇を今一度塞いでいた。

 小さな唇を舌で押しやり、彼女の口腔へと侵入する。逃げ惑うミーオの舌を自身のそれで弄ぶと、彼女は涙を零した。舌を引き抜くと彼女は荒い息を吐き、自分を濡れた眼で見あげてくる。

「これからね、私の旦那様になる人と会いに行くの。その人のもとに兄さんはいるし、ちゃんと生きてるから安心して。銀狐は、アルプトラウムさまは私たちの見方よ。その方に、私は操を捧げに行くの。あなたが私の子を成すために兄さんに体を捧げたように……。でもね、心の底から愛してるのはミーオ。蒼色キンギョであるあなただけ……」

 うっとりと眼を細め、フクスはこれまでの出来事に思いを馳せる。

 金狐が、オーアが死んだあの日。フクスはアルプトラウムに囁いた。兄を虜にすれば、兄に想いを寄せ始めた蒼色キンギョは身動きが取れなくなると。

 そして彼に持ち掛けたのだ。蒼猫を守る一族の子孫同士、手を組まないかと。

 彼は兄を欲している。フクスはミーオの心が欲しい。

 利害が一致したフクスとアルプトラウムは、お互いの欲望のために行動を起こした。彼は兄とミーオを捕え、兄に奪われかけていたミーオを自分に返してくれたのだ。

 一方、フクスはオーアからこの廓と守り人の地位を譲り受けた。

 フクスはミーオを虜にし、アルプトラウムの推し進める臨時政府の案を他の守り人たちに呑ませようと日々奮闘している。

 ミーオが手元にいるお陰で守り人たちとの交渉も上手くいっている。あとはミーオの子が無事に生まれ、ミーオの心が自分の元に戻ってくればすべてが上手くいくのだ。

「フクスはそれでいいの?」

 弱々しい声に引き戻される。ミーオに眼を向けると、彼女は涙を流しながらそっとフクスの頬に手を添えてきた。

「フクスは、それで幸せ......?」

 彼女の言葉にフクスは大きく眼を見開く。

 自分の愛しい蒼色キンギョは何をいっているのだろうか。自分の腕の中には彼女がいる。そして、邪魔者の兄はここにいないのだ。

 協力者であるアルプトラウムとも上手くいっている。すべては自分の思い通りになっているのに、涙が頬を伝うのはどうしてだろう。

「いいの……。ミーオが手に入るのなら、私はなんにも要らない。だからミーオ――」

 震える唇をそっと彼女のそれと重ね合わせ、フクスは言葉を続ける。

「私と一緒に堕ちて……」




 しゃらりとセラドン陶器の簪を鳴らしながらフクスは御影石の通路を歩む。ミーオと肌を重ね合わせたフクスは、高揚感に頬を熱くしていた。彼女の体を抱くたびに、フクスは言いようのない恍惚に溺れる。

 やめてと、叫んでいたミーオの声が狐耳に響き渡る。その甘美な声と、舌で拭った彼女の涙の温さにフクスは興奮し、ミーオを何度も高みへと導いた。

 そして、フクスは運命の男性とこれから肌を重ねに行くのだ。

 アルプトラウム・ベスティエ。

 溺れた兄を救った彼を見たとき、フクスは彼に恐怖しか感じなかった。

 だが、オーアを喪い、涙を見せる彼を見てからすべてが変わった。 

 彼は自分と同じだと分かったのだ。自分と兄のようにこの島に流れる運命に翻弄され、愛しい人を亡くした銀色の狐。

 その運命から愛しい姉を解き放った彼は、とても悲しく美しい存在だった。

 この人が欲しいとフクスは思ったのだ。この人なら自分の中にある悲しみを分かってくれる。そして、自分を導いてくれると。

 だから、フクスは彼に囁いた。

 彼は欲情から兄を欲していたのではなく、自分自身に兄を重ねていたのだ。

 自分の影のように兄を想っていたからこそ、溺れた兄を救った彼は微笑んでいたのだ。

 そんな銀狐にフクスは体を捧げる。

 それは彼がミーオを授けてくれた信頼の証であり、同志である彼を夫として迎えるための儀式でもある。彼もまたリッター家という血筋に生まれた自分を必要とし、自分を生涯の伴侶として選んでくれた。

 そこに一般的な男女の愛欲はない。自分は蒼猫であるミーオによって彼と固く結びついているのだ。ミーオへの愛があるからこそ、フクスは彼を夫に迎える。そうすれば、彼と共に未来永劫ミーオを守ることが出来る。

 彼は言った。この金魚鉢を臨時政府の思い通りにはさせないと。

 彼は自分たちの敵を演じながら、臨時政府の手に金魚鉢が渡っても自治を残せるよう取り計らってくれている。死んだラタバイの後を継ぎベスティエ家の家長となった彼に逆らうものはいない。

 彼はフクスの手によって亜人となる。そうすることで島の亜人たちに誠意をみせ、臨時政府に金魚鉢の自治の重要性と蒼猫の信仰の尊さを訴えるつもりなのだ。

 おかしなものだ。フクスはレーゲングスにこの体を捧げるために生まれてきた。

 その兄をミーオが亜人に変え、フクスは伴侶たる金狐を喪ったアルプトラウムを亜人にしようとしている。

 御影石の通路の先には、狐の描かれた木製の扉がある。そこに四匹の猫耳少女たちが控えていた。

 茶虎と、鯖虎と、三毛と、錆の猫耳を持つ彼女たちは袖にレースがあしらわれた黒いベルベットの着物を纏っていた。

 彼女たちは扉の前に並び恭しくフクスにお辞儀をしてみせる。茶虎と鯖虎の二匹の少女が扉のノブに手をかけ、扉を開けてみせた。

 重厚な扉が開け放たれると、銀糸の髪を纏ったアルプトラムがその向こう側に立っている。蒼い眼を細め彼は微笑んでみせる。フクスは満面の笑みを浮かべ、彼の胸へと跳び込んでいた。

「嬉しいことがあったのかい? 私の赤狐」

「えぇ、今日この瞬間がとても待ち遠しかった……。あなたがこちらに来てくれる、この瞬間が……」

 自分の手で彼は亜人になってくれる。そしてミーオのために共に戦ってくれるのだ。こんなにも幸せなことはない。

「では行くとしようか。私の花嫁」

「えぇ、未来の旦那様」

 二人は手を取り合い部屋の奥へと歩んでいく。そんな二人を猫耳少女たちは色のない眼で見送っていた。

 彼女たちの手により部屋の扉は静かに閉められる。




 緋色の寝台の上でミーオはただ泣くことしかできなかった。顔を両手で覆い体を横にすると、鎖の音がする。そっと顔をあげ足を見つめると、自分の足首に鎖の

ついた枷が嵌っていた。

 体を起こし、その枷にふれてみる。

 冷たい枷の感触に驚いて、ミーオは思わず手を放してしまった。冷たい枷はまるで今のフクスのよう。自分を裏切ったミーオをフクスは許さなかった。彼女はアルプトラウムと手を組み、自分とレーゲングスを捕らえたのだ。

 フクスを想ってしたことが、彼女を追いつめていた。そのことに気がついたときにはもう遅く、自分は新たな廓の主になったフクスによってこの部屋に閉じ込められている。

 ほろほろと涙が頬を伝う。

 こんなはずではなかった。自分は、ただフクスを想い合う者としてレーゲングスを愛した。蒼猫の血を残すためにフクスと同じ血を引く彼を欲したのだ。

 そこにフクスに抱くのと同じ感情はない。自分とレーゲングスはあくまでフクスを通じて繋がっていた。彼女を守るためにお互いを信頼していただけなのに。

「そうだよね。そんなの分る訳がない……。私だって、フクスだったらきっと……」

 足枷にふれミーオは弱々しく微笑んでいた。自分を押し倒しながらアルプトラウムと関係を持つことを嬉々として話したフクス。彼女を見て、自分は空虚な思いを抱くことしかできなかった。

 自分の愛するフクスが自分のために男を想い、その男に抱かれる。その事実が重く心にのしかかってきたのだ。

 自分と同じ立場になったフクスを見て、ミーオは己がやって来たことの罪深さを知った。そして、レーゲングスをそれに巻き込んだことを後悔したのだ。

 そんなミーオの猫耳に小さな心音が轟く。

 それは涙するミーオを慰めるように力強く響いていた。大きく眼を見開き、ミーオは心音の鳴る腹部に手を充てる。

 自分の中に息づいている命が、自分を慰めようとしてくれている。自分の身勝手な願いのためにレーゲングスをかどわかし、自分はこの子を身籠ったというのに。

「ごめんね……。本当に、ごめんね……」

 フクスは生まれたこの子も自分のように虜にするのだろうか。フクスによってこの子は金魚鉢に囚われ続けるのだろうか。この子を授けてくれたレーゲングスのように。

「おい、ミーオ。ミーオ!」

 誰かが自分を呼んでいる。俯いていたミーオは驚いて顔をあげていた。自分と同じ瑠璃の眼が、自分を見つめ返してくる。

 蒼猫耳を持つ父が、寝台に手をつき自分を呼んでいた。

「お父さん。どうしてここにっ!?」

 四つん這いになってミーオは父の側へと向かう。父はミーオの片足に嵌められた枷を見て辛そうに眼を歪めた。

「まさか、嬢ちゃんがこんなことをするなんてな……」

 枷の嵌められた足首にふれ、父は苦々しげに言葉をはっする。そっとファーゲアは足首から手を放し、ミーオの肩を抱く。

「とにかく、ここから逃げるぞ。今の嬢ちゃんは普通じゃない。お前も腹の子もどうなるか分かったもんじゃねぇ」

「そんな……逃げるなんて無理よ。フクスの後ろには、あのアルプトラウムがいるのよ」

「大丈夫。アルの旦那も俺たちの仲間だ。それに、お前を助け出したいって言いだしたのは兄ちゃん。レーゲングスだよ。だから安心しろ。それに俺は蒼猫だ。俺が盾になれば、嬢ちゃんでも太刀打ちできるかどうか」

「あの人が私を……」

 得意げに笑みを浮かべる父を見て、ミーオは大きく眼を見開いていた。レーゲングスが生きている。生きて、自分と我が子を救い出すために動いてくれた。

 でも、それではフクスはどうなるのだろうか。

「無理よ。私は、ここから離れられない。フクスを裏切れない」

 ぎゅっと自身の腹部を抱きしめ、ミーオは震えた声をはっする。

 フクスは自分の裏切りによって嫉妬に狂い自分たちを陥れた。彼女が追いつめたのは自分なのだ。

「腹の子に、お前の気持ちを押しつけるのか?」

 鋭い父の声がミーオの猫耳に響く。彼は瑠璃の眼でミーオを睨みつけ、言葉を続けた。

「死んだ母ちゃんは、お前が生まれるまで腹の中にいるお前を、俺の子だとは信じてなかった。母ちゃんは男に犯されてから金魚鉢の滝に身を投げたんだ。大きくなる腹を抱えながら母ちゃんは何度も俺に謝ったよ。川に身を投げようとしたこともある。でも、俺がそれを許さなかった」

 瑠璃の眼が優しい微笑みを描く。彼はミーオを抱きしめ、言葉を締めくくる。

「生まれてきた子が例え赤の他人だったとしても、俺はお前を愛する自信があった。だって、俺が愛した母ちゃんの子だ。そこに何の迷いがある? その子に何の罪がある? だからお前は、腹の中の子に自分の罪を押し付けちゃいけない。その子は、まだ生まれてもないんだからな……」

 ミーオの腹部に父の武骨な手があてられる。蒼い産毛で覆われたその手に幼いミーオはなんど抱きしめられただろう。

「そうよ……。この子は、ここにいちゃいけない……」

 父の言葉を聞いて、嘘のように迷いが晴れていく。

 フクスのことは心配だ。でも、この子を今のフクスの手元に置くことはできない。蒼猫の血を引くとはいえ、レーゲングスと自分の関係に嫉妬した彼女が、生まれたこの子を愛してくれるとは限らないのだ。

 例え愛してくれたとしても、それが歪んだものであったら。

 ぞくりと悪寒を覚え、ミーオは父を抱きしめ返していた。父はそんなミーオを慰めるように体を抱き寄せてくれる。

「大丈夫、アルの旦那が時間稼ぎをしてくれてる。行こう、ミーオ。レーゲングスもお前と腹の子の無事を祈ってる」

「うん……」

 父の言葉にミーオは力強く頷いてみせる。そっと父から両手を放すと、父もまたミーオを放し顔を覗き込んできた。

「大丈夫。ここを出たら嬢ちゃんのことを考えよう。あの子も、正気に戻ればきっと理解してくれるはずだ」

 瑠璃の眼を細め父が笑う。ミーオが眼に笑みを描くと、父は真摯な眼差しを足首の手枷に向けた。

「まずはこれを何とかしないとな。」

 父の手が足かせに伸びる。その時だ。空を切る発砲音が響いたのは。

 父の体が前のめりに倒れる。銃声が幾度も響き、その度に倒れた父の体がゆれる。硝煙の香りが鼻を突く。その香りを辿って視線を巡らせると、開いている扉を認めることが出来た。

 深緑の地に狐と曼殊沙華が踊る着物に身を包んだフクスと眼が合う。彼女は小拳銃をミーオのいる寝台に向け、色のない眼をこちらに向けていた。

「だめよ、ミーオ……。ここから出るなんて、私を裏切るなんて許さない……」

 ふらつく足どりでフクスは寝台へと近づいてくる。煙を吐く小拳銃を床に投げ捨て、寝台を取り巻く赤い織物を両手で掻きながら彼女はやってきた。

 フクスは寝台にのぼり、唖然とするミーオを抱きしめる。しゃらんと鎖の鳴る音がして、ミーオは彼女が足枷に触れていることに気がついた。

「あの人が私を裏切った……」

 ミーオの足枷をなでながら、フクスが呟く。無感動な眼をミーオに向け彼女は続けた。

「兄さんがね、自分の存在と引き換えにあなたを救って欲しいって、あの人に懇願したんですって。あの人は、私を縛り上げて言ったの。君は狂っている。だから私は君の協力者になるふりをして、君の動向を窺っていた。申し訳ないが、私たちの蒼猫を君に任せることはできないって……」

 フクスの声が途切れる。ほろほろと翠色の眼から涙を流しながら、フクスはミーオを抱き寄せた。

「私は簪であの人を刺して……。どうして、ここにいるんだっけ……。あのねミーオ……兄さんがここにいるの。ミーオを助けるために、あの人とここにやって来たの……。あの人に誠意をみせるために……」

「何を言ってるの。フクス……?」

 レーゲングスがここに来ているとはどういうことだろうか。

 フクスの言葉の意味がわからず、ミーオは彼女の顔を覗き込む。ただフクスは焦点の合わない眼から涙を零すばかりだ。

 ミーオの言葉を受け、フクスは着物の懐へと手を入れる。そこから彼女は小さな硝子瓶を取り出し、それを転がした。

 赤い布団の上で透明な液体を収めた硝子瓶がゆれる。

 その硝子瓶の中に翠色の眼が納められている。液体の中を漂うそれは、悲しげにミーオを見つめていた。

 




 何が起こったのかフクスには理解できなかった。

 アルプトラウムが翠色の眼が入った硝子瓶を自分たちが横たわる寝台に転がしたのは覚えている。それは兄の覚悟の証だと彼は告げ、自分を拘束しようとした。

 抵抗し、髪に飾った簪で彼の眼を貫いた。

 寝台に倒れた彼を残し、フクスはミーオの元へと駆けつけたのだ。そして、ファーゲアに連れ去られようとするミーオを目撃した。

 そこから先の記憶がフクスににはない。

 だから、赤い寝台の上でミーオが自分を抱きしめている理由が分からなかった。 彼女が涙を流して自分の名を呼ぶ理由も。

 自分が兄の眼の入った硝子瓶を握りしめ、泣いている理由も。

「兄さんが死んだ……。私のせいで死んじゃった……」

 我に返ったフクスは、小さく呟く。その言葉に応じてミーオが面を上げた。彼女は涙に濡れた瑠璃の眼を細め微笑んでくれる。

「違うよ、フクスのせいじゃない。フクスが悪いんじゃない。彼は私のせいで、こうなったの。私の我儘に巻き込まれて、彼は……」

 そっとフクスの両頬を包み込み、ミーオは俯く。彼女の眼から涙が零れ、雫となったそれは赤い布団に散らばっていく。

「私のせいでみんな死んだ。私のせいで皆狂った……。みんな、みんな、この体に流れる血のせいで、悲しんで、苦しんで、死んでいく……。だからね、フクス……」

 震える彼女が顔をあげる。彼女の桜色の唇がフクスのそれに重ねられる。フクスは、兄の眼がはいった硝子瓶を落としていた。ころころと硝子の中で転がる眼を一瞥し、フクスはミーオを見つめる。

 自分の愛しい蒼猫は、悲しげに眼を細めるばかりだ。そんな彼女をフクスは抱きしめていた。

「何があなたの望みなの?」

「私たちで終わりにしよう。金魚鉢を壊そう」

 

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