暗転~崩壊序曲


 そこは、自分が生まれ育った寺院に似ていた。東南亜細亜のどこかには、密林に沈んだ石造りの寺院や神殿が今も建ち並んでいるらしい。

 違う部分といったら、その遺跡がある場所が暗い地下室だということだ。円形の地下には石灰岩でできた柱が円を描いて建ち並んでいる。猫の顔を持つふくよかな体躯の女がその石柱には彫り込まれていた。その女の彫像を、壁に嵌め込まれた金魚たちの泳ぐ水槽が黄金色に照らしている。

 ここは、金魚鉢の地下だ。

 かつてこの場所は、この島を生んだとされる蒼猫島の女神を祀る場所だった。この島の原住民たちは、島の中央に位置する瑠璃湖に海から取れる石灰岩を敷きつめ、女神の聖地たる人工島を創り出したのだ。

 それが、この金魚鉢の起源。

「白人たちがこの地を蹂躙する前、ここには今と同じように亜人の娼婦たちが棲んでいた。でも、意味合いは全く違う。彼女たちは聖娼だったんだ。古来より生殖は豊穣と結び付けられ、それを盛んにおこなうことは豊穣を祈る神聖なものであるともされていた。だから、古今東西の女神たちは奔放で、たくさんの男たちと関係を持つ。彼女たちの生み出すものが、この世界に恵みを与えるからだ。だから、誰かと交わるその行為は、女神を尊ぶ神聖なものとされていたんだよ」

 オーアの声が地下に響き渡る。フクスが後方へと顔を向けると、黒いタイドレスに身を包んだ彼女がいた。地下の中央に鎮座する遺跡を見つめながら、オーアは言葉を続ける。

「ここが独逸の植民地になったとき、白人たちはこの遺跡を潰そうとした。自分たちの神を冒涜する邪教の聖地だって、牧師共が遺跡を打ち壊せってそりゃ煩かったそうだ。だが、この金魚鉢を設計した日本人技師はこの遺跡と島に伝わる信仰にいたく感銘を受けて、遺跡をこの地下に保存しその上に今の遊郭都市を築いた」

「知っています。母が教えてくれたから」

 石柱に刻まれた女の彫刻に触れ、フクスは翠色の眼を伏せる。これと同じ女の彫刻をフクスは生まれ育った寺院でいつも見ていた。

 石灰岩で作られた寺院の通路には、猫の顔を持つ女と、そんな女を取り巻く狐たちの彫刻が施されていた。長年の風雨ですっかり薄くなったそれを指さして、母はフクスに繰り返し言ったのだ。

 ――ここに彫られているお方に、お前はお使いするのだと。

 それが、蒼色キンギョであるミーオであることを知ったのはずっと後。死ぬ間際に、母はフクスに告げたのだ。金魚鉢へ行けと。そこでお前の主がまっていると。

 病に倒れた母は蒼く削げた顔をフクスに向け、掠れた声でその遺言を残した。

 フクスは母の言葉を頼りに、金魚鉢へと身を売ったのだ。

 そうしてフクスは、母の言葉の意味を知る。

「どうして、私をここに?」

 オーアへと顔を向け、フクスは問う。彼女の赤い眼が真摯な色を帯びる。

「私たち狐の一族は代々、蒼猫を守ることを使命とし、女神を奉る寺院を守護してきた。時代が変わり女神の信仰が衰えても、私たち金狐と銀狐の一族は金魚鉢の守人として、この地と蒼猫さまをお守りしてきた。それはお前たち赤狐の一族も同じた」

「だから私をここに呼んだのね」

フ クスの言葉にオーアは頷いてみせる。彼女は自分と同じ狐の末裔たるフクスに、話しておきたいことがあるのだろう。

「これから私は死ににいく。だからミーオをお前に託したい。蒼猫に愛され、私と同じ狐であるお前にしか頼めない」

赤い眼を寂しげに伏せ、オーアは口を閉ざす。

オーアは黒いタイドレスを翻し、壁の向こう側にいる金魚たちへと視線を向けていた。赤い金魚たちの群れの中に、白い銀魚が混じっている。硝子をつつくその銀魚に指を指を伸ばし、オーアは厚い唇を開いた。

「昔、昔のお話だ。二匹の狐の姉弟がいた。金と銀の美しい子狐たちは、片時も離れることなく側にいたんだ。けれど、金色の狐はある日を境に銀色の狐と別れて暮らすことになった。それから、二人は遠く離れている。心も体も通い合わせることすら出来ず、すれ違ったまま」

 そっと硝子の向こうにいる銀魚を指でなでながら、オーアは微笑む。銀漁は嬉しそうに、オーアの指の周りをぐるぐると泳ぎまわった。

「お前、あの子みたいだね。私の後をいつもついてきたあの子みたいだ。ここにあの子も閉じ込められたらよかったのに……。私と一緒に、ずっといてくれたら……」

 小さな嗚咽がフクスの狐耳に突き刺さる。黄土色の狐耳を力なく垂らし、オーアが泣いていた。彼女は片手で顔を覆い、フクスへと振り向く。

「ごなんな、フクス……。昔の事、思い出しちゃって……。でも、私はこの金魚鉢から出られない。大切な人を喪って、その代わりに私を愛し続ける爺を独りにはできないんだ……」

 顔に充てた手を放し、オーアは涙に濡れた眼を笑みの形に細めてみせた。

「遺言だよ。お前に、同じ狐の一族である赤狐に主たる蒼猫を託したい。私はもう、長くはないだろうから。同じ狐の一族たるお前にこの廓と、私の守人たる地位を譲ろう」

 体をフクスのいる方に向け、彼女は弱々しい笑みを顔全体に浮かべてみせる。  オーアは金糸の髪をゆらしながら、フクスへと近づいてきた。そっとフクスを抱きしめ、オーアは静かに眼を瞑る。

「やっぱり、お前からはミーオの匂いがする……。本当はミーオに最後の言葉を伝えたかった。でも、あの子は私をきっと止めるだろうから……。お前の兄貴と遊びに行ってくれて本当に助かったよ……」

「私は、ミーオの代わりですか?」

「うん、だからミーオに伝えてくれるか」

 フクスの言葉にそっとオーアは眼を開ける。

「ごめんなさいって」

 赤い眼から涙を流し、彼女はフクスに遺言たる言葉を残す。なにも言わず、フクスは涙を流すオーアを抱きしめ返していた。





 アルプトラウムは姉を取り戻すこの日をずっと待ちわびていた。

 暗いガレのランプに照らされた室内には、老人を乗せたベルベット張りの椅子がある。その老人の背後に薄い紗を纏った寝台が置かれていた。その寝台に焦がれていた人が寝そべっている。

 オーアが寝台には寝そべっていた。豊満な胸を寝台に押しつけ、オーアはふくよかな尻を天井に向かって突き出してみせる。産毛をそられた彼女の素肌はランプに照らされ、暗いオリーブ色に輝いていた。

 黄土色の狐耳をしなりとさげ、オーアは赤い眼でアルプトラウムを誘う。

「堕ちたものだね。姉さん……」

 そこに自分の手を引いて無邪気に笑っていた姉の姿はない。金魚鉢に囚われた姉は、眼の前にいる老人によって異質な者へと変わっていった。

 金狐と呼ばれるその女が、自分たちの祖母であることは知っている。その女を追い求め、自身の祖父であるラタバイが姉をその女に仕立て上げようとしたことも。

 その血筋は、女神の寺院を守る狐の一族まで遡ることができる。彼らはこの地が白人に支配されてからも、権力者に取り入りこの島の信仰と蒼猫の血筋を守ってきた。

「オーアは、次の金狐を生み出すためにここにいる。そのためにお前も来たのだろう? アルプトラウム」

 ゆったりと老人の首が寝台の姉へと向けられる。舐めるように彼女の肢体を見つめる彼の眼差しは、姉の蠱惑的な眼を捉えた。オーアの眼を長い睫毛が覆う。物憂げに彼女は眼を潤ませ、その眼を自分へと向けてきた。

「違うよ。私はあなたが臨時政府の譲歩案を受け入れてもいいというから、その交渉にやってきただけだ。この金魚鉢が臨時政府の下に置かれても、最低限の自治を得られるようにね」

 蒼い眼を鋭く細め、アルプトラウムは眼前の老人を睨みつける。

「だから、その女と関係を持つことを私に強要することはやめてくれないか? 父さん。私は、あなたになるつもりなはい」

 アルプトラウムの言葉に、ラタバイは眼を見開く。彼は口元を大きく歪め、嗤ってみせた。彼の嗤いはやがて大きな嘲笑へと変わっていく。嗤うその男をアルプトラウムは見すえていた。

 自分の母は実の父親に犯され、自分たちを身籠った。この男は自らが愛する金狐の血統を残すために、娘と交わり子を成したのだ。

 その罪の証が自分と、姉。

 祖父であり父でもある男は、その因果に自分と姉を巻き込もうとしている。

 アルプトラウムは父と一緒に笑った。その笑い声に応えて、父であるラタバイはさらに大きな声で笑う。

 自身の顔を手で覆い、アルプトラウムは大きな息を吐く。それとともにラタバイの嘲笑が治まった。

「滑稽だね……。そんなにあの女が大事か? そのために、あんたはこの金魚鉢を守ろうとしている。自分自身の妄執のために……」

「そう、滑稽、滑稽。アルプトラウム、お前は彼女の側にいたあの人によく似ている。彼女の兄だったあの人に。私の愛したもう一人の狐に……」

 アルプトラウムを見つめながら、ラタバイはうっとりと眼を細める。遠い日に思いを馳せ、長い時を生きた老人は自身の思い出を語る。

「金狐の隣にいつもあの人はいた。私は二人を愛していた。そして二人もお互いを想っていた。だが、二人が結ばれることはなかった。だから私はお前たちを生み出したのだ。新たな金狐と銀狐を。さぁ、時を超えて結ばれておくれ。私の愛しい人たちよ……」

 両手を掲げラタバイは天を仰ぐ。遠くにいってしまった想い人たちに、彼はなおも語りかけた。

「ここに君たちは新たに生まれた。長かった戦乱がこのときを邪魔したが、もう何も恐れるものはない。さぁ、我が息子よ。愛しき銀狐よ。お前の麗しい金狐を返そう。あらたな狐を二人で産み落とし、私の愛を未来永劫に守っておくれ」

 ラタバイの顔は背後に控えた寝台へと向けられる。寝台に横たわる金狐は彼のなめ回すような視線を受けて、妖しく笑ってみせた。その笑みは蒼い眼を細めるアルプトラウムへと向けられる。

 オーアは両手を捻りながら肢体を起こし、寝台から降り立つ。ゆったりとした足どりで、彼女はアルプトラウムのもとへと歩んでいった。

 老人がそんな彼女の長い腕をなでる。オーアは老人に振り向き微笑んでみせた。

 彼女は成長した弟へと向き直る。

 赤い眼をゆったりと細め、オーアはアルプトラウムを抱きしめた。

「アル……。お帰り……」

 甘える姉の声が、耳朶に轟く。その声はアルプトラウムを遠い昔へと誘った。

 姉とはぐれ森で迷っていた幼い自分の姿が脳裏に蘇る。そんな自分に金髪を翻して姉が駆け寄ってきた。泣きじゃくる自分の頭をなでて、彼女は言ったのだ。

 ――お帰り。アル。もうすぐ、お家につくよ。

 あぁ、自分はこの声がずっと聴きたかった。優しくて、自分をいつも抱きしめてくれた姉の声が。

 目の前の老人に奪われ、人生を狂わされた姉を救うことがアルプトラウムの夢だった。

 その夢が、叶う。

「ただいま、姉さん……」

 蒼い眼に微笑みを湛え、アルプトラウムは姉を優しく抱きしめ返していた。




 泣き声が聞こえる。

 フクスはその泣き声に誘われるように部屋の扉をあけていた。

 翠色の眼に映るのは、月光のように眩しい銀髪。その銀髪を床に流して、一人の男が泣いていた。彼の腕には、見事な黄土色の狐耳を生やした女が抱かれている。

 一糸まとわぬ女は、穏やかな微笑みを浮かべたまま眼を瞑っていた。男が女を抱き寄せ、名を呼ぶ。彼女がその声に応え、眼を開けることはない。

 目の前の麗人はまるで自分のようだとフクスは思った。兄と愛しい少女の仲睦まじい姿を見ては、心の中で泣いていた自分のよう。

 泣くことすら許されず、彼との関係は表面上のものだと言っていたミーオの言葉を思い出す。兄のことを愛しげに語りながら、愛しているのはあなただけだと彼女は寝台の中で何度もフクスに囁いた。その囁きを聞くたびに、フクスが誰もいない場所で涙を流していることは知らずに。

 ミーオのことは愛している。だが、兄を愛している彼女は憎い。

 兄のことは愛している。だが、ミーオに愛されている兄は憎い。

 どうして自分とミーオは女なのだろうか。

 女同士でも子を孕めれば、ミーオは兄を求めたりはしなかった。

 フクスには分かる。二人は自分を通じて繋がっている。

 深く深く。お互いに離れられないほどに。

 だから、二人を引き離す必要がある。

 二人を引き離して、愛しい兄とミーオを取り戻す必要がある。

 そのために彼に声をかけよう。

 眼の前に転がる老人の死体を踏みしめ、フクスは泣き続けるアルプトラウムへと歩み寄る。彼はゆったりと顔をあげ、潤んだ眼をフクスへと向けた。

 蒼い彼の眼は、自分の愛しい蒼猫を想わせる。彼への愛おしさが心の底から込み上げてきて、フクスはそっと彼の頬をなでていた。

「可哀そうな人……。私みたいに独りぼっちなのね……」

 そっと膝を折って、フクスは彼の両頬を包み込む。彼は大きく眼を見開き、微笑むフクスを見つめるばかりだ。フクスは彼の腕に抱かれた女性を見つめた。

 ゆたかな金の髪に覆われたオーアの顔には、幸せそうな微笑が浮かんでいる。

 この金魚鉢に囚われていた金色の狐は、愛しい人の手でこの牢獄から解き放たれたのだ。その愛しい銀狐をこの牢獄に残したまま。

 独りぼっちの彼にフクスは語りかける。

「ねぇ、私と一緒にならない? そしたら独りじゃなくなる。私はこの金魚鉢をあなたのものにする方法を知っている。ねぇ、美しい銀色の狐さん」

「何を言っているんだ、君は……」

 震える彼の声が耳朶に轟く。その声がはっせられた唇に己のそれを重ね、フクスは彼の唇をそっと舐めてみせる。アルプトラウムの眼がゆれて、涙が零れる。

「兄さんを捕えてしまえばいい。そうすれば、蒼色キンギョは思いのまま。だから、その代わりにね――」

 翠色の眼を細め、フクスは嫣然とした微笑みを浮かべていた。

「蒼色キンギョを、私に頂戴……」

 

 




 

 




 


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