逢瀬~楽園創造
「で、あなたは結局どうしたいの?」
ミーオの冷たい声が耳朶に響いて、レーゲングスは苦笑していた。天井裏の寝台に腰かける自分の前に彼女はいる。白いパーシンとスアーを脱ぎ捨て、生まれたままの姿になったミーオはレーゲングスへと向き直った。
彼女が顎で部屋のすみを指示す。そこにはトランクや衣装箱が乱雑に置かれ、中途半端に開いた蓋から衣服が覗いていた。レーゲングスは黙って立ちあがり、そちらへと赴く。衣装箱の一つを開け、レーゲングスは小さなショーツを手にとった。
それをミーオに投げる。彼女は慣れた手つきでショーツを受け取り、それをレーゲングスの眼の前に投げ捨てた。蒼い産毛の生えた細い脚の片方を、彼女は見せつけるように前方へとあげてみせる。
「履かせて……」
すっと瑠璃の眼を細め、彼女は挑発的な声で告げる。レーゲングスは落ちたショーツを拾いミーオの元へと赴いていく。
彼女の前に傅き、あげられた細いその足に先にショーツをかけた。瞬間、彼女は足でレーゲングスの頬を蹴っていた。
顔を蹴られたレーゲングスはそのまま横向きに倒れ込む。ミーオを睨みつけると、彼女は呆れた様子で瑠璃の眼を細めてみせた。
「だからね、私はあなたの意見を訊いてるの? 睨むぐらいなら、怒鳴りつけられた方がまだマシなんだけど……」
ミーオがしゃがみ込んで自分の顔を覗き込んでくる。ジャスミンの香りが鼻孔をくすぐって、レーゲングスは顔を顰めていた。
「また、フクスと寝たのか?」
「フクスは私の恋人よ。その上、私が面倒を見ている見習いフナ。客を取る技を身に着けるためにも、彼女は私と寝る必要があるの。それを知ってて彼女をここに売ったのはあなたでしょ? それともフクスに振られたくせに、フクスの恋人である私に嫉妬してるの?」
眼を嫌らしく歪め、ミーオは嗤ってみせる。レーゲングスはそんなミーオに返す言葉がみつからなかった。
ただ悔しさに彼女を睨みつけることしかできない。ミーオははぁっと息を吐いて、ぼやいた。
「私だって、あなたみたいに中途半端な人を夫にするなんて御免よ。でも仕方ないでしょ。それがフクスを守るためなんだから」
立ちあがり、ミーオは寝台へと歩んでいく。彼女は寝台に腰かけ、床に転がるレーゲングスをじっと見つめる。
レーゲングスは蹴られた頬をに手を充て、ミーオへと視線を向けた。蒼い産毛を纏った肢体を少女は惜しげもなく自分に見せびらかしている。
名家であるリッター家の家長である自分と、蒼猫であるミーオが結ばれる。そうなれば、この金魚鉢の自治を脅かす臨時政府の何よりの牽制となる。
金魚鉢を手にすれば、彼らはこの島に密かに流れていた秩序すら破壊するかもしれない。それを防ぐ駒として、ミーオは自分を欲しがっているのだ。
この島の秩序は蒼猫に流れる血の信仰によって成り立っている。女神の血を引く彼女を中心に、この島の人々は生きているのだ。
「君は、それでいいのか?」
起き上がり、レーゲングスはミーオに問う。
「フクスを守るために、君は好きでもない男に抱かれるのか?」
「は、何言ってるの? 私があなたを抱くんだけど?」
レーゲングスの言葉にミーオが眼を見開く。彼女の言葉にレーゲングスは息を呑んだ。
「いや、ミーオ。それって……」
「だって、あなたは女の抱き方を知らないでしょ? 私がリードするしかないじゃない。それって、私があなたを抱くっていうんじゃないの? 体位も必然的に私が上になるし。基督教ではなぜか女が下の体位じゃないといけないらしいけど、もしかしてそれに拘ってる?」
「いや、ちょっと待ってくれミーオっ。そういうことじゃないっ。その、君は、本当に俺との子供が欲しいのか……?」
「えぇ、欲しいわ。あなたじゃないと嫌」
レーゲングスの言葉にミーオは微笑んで応えてみせる。レーゲングスは立ちあがり、ミーオに近づく。彼女の肩を抱くとミーオは得意げに唇を歪めてみせた。
「何を考えてるんだ君はっ……? だって、君はフクスのことが……」
「フクスのことが好きだから、フクスが好きなあなたがいいの」
瑠璃の眼を細め、ミーオは微笑んでみせる。レーゲングスは何も言わずそんな彼女の寝台に押し倒していた。ミーオの青い髪が寝台に広がり、その上で楽しげに猫耳がゆれる。
「やっと、抱く気になった?」
彼女の体に覆いかぶさると、眼を嫣然と細めてミーオが囁いた。以前と違い、彼女は自分に触れられても嫌がるそぶりすらみせない。それどころか、喜んで自分を受け入れようとする。
「俺は、君が分らない……」
どうして彼女は、自分をこうもたやすく受け入れられるのだろうか。妹を愛し、その妹を売り払いながらも執着し続けた自分に。
不満げにミーオは眉根を寄せ、レーゲングスを見つめてくる。
「ねぇ、レーゲングス。あなたの覚悟はそんなものなの? そあなたはそれでフクスを守れるの?」
「フクスを守るために君を抱けって言うのか?」
「フクスはあなたを守るために金魚鉢に囚われた。あなたはフクスを守るために金魚鉢にやってきた。フクスはあなたを守るためにあなたを捨てた。あなたはフクスのために何が捨てられる?」
ミーオの眼が鋭く細められる。彼女はそっと手を伸ばし、レーゲングスの頬にふれる。その頬をなでながら、ミーオは言葉を紡いでいく。
「ラタバイ爺はオーアにずっと囚われてる。ラタバイ爺はね、この廓の主だった守り人の金狐に恋をした。でも、彼はあなたのように自分の持っているものを捨てられなかったの。地位も名誉もそのままに、爺は金狐を自分のものにしようとした。何があったのか私は詳しく知らない。でも、爺の愛した狐はそのせいで死んだんだって。オーアのお母さんをこの世に残して」
「それが、あの人が俺を蒼猫の伴侶にしたい理由か」
「そう、爺はかつての自分にあなたを重ねてる。孫であるオーアに愛する狐の面影を重ねてるみたいに。オーアはね、爺のお人形なの。大切な弟がいたのに、オーアはその子から無理やり引き離されて、爺の理想の金狐に仕立て上げられた。爺はオーアを通じて、かつての愛しい金狐を蘇らせようとした。オーアはそのことに気がついてないみたいだけど」
「誰がその話を?」
レーゲングスの脳裏に銀髪の麗人の姿が浮かぶ。いつも口元に歪んだ笑みを浮かべる彼は、微笑みを絶やさないラタバイと似ていた。
そもそも彼はラタバイの孫だ。似ていて当然だが。
そうしてレーゲングスは理解する。アルプトラウムが、自分に執着する訳を。
彼もまた、レーゲングスに己を重ねているのだ。同じ狐の一族である自分の中に、彼はかつての己を見ているのかもしれない。
ミーオは眼を愉しげに細め、言葉を継ぐ。
「秘密。私を御贔屓にしてくれてる、銀狐とだけ言っておくわ。オーアみたいにラタバイ爺の思い通りにされるのなんてまっぴらごめん。彼とは今のところ敵同士だけど、利害が一致したときだけは協力関係にあるの。彼はあなたみたいに私を嫌ってるみたいだけど。だからね、あなたがあそこを創ることができたのは、あの人のお陰でもあるのよ。ラタバイ爺がなかなか手放してくれなかったあの土地を、あの人が裏から手を回してあなたが買えるように手配してくれた。あそこは私たち亜人の聖地ですもの。人間の爺に好きになんてされたくないし」
「まさか、あそこって……」
レーゲングスはミーオの言葉を聞いて眼を見開いていた。
彼女の言葉の通りなら、彼女に嫌がらせをするために創ったあの場所も、彼女のお陰でできたことになる。
「本当、蒼色キンギョには敵わないな……」
眼の前にいる少女の偉大さに苦笑することしかできない。そんなレーゲングスを見つめながら、ミーオは嬉しそうに言葉を続ける。
「ねぇレーゲングス。私とデートしない」
「えっ?」
「だって、あなたはまだ私を抱く決意ができないんでしょ。だったら、私がどんな女か知るところから始めない。それに――」
瑠璃の眼を優しく細め、ミーオは弾んだ声で言った。
「私はまだ、あなたにジャスミンの花を貰ってないわ」
蒼猫島の空は蒼い。その蒼穹の青を映しとったかのように、この島の海から内陸へと続く河は森の翠に彩られている。海沿いに広がる海漂林は河を遡源すると広大な熱帯林へとその姿を変えていった。その広大な森に抱かれた河を、ミーオたちを乗せた船が進んでいく。
「で、俺が水先案内人ってことか」
「いいでしょ。金魚鉢に来たって、私にちっとも会いに来てくれないんだからっ!」
父のファーゲアが呆れた声を返してくる。船を漕ぐ彼をミーオは明るい声で怒鳴りつけていた。
ミーオたち一行は、金魚鉢から川を下ってとある場所にいこうとしている。そこにレーゲングスがミーオの『嫌がらせのため』に創った場所があるのだ。
レーゲングスの苦笑が蒼い猫耳に響き渡る。ミーオが隣にいる彼に眼を向けると、彼は口元をおさえ笑いを堪えていた。
「何が可笑しいんだよ……」
瑠璃の眼を不満そうに歪め、ファーゲアがレーゲングスを睨みつける。レーゲングスは気まずそうに父から視線を逸らした。ミーオはそんなレーゲングスから視線を逸らし、船の進む川へと視線を移す。
陽光に照らされる川を銀色に輝く闘魚たちが遡源していく。闘魚はときおり跳びはねては水飛沫を周囲に巻き散らし、川に戻っていく。
その中でもひときわ白い闘魚が川面から躍り出て、ミーオの前で跳ねてみせる。 闘魚の白みがかった鰭は虹色の光彩を放って、ジャスミンの花弁のように宙を舞う。その闘魚が水飛沫をあげる背後に、白い花畑を抱いた岸辺があった。
真っ白なジャスミンに彩られたその岸辺をミーオはよく知っている。母と水汲みに来るたびに訪れていた場所だ。
森の亜人地区と、人の居住区を隔てる柵が船の上から窺える。幼い頃ミーオはその柵の向こうに行くことすら許されなかった。
でも、今日はその向こう側に行くことが出来る。そこに、どうしても行きたかった場所があるからだ。
父の漕ぐ船は白い花の咲き乱れる岸辺へと辿り着く。船が岸に着くと、レーゲングスが船から跳び下り、自分へと手を差し伸べてくれた。彼に微笑みかけ、ミーオはその手を取る。
「君がここに来たいと言い出すだなんて、思いもよらなかったよ」
「あら、ここは私の嫌がらせのために創った楽園なんでしょ。だったら、私に見せなくちゃ」
苦笑するレーゲングスにミーオは言葉を送る。本当に彼がフクスを奪われた嫉妬心から楽園を創ったのか、この眼で見たみたいのだ。レーゲングスは恥ずかしそうにミーオから眼を逸らし、言葉を返す。
「でも、あそこは君とアル兄様の口添えがあったから作ることが出来たんだろ? 結局、俺は君に助けられてばかりだ」
「あなたが私に嫌がらせをしたいって思わなかったら、ここは出来なかったのよ。フクスを想うあなたの気持ちが、あなたの楽園を創った」
「楽園だなんて、大層なものじゃないよ」
「あのー、そろそろいいか」
自分たちの会話に割って入ってくるものがいる。竹の櫂を持った父が、うんざりした様子でこちらを見つめているではないか。
彼は笠を取り蒼い猫耳を曝してみせる。風に揺れる猫耳を手で押さえ、彼は船から降りた。ゆれる船の側には、小さなジャスミンの花が咲いている。彼はその花を静かに摘み取ると、ミーオへと近づいてきた。
かれは手を伸ばし、ミーオの蒼い猫耳にジャスミンの花を挿してみせる。
「楽しんで来いよ」
娘の猫耳に差した花をなぞり、彼はミーオの猫耳を乱暴になでてみせる。その掌の温かさにミーオは微笑んでいた。
ミーオはレーゲングスの手を放し、そっと父に向き直る。
「ミーオ……」
身構える父をミーオは力いっぱい抱きしめていた。驚く彼の胸に顔を埋めて、ミーオは言葉を続ける。
「ちゃんと迎えに来てね。約束だよ」
父に船を出して欲しいと頼んだのはレーゲングスだ。彼は自分とここに来ることは伏せ、用事があるからと父に仕事を頼んだ。金魚鉢からでる船に船頭として父が乗っているのを見たときは、本当に驚いたものだ。
そんな自分の横で得意げに笑うレーゲングスを心の底から恨めしく思った。
そして彼に、心の底から感謝していた。
こうやって父と触れ合うのは何年ぶりだろう。自分の背中があたたかい感触に包まれる。眼を開けると、父が自分の背中に腕を回していた。そのまま彼は自分を抱き寄せてくれる。
「楽しいか? 兄ちゃんといて」
「うん。嫌いだけど、好きな人」
「何だそりゃ」
父は自分を放し、そっとジャスミンの花で飾られた猫耳をなでてくれる。自分の後ろにいるレーゲングスを見つめ、父は言葉を続けた。
「娘を頼めるか?」
そっとミーオはレーゲングスへと向き直る。彼は一瞬だけ戸惑ったようにミーオを見て、父へと視線をやった。
「はい。大切な娘さんをお預かりします」
翠色の彼の眼が笑顔を形づくる。父に言葉を送りながら、彼は優しくミーオの手を握りしめてくれた。
ジャスミンの岸辺の向こう側には、誰も住んでいないとミーオは父から聞かされて知っている。そこに住んでいた人間たちがどうなったのかミーオは知らないし、知っていたとしても誰も答えないだろう。
ただ一つ分かるのは、ミーオたち蒼猫の一族を傷つけたから彼らが『この世からいなくなった』とうことだけだ。
竹の柵で区切られた人間の居住区には、廃墟が広がっているはずだった。
だから、居住区の水路を竹船が行き交う様子を見たミーオは驚きのあまり、猫耳を逆立ててしまった。
竹で編まれた高床式の住居が並ぶ通路は、雨期になると増水した川によって水路になる。泥で濁ったその水路を、翠色に煌めく陶器を乗せた船が行き交っていた。船を漕ぐ人々の頭部では、獣耳が愉しげにゆらめいている。
水路の外れには森を切り開いて作られた工房があった。赤い煉瓦で作られた工房からは煙が立ち上り、工房から出荷された大量のセラドン陶器がトロッコに乗せられた水路の船着き場まで運ばれていく。
工房を取り囲む壁際では、子供たちが笑い声をあげながら水に沈む道を走り回っていた。その子たちの頭にも、ミーオと同じ獣耳がある。
「本当に、ここは亜人の村なのね」
ミーオは弾んだ声をあげてみせる。
ミーオは村の様子を高台にある住居から眺めていた。ミーオは御座の引かれた床に座り込み、竹でできた低い欄干に手を乗せて村の様子を見つめる。壁際を走る子供たちは、空のトロッコに飛び乗ってレールの上を滑走する。トロッコに乗った子供たちを慌てて追いかける亜人の大人たちの姿がある。
笑う子供と、そんな子供たちを怒鳴りつけながら追いかける大人たちの姿が何だか微笑ましい。
この村にはレーゲングスの会社が経営する工房がある。
瑠璃湖周辺の地域からはセラドン陶器を作るのに最良な土が出土する。それに眼をつけたレーゲングスは、その土を売り人間たちと物々交換をおこなっていた森の亜人たちに声をかけたのだ。
その土を自分たちの手で商品にしてみないかと。
「だから、綴りが違うって」
そんな彼の楽しげな声が後方からは聞こえてくる。室内へと体を向けると、床に座り込むレーゲングスが小さな黒板を手に持っていた。
Ä: Ö:Ü: ß:……。
黒板に白いチョークで彼はフラクトタール体のアルファベットを綴っていく。子供たちはレーゲングスの黒板を覗き込みながら、床に散らばる黒板にその文字を真似して書いてみせる。
独逸語はこの島の第一言語だ。この島でそれなりにいい仕事に就こうと思ったら独逸語を話せないといけない。植民地時代に島にできた企業的栽植農園やセラドン陶器の工房に勤めるために独逸語の習得は必須だ。これらの職場では当然のごとく独逸語が使われ、この島の人々は次第に独逸語を話すようになったという。
ただ書けるとなると話は別で、総督府が経営していた学校に行けたのはほんの一握りの子供たちだけ。貧しい家庭の子供たちは、文字を書くことすらできない者が大半だ。
特に亜人の子供たちこの傾向は顕著だ。森の中で暮らし人間とほとんど接点のない亜人の中には、独逸語すら分からない者たちもいる。
「独逸語なんて、習ってどうするの?」
疑問に思ったことをミーオはレーゲングスに尋ねていた。そんなミーオを子供たちが不思議そうに見あげてくる。レーゲングスは黒板に字を綴りながらミーオに言った。
「知識は、人を貧しさから救ってくれる最良の手段だからだ。ねぇミーオ。俺たちの祖国である独逸に清教徒が多いいのはどうしてだと思う?」
顔をあげ彼はミーオに尋ねてくる。幼い頃にオーアが教えてくれた知識を総動員して、ミーオは彼の質問に答えてみせた。
「清教徒革命だっけ? 古い教会のやり方に不満を感じた人たちが、教会の教えではなく聖書に書かれた教えを唯一の拠り所として新しい宗派を作った。ようするに、昔いた法皇さまのやり方が気に食わなかったから、自分たちなりに聖書を解釈して、聖職者のいない平等な信徒たちの共同体を作った」
「そう、独逸では腐敗した教会のやり方に不満を抱く諸侯たちがたくさんいた。そんな彼らが新しい教えを作った清教徒たちを保護して、独逸では清教徒派の人々が増えていったんだ。でも、清教徒が増えた理由はそれだけじゃない」
レーゲングスは立ちあがり、ミーオの側にやってくる。彼はミーオの側にしゃがみ込み、竹の欄干に両手を乗せた。翠色の眼を細め、彼は言葉を続ける。
「ここにいる人たちは、この会社に来るまでほとんど読み書きができない人ばかりだった。彼らがそれでいいって思ったからだ。亜人である自分たちはただ人間に従っていればいい。でも、だったら人の振りをした俺たち男の亜人は何なのかな、ミーオ……」
彼はそっとその手を蒼い空へと翳してみせた。蒼い産毛に覆われたミーオの手と違い、彼のそれは人の手と何ら変わらない。
自分の手を見つめながら、レーゲングスは寂しそうに眼を細めてみせた。
「俺たち亜人は、見た目が違うだけで人と何ら変わらない。だったら、人のように生きればいいと思わないか? 文字を習えばそれができる。そのお陰で清教徒たちは、教会の教えを介さなくても聖書を通じて神の言葉を理解することが出来るようになった。清教徒革命は、人々が教会から知識を取り戻した運動でもあったんだ」
「あなたは清教徒たちのように革命者になりたいの? 私たち亜人を人にして、人間たちの支配から解き放ちたいの?」
「そんなこと、俺は考えたことないよ」
ミーオを見つめ彼は苦笑してみせる。レーゲングスは赤い煉瓦造りの工房へと眼を向けていた。そこでは獣耳をゆらす人たちが、楽しげに話し合いながら陶器をトロッコに積んでいる。そんな人々に笑顔を送りながら、彼は続ける。
「俺はただ亜人が、ううん、俺が、俺らしくいられる場所が欲しかったんだ。人も亜人も家柄も血筋も関係ない。俺が、俺らしくいられる場所を創りたかった。そんな場所にフクスを連れていきたかった。だから、俺はこの場所を創った。金魚鉢がなくなっても、フクスを守れるように……」
レーゲングスの言葉が途切れる。暗い眼差しを彼は工房の側を走る水路へと向けている。先ほどまで工房の壁際を走っていた子供たちが、セラドン陶器の積まれた船に乗り、大人たちと楽しそうに談笑を交わしていた。
そんな子供たちの中に、小さな狐の耳を持った少年と少女がいた。赤い狐耳を持つ少女を、少し背の高い狐耳の少年が優しく抱きしめている。少女は嬉しそうに少年の胸に頭を預け、眼を瞑っていた。
恐らく彼らは家族なのだろう。時刻は昼にさしかかろうとしている。昼食のために家に戻る親たちを、子供たちは遊びながら待ってたのだ。
ここに亜人を差別する人間はいない。いたとしても、逆に亜人たちの冷たい眼差しに耐え切れず出ていくものがほとんどだという。
この小さな村で人と亜人は対等な関係を築いているのだ。そんな亜人の楽園ともいえる場所を、愛する少女のためにレーゲングスは創った。その少女は、彼ではなくミーオを選んだけれど。
「でも、ここもアル兄様と君の力がなければ創ることすら出来なかった。結局俺は蒼色キンギョに負けてばかりだ。ここも今は名義上君のものになってるしね」
ミーオへと振り返り、彼は苦笑を浮かべてみせる。そんな彼の頭をミーオは持っていた鼈甲の扇で叩いていた。
「いたっ」
「前にも言ったけど、あなたがここを創りたいって望んだからこの場所はあるの。そうじゃなかったらあの人も、この土地をあなたに買わせてなんかいない。それに、ここの人たちが笑えるのは私のお陰なんかじゃない。会社を実質的に経営してるのは、あなたでしょ? そのせいで、金魚鉢に来たってあなたは部屋から仕事のせいでほとんど出てこられないし、父さんをこき使って取引のためにしょっちゅう遠出してるじゃないのよ。私はここの人たちのために何にもしてないわ」
びしっとレーゲングスの首筋に鼈甲の扇を突きつけ、ミーオは彼を睨みつける。 レーゲングスは困惑に眼をゆらし、ミーオを見つめるばかりだ。そんなレーゲングスにミーオは言い募る。
「私はたった一人の女の子のためにこんな場所を創ることなんてできないし、他の人を笑顔にすることだってできない。お母さんすら、私は助けられなかった……。私の負けよ、レーゲングス・リッター。フクスを想うあなたの気持ちには敵わない」
ミーオは瑠璃の眼を細め、満面の笑みを彼に送る。レーゲングスは口を開いて、呆けた表情を浮かべた。彼は小さく口元を歪め、笑い声をあげてみせる。
「ちょ、何がおかしいのよっ!?」
「いや、蒼色キンギョには本当に敵わないなって思って」
潤んだ彼の眼がミーオに向けられる。眼を濡らす涙を指で拭い、レーゲングスは言葉を続ける。
「ありがとう、ミーオ。君の嫌がらせのためにここ創って本当によかった……」
彼の翠色の眼が優しい光を帯びる。眼に笑みを浮かべ、彼は笑い声の絶えない村を見つめる。そんな彼にミーオは言葉を返していた。
「何もないところから新しいものはできない。金魚鉢に囚われた蒼色キンギョは、この場所を創りだした古い歴史の残滓。ここに私は必要ない。そんな世界をあなたが創りだしたの」
「そんなことないよ、ミーオ」
村を見つめながら、レーゲングスがミーオの手の上に自分の手を重ねてみせる。彼はそっとミーオに振り返った。
「蒼色キンギョがいたからこの場所はある。君は、この世界に必要な人だ」
「本当、それ?」
「うん、俺は君にもここにいて欲しい」
レーゲングスの言葉にミーオは優しく微笑んでいた。彼の五指と自分のそれを絡み合わせ、ミーオは彼と手を繋ぐ。彼はその手を引き寄せて、ミーオの手の甲に口づけを落としてみせた。そっとミーオの手を放して、彼は微笑んでみせる。
「変だな。嫌いだった君にふれてみたくなった……」
「私も、あなたの事なんて大嫌い。でも、フクスを好きなあなたは大好き」
「捻くれてるな、君は」
「そうよ、私は捻くれてる。捻くれ者だから新しい世界に生きる人たちに、古い言葉を教えてあげる。でも、これは蒼猫の一族に伝わる神聖な歌だから本当は人前で歌っちゃいけないんだけどね」
桜色の唇に人差し指を充て、ミーオは嫣然と微笑んでみせる。ミーオの言葉にレーゲングスは怪訝そうに眉根を寄せてみせた。そんな彼の唇に人差し指を充て、ミーオは彼の耳元で囁いてみせる。
「これはね、私たちの女神が恋人に贈った愛の歌。この意味分かるでしょ?」
「ミーオ……」
恥ずかしそうにレーゲングスが顔を逸らす。
震える彼の声が何だか愛らしい。ミーオは口元に笑みを浮かべ、立ちあがってみせた。陽に透ける鼈甲の扇を開き、蒼色キンギョは低い欄干を跳び越えてみせる。 ミーオは下界に並ぶ竹の住居を見つめながら、歌を奏でていた。
それは蒼猫島に伝わる古い言葉。どの国の辞書にも載っていない女神の言葉で、ミーオは愛の歌を奏でていく。
猫のようにしなやかに体を捻り、蒼色キンギョは建物の上で踊ってみせる。駆ける彼女の猫耳が陽光に照らされ蒼く煌めき、金魚の鰭のようにひらひらと翻る。
高い声音をはっしながら、ミーオは飴色の扇を天に翳す。
低い声音をはっしながら、ミーオは扇を捌いてみせる。
演舞を踊る彼女の周囲には、船が集い人だかりができていた。人々はミーオの声に合わせ、拍子を取り、楽器を打ち鳴らし、お互いに手を取り合って踊ってみせる。
人々の舞踊の中心で、空のごとく蒼い猫の少女は体を回す。その動きに応じて、人々の歓声が上がる。雅な弦楽器の音楽が流れ、ミーオの歌に伴奏をつけていく。
屋根をかけるミーオが村を眺めると、自分を追いかける一艘の船を認めることができた。
「ミーオっ、どこまでいくんだよっ!?」
茜色の三つ編みを振り乱しながら、船上のレーゲングスがミーオに叫んでいる。ミーオは口に微笑をたたえ、その船めがけて跳び下りてみせる。
空中で、ミーオの体はしなやかに円を描く。音もなくレーゲングスの乗る船に下りてみせると、眼前の彼は唖然と眼を見開いていた。
ふわりと白い衣を靡かせて、ミーオは彼の前に膝をつく。そっと彼の両頬を手で包み込んで、ミーオは彼に口づけをした。
唇を離すと、呆ける彼の手を取ってミーオは立ちあがる。眼を見開くレーゲングスに笑みを送り、ミーオは彼の手を取って回る。
驚きにレーゲングスは小さく悲鳴をあげてみせる。だが、その声は次第に弾んだ笑い声へと変わっていた。
手を繋いで踊る蒼猫と青年を中心に、人々は思い思いに声を奏でて歌をうたった。そんな人々の音に合わせ、ミーオは歌を口ずさむ。
ミーオの歌う言の葉の意味を人々は解せない。それでも、彼らは言葉を超えた場所で繋がり、一つとなって音を奏で続けた。
ミーオにはどうしてもレーゲングスを連れていきたい場所があった。母が父と会ったその場所に、ミーオは愛する人を連れていきたいと思っていたのだ。
河に浸かった木々に覆われたその場所には、木の根が張り巡らされた窪地があった。水のたまった窪地の中に白いジャスミンの花が咲いている。水中で揺蕩うジャスミンの花を、明滅する蛍たちが照らしていた。
金魚鉢の谷に身を投げた母は生き延びて、この場所で力尽きているところを父に助けられたらしい。
「あのね、ここは私の生まれた場所でもあるの」
船に乗るミーオは立ちあがり、翠色の蛍たちを眼で追う。その視線の先に眼を見開くレーゲングスがいた。
「フクスの、眼の色だ」
彼は嬉しそうに呟いて、指先を夜空へと伸ばしてみせる。
誘われるように蛍は彼の指先に留まり、優しく光を放つ。仄かな光りに照らされ、レーゲングスの眼は翠色に煌めいていた。蛍が指先から離れていくと、彼は悲しそうに眼を細めミーオを顧みた。
「素敵な場所だね。あのお父さんが、そこまで気を使うとは思えないけど……」
「お父さんをここに連れてきたのはお母さん。二人は、ここで結ばれたの。そうして私が生まれた。ここはね,、私の故郷なんだ。だから、私はあなたをここに連れてきた」
ミーオは座るレーゲングスへと歩んでいく。しゃがみ込み、ミーオは彼を抱きしめていた。
「まだ、私は受け入れられない?」
耳元で優しく囁いてみせる。びくりとレーゲングスは体を震わせ、潤んだ眼をミーオに向けた。
「俺は君が分らない……。フクスを愛してるのに、どうして俺に、あんな……」
彼はミーオから視線を逸らしてしまう。
村で歌った愛の歌。その歌のことを彼は思っているのだろう。女神が恋人に捧げた秘密の歌を、ミーオは愛の証としてレーゲングスに贈った。
この島では遠い昔から、愛の歌を贈られることは、愛を告白されることと同義とされてきた。その愛の歌をミーオはレーゲングスに贈ったのだ。
「あなたを、愛してるから」
「だから――」
「フクスに愛されるあなたは嫌い。でも、フクスを愛するあなたは好き。私たちはフクスで繋がってる。産むのなら、フクスを愛しているあなたの子供がいいの。フクスと同じ血を継いだ、あなたの子がいいの。あなたは、フクスに繋がってる人だから……」
「それはフクスに対する裏切りだよ。ミーオ」
レーゲングスの言葉にミーオは眼を見開く。そしてミーオは笑っていた。
女同士でも子供を孕めるのなら、彼にこんなことは望んでいない。自分は彼を、フクスを愛する恋敵として見ていたはずだった。
でも子供が欲しいと思ったとき、ミーオはどうしようもなくレーゲングスの存在が愛おしくなったのだ。フクスの面影を宿し、フクスと血のつながった男性。フクスを誰よりも愛し、自分と同じ思いを抱える存在。
自分とフクスのあいだに子供はできない。ならばせめてフクスと繋がっている彼の子を孕みたかった。自分と同じフクスを愛する彼を番にしたいと思った。
「分かってる。でも、フクスを守るためには蒼猫の血が必要なの。私は、フクスのためにフクスを裏切るの」
瑠璃の眼を伏せ、ミーオはレーゲングスの頬を両手で包み込む。桜色の唇を彼のそれと重ね、ミーオは彼の体に凭れかかる。そんなミーオをレーゲングスは優しく抱きしめ返した。
「いいよ、一緒にフクスを裏切ろう。それが、あの子を守るためになるなら――」
ミーオの体を抱き寄せ、レーゲングスは猫耳に囁いてみせる。翠色に照らされる彼の眼を見て、ミーオは嫣然と微笑んでいた。
「私と一緒に堕ちて、レーゲングス……」
「俺たち、最悪な親だな……」
ミーオの言葉にレーゲングスは嗤う。悲しげに歪んだ彼の唇に、ミーオは口づけを落としていた。そっと唇を離すと、寂しげに微笑む彼と眼が合う。
彼はゆったりと手を上げミーオの蒼猫耳にふれてみせた。しゃらんと可憐な音がして、ミーオは彼の手が伸びる猫耳にふれる。猫耳の脇に飾られてそれを眼前に持ってきたミーオは、大きく眼を見開いていた。
ジャスミンの花を象ったセラドン陶器の髪飾りが、自分の手に収まっている。明滅する蛍の灯りを受けて、それは夜闇の中で白く輝く。
「君のお父さんが、君が花を貰いたがっていた人が、君に花を贈ったからいいと思ったんだけど……。約束だから……」
「約束、覚えててくれたの……?」
ジャスミンの髪飾りを握りしめ、ミーオは嬉しさに眼を細めてみせる。
髪飾りを青い髪に飾ると、レーゲングスが嬉しそうに眼を細めてくれた。ミーオは立ちあがり、髪飾りをなでながら船の上で回ってみせる。
嫌いだった彼からの贈物がこんなに嬉しいなんて嘘みたいだ。彼を好きになっていく自分が、ミーオの中にはいた。
「ミーオ……」
背後からレーゲングスの声が聞こえる。背中にあたたかな感触が広がって、ミーオは彼に抱きしめられていることに気がついた。
「俺たちは最悪な親になる。でも、俺たちの子は、君が生む子には、今の君みたいに笑っていて欲しいんだ」
彼の両腕がミーオの体を抱き寄せてくる。背後へと振り向くと、彼は縋るように潤んだ眼を向けてきた。
「そうだね。私は最悪な親になる。でも、生まれてくる子は幸せになるわ。私が育てるんですもの。私のお母さんがそうしてうれたみたいに、毎日抱きしめて、子守歌をうたって、一緒に寝てあげるの」
彼の両手にそっとふれ、ミーオは眼を瞑っていた。静かにしていると、自分の心音が体内から聞こえてくる。その心音を頼りに、ミーオは自分の両手を腹部に添えていた。
まだ宿してもいない命が愛おしくて、微笑んでしまう。そんなミーオの体を強く抱き寄せ、レーゲングスは囁いた。
「うん、こんなにあったかいんだ。ミーオは、いいお母さんになるよ」
眼を開け、ミーオは自身の腹部へと顔を向ける。両指を組んだレーゲングスの手が、そこにはあった。彼の手にふれミーオは微笑んでみせる。
「私たちは最悪な親だけど、きっとこの子は幸せにしてみせるわ。まだ生まれてないのに、この子のことを考えるだけで嬉しいの。だから、この子は幸せになるわ。私たちが幸せにするの……」
眼を閉じると、優しい心臓の音が蒼猫耳に響き渡る。レーゲングスの鼓動が、彼のぬくもりと一緒に伝わってくる。
その音を聴きながら、ミーオは眼を開き彼へと顔を向けていた。縋るように瑠璃の眼をゆらすと、レーゲングスが微笑みながら顔を近づけてくる。
二人は唇を重ね、静かに眼を閉じてみせた。
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