茶会~女狐遊女

 


 ちょっとした騒ぎがあって、ミーオはレーゲングスを自分の所有物にすることができた。そもそも男になんて興味がないのに、レーゲングスがなぜか身売りをして、ミーオが彼を買わなければいけなくなったのだ。

 彼を買ったあと、気に食わないこの男をミーオは好きにすることができたがやめた。嫌っているとはいえ彼はフクスの兄だ。フクスの手前それはできない。

 だから、ミーオは彼にちょっとした『嫌がらせ』をすることにした。

 彼に小拳銃を渡して、母を殺した男の一人を消せと命令したのだ。

 そんな訳で小拳銃を手にした彼と共にミーオは廓の地下室にいる。彼の眼の前には手足を縛られた男が床に転がっており、泣き叫びながら助けを乞うていた。

「ミーオ……」

 レーゲングスが縋るように翠色の眼をミーオに向けてくる

「あら、私のために何でもやってくれるんじゃなかったの? 嘘をつくなんて酷い男……」

 醒めた言葉を彼にかけると、レーゲングスは泣きそうな眼を歪め首を横に振る。はぁっとミーオはため息をついて、眼を瞑っていた。

 正直、レーゲングスにはがっかりした。フクスを取り戻すために威勢よく自分に喧嘩を売ってきたのに、彼は人すら殺す覚悟がないのだから。

 銃声が薄暗い地下に響き渡る。それは壁に反響して、ミーオの蒼い猫耳に響き渡った。

 驚きにミーオは眼を開く。男が死んでいた。頭部から血を流し、男は焦点の合わない眼で床を見つめるばかりだ。

「これで、君が復讐したい男はこの世からいなくなった?」

 冷たいレーゲングスの声にミーオは眼を見開く。小拳銃を手に持った彼は、色のない眼でミーオを見つめるばかりだ。彼の翠色の眼が、妖しい光を帯びている。

 冗談で言ったつもりが、まさか本当に殺すとは思わなかった。とはいってもあんな騒ぎを起こした男だ。心の底では何を考えているのか分かったものじゃない。

 フクスのためなら彼は何だってやる。自分が邪魔になったら、彼はミーオすらも殺すだろう。

 冷たい視線をこちらに向ける彼を見つめながら、ミーオは嗤っていた。

 それでこそレーゲングスだ。

 フクスを愛するあまり自分を嫌いだと言い放ち、愛するフクスを守るために自分にフクスを売った男。フクスに未練があるあまり、自分に喧嘩を売ってきた男。

 自分と同じくフクスを愛する彼がミーオは嫌いで、どこか愛おしさすら感じている。

「えぇ、これで全部……。私がやらなくても、奈落の人たちが彼らを皆殺しにしたでしょうけど」

 ミーオは冷たい声で彼に答える。すると彼は眼を見開き、驚いた様子で言った。

「それは恐いな」

「フクスのために平気で人を殺すあなたもどうかしてるわよ」

「君が殺せっていたんだろ?」

 ミーオの言葉にレーゲングスは苦笑を浮かべてみせる。そっと彼は小拳銃を降ろして、足元の死体を見つめた。

「どうして君は復讐を? この人たちは、君が手を下さなくても誰かが殺してくれた人間なんだろ?」

 レーゲングスの言葉を受け、ミーオの顔から笑みが消える。

 自分の忌まわしい出自のせいで、ミーオの母は殺された。ミーオたち棲んでいた森とその森を育む瑠璃湖は、太古からこの島の聖地だった。

 ミーオたち蒼猫の一族はその聖地を護る指導者だったのだ。

 それ故に、白人たちはミーオたちの森と蒼猫の一族に手を出すことはなかった。

 それを犯した者たちが現れた。

 ミーオは後に知る。それが統治国の敗北を察した村人たちの蛮行であったことを。彼らは亜人たちの尊厳を壊すために自分を犯し、母を殺した。

 亜人のたちの狂った信仰を俺たちが終わらせてやる。それが、彼らの言い分。

 ミーオたちが暮らしていた村に既に人間はいない。その人間たちがどうなったのかミーオは知らない。

 自分の眼の前で死んでいる男のように生きてはいないだろう。自分がそうしたいと望み、取り計らい、それを行動に移す人物たちがいたからだ。

「そうね。でも、それじゃ意味がない……」

 ミーオは動かなくなった死体へと近づいていく。血に塗れた男の頭を踏みつけ、ミーオは色のない声で告げる。

「お母さんの敵は私がとるって決めたの。そして、あの子も私が守る……」

 頭を蹴飛ばし、ミーオはレーゲングスを見つめる。不思議そうに首を傾げる彼をミーオは嗤ってみせた。

「あなたこと、こっち側に来ることはなかったんじゃいの?」

「そうしなきゃフクスを守れない。フクスは君のためにこちら側にいることを選んだんだから」

「シスコン。それとも近親相姦が赤狐は好きなのかしら?」

「何とでも言えばいいさ」

 嗤いながら彼は足元の死体を踏みつける。足で死体を転がし、彼はミーオに問いかけた。

「次は何をすればいい? 俺はもう、君のものなんだから」

 翠色の眼に優しげな笑みを浮かべ、彼はミーオに問う。ミーオはため息をついて、彼に答えた。

「じゃあ、足でも舐めてもらおうかしら」

 壁際に置かれた椅子に腰かけ、ミーオは細い脚を組んでみせる。片足を宙に浮かせ、誘うようにレーゲングスに向けてみせた。彼は何も言わずミーオの前に跪き、手にもった小拳銃を床に置いた。

 ミーオの靴をそっと脱がし、彼は露になった蒼い足に笑みを送る。小さなミーオの足を彼は両手で包み込み、鋭い爪が生えた足先に舌を這わせた。

「本当に、フクスのために何でもするのね」

「だって、俺は君のものだから。フクスを守ってくれる君のためならなんだってするさ」

 唾液に濡れた足から口を離し、彼は笑ってみせた。濡れた彼の唇が妖しい輝きを放つ。導かれるように、ミーオはその唇に指を伸ばしていた。

「ミーオ……」

 彼の翠色の眼が、困惑にゆれる。

 フクスを初めて抱いたときも彼女はこんな眼をしていた。眼の前にいるレーゲングスの眼はフクスのそれを連想させる。当たり前だ。彼らは兄妹なのだから。

 そんな妹を深く愛するあまり、彼は自分自身すら売った。最愛の妹を奪った女の足すら舐め、人すら殺めてみせた。

「あなた、最低の人でなしね。私への嫌がらせのために、そこまでする?」

「だって、フクスの中には君しかいないだろ? だったら、こうするしかないじゃないか」

「本当、フクスが私のもとに来て安心したわ。そうじゃなかったら……」

「そうじゃなかったら、俺はフクスに何をしてたんだ?」

 すっと彼の翠色の眼が妖しい光を帯びる。ミーオは唇を歪めて、レーゲングスの唇に自分のそれを重ねていた。二度三度啄むように口づけをして、舌を口腔へと割り込ませる。

 レーゲングスは驚きに眼を見開き、ミーオの体を引き離そうとする。ミーオは椅子から立ちあがり、彼の体を押し倒していた。

 頭蓋に嫌らしい水音が響く。彼の舌を啜って唇を離すと、潤んだ眼をこちらに向ける彼を眼があった。

「ミーオ……何を……?」

「あなたが、フクスにしようとしてたこと……」

「ミ……」

 怯える彼の唇をまた塞ぐ。驚愕に彩られる彼の眼を見て、ミーオは瑠璃の眼に笑みを浮かべていた。

 フクスを守るためという大義名分を掲げて、彼には随分と嫌がらせを受けている。それも、フクスを想うミーオへの嫉妬心からだ。このぐらいのお返しはしてやってもいい。

 ミーオはこの男のことが大嫌いだ。でも、信頼はしている。

 彼ほどフクスを想うものは、他にはいないだろうから。

「私たちは共犯者……。フクスのためならなんでもする。これはその証。あなたが私と同じフクスの奴隷である証」

 唇を離し、ミーオは彼の耳元で囁いてみせる。レーゲングスはびくりと体を震わせ、翠色の眼をミーオに向けてくる。

「ようこそレーゲングス・リッター。あなたは今日から囚われの身の上。この金魚鉢で蒼猫に飼われる二匹目の赤狐になるの。あなたはもう、わたしのもの――」

 彼の耳元で嘲りの言葉を吐く。彼は悔しそうに眼を歪めた。そんな彼をミーオは涼やかな瑠璃の眼で見返してみせる。

 男に興味はないが、フクスと似ている彼を飼うのは存外に面白いかもしれない。 髪色はフクスのそれよりも明るい茜色だが、翠色の眼はフクスと同じ。容姿もフクスに似ていて悪くない。何より側に置いておけばフクスが喜ぶ。

 何より、彼にしてもらいたいことがあった。

「あなたの子供だったら、産んでもいいかもしれないわね」

「ミーオ、何を言って――」

「あなただったら分かるでしょ? 私には子供が必要なの」

 体を起こし、ミーオは青い髪を掻き揚げてみせる。蠱惑的な眼差しをレーゲングスに送ると、彼は怯えたように体を震わせた。

 愛するフクスの兄である彼なら、子供を産む相手にこれ以上最適な相手はいない。そんなミーオを蔑むようにレーゲングスは嗤ってみせた。

「そんなに蒼猫の血が大切か?」

「フクスを守るためよ。この血が流れてるから私は蒼色キンギョでいられるの」

 すっと眼を細め、ミーオは言葉を紡ぐ。

 母を殺した蒼猫の血が、自分の愛する者を守っている。そのおぞましい現実を嫌悪しながらも、ミーオはその血を受け入れることにした。

 フクスを守るためなら何だってしてみせる。

 利用するものは何でもする。そうやって自分は生きてきたのだから。

「同じだな。俺たち……」

 翠色の眼を伏せ、レーゲングスが言葉を紡ぐ。そっと彼は片腕を伸ばし、ミーオの柔らかな頬に手を添えた。

 フクスと同じ色彩の眼が悲しげに笑みを描く。その眼に引き寄せられるように、ミーオは彼の唇に口づけを落としていた。

 そう、彼と自分は同じだ。

 小さな赤狐の少女に焦がれ、叶わぬと分かっていても彼女を想い続ける。

 彼女と結ばれることはないというのに。

 ミーオは思う。

 彼の子供を産みたいと。フクスを愛する彼の子を。

 フクスと同じ血を引く彼を通じて、フクスの子供を産みたいと。

 そうして物語は、数か月後に舞台を移すことになる。

 







 白いタイル地の床には、赤いジャスミンの花が映える。そのジャスミンの花を踏みしめミーオが踊っていた。赤いブーゲンビリアの花を宙に躍らせながら、ミーオは瑠璃の眼を細めてみせる。

 彼女の周囲にはいつもの猫耳少女たちが集い、落ち着いた拍子で楽器を叩く。

 茶虎の少女がコーンウォレック――円形に配置された高音の銅鑼――を叩けば、錆虎の少女がコーンウォンヤイ――円形に配された低温の銅鑼――を叩く。その音に合わせ、三毛の少女がラナートエークーー高音の木管楽器を叩き、雉虎の少女がラナートトゥムー――低温の木管楽器――を奏でていく。

 そんな彼女たちの演奏をフクスはじっと見つめていた。酌をしている客が自分のお尻をそれとなくさわってくるが、無視を決め込む。

「いやぁ、フクスちゃんのお尻はいつさわっても心地よいのぉ」

 禿頭をぺちりと叩いて、籐の椅子に座る老人は好々爺然とした笑みを浮かべてみせる。フクスは彼の杯にラオ・カーロ――度数の高い焼酎――を注ぎ、彼に苦笑してみせた。

 この老人が総督府の元総督だと誰が信じるだろうか。

 ラタバイ・ベスティエ。それが彼の名前だ。何を隠そう、彼はこの廓の主であるオーアの祖父なのだという。

 この数か月間、彼は足繁くこの廓に通っている。彼はこの廓の後継人ともいえる存在で、金魚鉢の将来について主であるオーアたちと話し合いをおこなっているのだ。

 茶会と呼ばれるその話し合いは、蒼色キンギョであるミーオも交えておこなわれる。ミーオは話の内容を詳しく教えてくれないが、彼らが何ついて話し合っているのか想像はつく。この金魚鉢の自治権が、臨時政府に委任されるかもしれないという話をフクスは兄から聞いて知っている。

 金魚鉢から自治権を取りあげようとしている人間の中に、ベスティエ家の次期家長であるアルプトラウムがいることも。彼が、この廓でラタバイたちがなにを話し合っているのか嗅ぎまわっていることも。

 その茶会に、数か月前騒ぎを起こした兄のレーゲングスが混じっているかもしれないと考えると、フクスの気持ちは複雑になった。自分のためとはいえ、兄があんなことをしでかすなんてフクスは思ってもみなかったからだ。

 兄がミーオを振り回す日が来るなんて、誰が想像できただろうか。

「あぁ、また爺ってばフクスばっかり見てるっ!」

 不満そうなミーオの声が飛んできて、フクスは我に返る。白い衣にブーゲンビリアの花飾りつけたミーオは、不満げにフクスたちを見つめていた。

 ミーオの側にいる猫耳少女たちも、興味深げにじっとこちらを見つめている。

「やっぱり爺は猫より狐の方がいいわけね」

「いやぁ、そうでもないんじゃが……」

 困った様子でぺちりとラタバイが禿頭を叩く。そんな彼の仕草を合図に、部屋の扉が開かれた。瓔珞で飾られた観音開きの扉は、涼やかな音をたてながら部屋にとある人物を招き入れる。

 それは、薄い布地で織られたタイドレスに身を包むオーアだった。黒い衣は彼女の体を優しく覆い、金の帯で緩やかに止められている。

「お待たせいたしましたラタバイ様。お話合いの準備ができたので、こちらまでお越しください」

 そっと彼女は首を垂れ、ラタバイに優美な挨拶を向けてみせた。そんな彼女を見て、ラタバイは困ったように笑ってみせる。

「相変わらず綺麗だの。この廓の主は」

 彼の言葉がどこか寂しげに聞こえる。フクスはそのことが気にかかって、彼とオーアを見比べていた。顔をあげたオーアは凛とした笑みを顔に浮かべ、ラタバイに言葉を返す。

「あなたの血を受け継ぐものとして当たり前のことです」

「そうか。さすがは、金狐の孫じゃのう」

 オーアはラタバイに手を差し出す。彼はひじ掛けを支えに立ちあがり、覚束ない足取りでその手を握った。オーアはラタバイの背中に手を回し、彼の体を支えながら部屋を後にする。

「やっぱり、家族なんだよね……」

 そんな二人を見つめながら、フクスは口を開いていた。好々爺然とした人間であるラタバイと、狐耳を持つオーアの血が繋がっているとはどうしても思えないのだ。

「そんなに二人の関係が気になる、フクス……」

 そんなフクスの狐耳にミーオの声が響き渡る。彼女へと顔を向けると、ミーオは厳しい眼差しを部屋を出ていく二人に向けていた。

 扉が閉まり、二人が部屋からいなくなったのを見計らって、彼女はフクスへと顔を向けた。色のない瑠璃の眼を歪ませミーオは嘲笑を浮かべる。

「こっそり二人を覗いてみる? 面白いものがみられるわよ」





「お前は本当に、愛しい金狐そのものだ、オーア」

 ベルベット張りの椅子に腰かけるラタバイは、うっとりとオーアの顔を眺めていた。彼は黄土色のオーアの狐耳なで、金糸の彼女の髪を手に救う。ラタバイはその髪に唇を寄せる。オーアは老人にその身を預け、嫣然と微笑むばかりだ。

「それなのに、アルプトラウムに夢中で私に会いに来なかったのはどうして? じぃじ……」

「すまんのぉ。アルの奴はすっかり臨時政府に骨抜きにされておる。オーア、あいつを取り戻す手伝いをしてはくれんか?」

「いいよ、じいじのためだもん。私は、じいじのためなら何でもする……」

 うっとりとオーアは言葉を紡いで、皺の寄った老人の唇に長い五指を這わせる。彼女は愛しげにその唇をなぞり、己のそれを重ねてみた。

「ミーオこれって……」

「どう、フクス。これがオーアの本当の姿……。あの人は金魚鉢の自治を任せられた守り人の一人でありながら、自分の意思なんて持ち合わせてない。祖父であるラタバイにそう育てられたお人形なのよ」

 扉の隙間からオーアたちの様子を窺っていたフクスは、隣にいるミーオを唖然と見つめる。二人に厳しい眼差しを向けながら、ミーオは言葉を紡いだ。

「それって……」

「だから、オーアと爺には気をつけて。フクスは、リッター家のお嬢様でもある。利用価値は十分あるわ 」

 ミーオは真摯な眼を自分へと向けてくる。その眼に応えるようにフクスは頷いていた。

 ミーオから視線を放し、フクスは部屋の中へと視線を戻す。ラタバイに抱きつくオーアは赤い眼を細め、嬉しそうに嬌声をあげている。そんなオーアにラタバイは優しい眼差しを向けていた。

「私と兄さんみたい……」

 睦み合っている二人は、まるでかつての兄と自分のようだ。静かなあの寺院で、自分は何度兄と唇を重ねただろうか。

「あれ、ミーオとフクスっ?」

 そんなフクスの狐耳に聞きなれた声が響き渡る。その声を聞いて、フクスは弾かれたように扉から離れていた。

「兄さん……」

 数か月前、別れを告げたはずの兄がこちらを見つめている。茜色の髪を結った彼は、翠色の眼を見開きこちらを見つめるばかりだ。

 フクスは扉の前から動けなくなる。兄は気まずそうに眼をゆらしながらも、こちらに近づいてきた。

「ちょっと」

 そんなフクスを庇うようにミーオが自分の前に出てくる。ミーオはフクスの手をしっかりと握り、兄を睨みつけた。

「フクスとは顔を合わせないようにしてって、お願いしたはずよね? 部屋に籠っていろとも私は言ったはずだけど」

「オーアさんに呼ばれたんだけど、使いのフナの子が来なくてね。それで自分から来たんだけど……」

「とにかくあなたは私の所有物なのよっ! 私の許可なく、勝手に廓を歩き回らないでっ!」

 ミーオが兄を怒鳴りつける。兄は辛そうに眼を伏せ、ミーオから視線を逸らした。

「悪かったよ、ミーオ」

「たっく、私を買おうなんて無謀なことするから……」

 そんな兄からミーオは顔を逸らしてしまう。ほんのりと彼女の頬が赤いのは気のせいだろうか。

 兄が、蒼色キンギョを買おうとした。その話をミーオから聞いたときの驚き様を、どう言い表せばいいのかフクスは分からない。

 自分がミーオの側を離れる気がないと分かった途端、兄はそのミーオを金魚鉢から解き放とうとしたのだ。レーゲングスは寄付をしていた教会の貧救院に父をぶち込み、フクスが生まれ育った生家もろともリッター家の財産を売り払った。

 それでも足りないと分かると自分で立ち上げたセラドン陶器の会社を売却し、最後には自分自身の身まで売り払ったのだ。

「それにしても、あなたを買い取りたいって客が私の所にひっきりなしに来るんだけど、何とかならないかしら?」

 はぁっとため息をついてミーオは兄を呆れた様子で見つめる。そんなミーオに兄は苦笑を向けるばかりだ。

 自分が亜人であるということを明かした上で、兄は自分の身を売った。亜人の男は女性と比べて数が少ない。その上、没落したとはいえ名家の当主が亜人であり、性交を経験していない見目麗しい青年ときているのだ。

 兄を買いたいという人間は山ほどいた。

 瑠璃湖の下流にある露店街には、人を売る売買場がある。兄の競りがあった日、そこは人でごった返していたらしい。

 殆どが売りに出された兄を好奇心から見に来た野次馬たちだった。だが、競りが始まるや否や、代理人と名乗る人々が次々に兄に高値をつけ始め、彼の値段は鰻登りに上がっていったという。

 そんな兄を競り落としたのは、他でもない蒼色キンギョだった。

「大丈夫、君が俺を守ってくれるだろ?」

 こくりと小首を動かし、兄はミーオに微笑みかける。ミーオは盛大にため息をつき、兄に話しかけた。

「本当、狐は何考えてるか分かったもんじゃない……」

「俺は、君が俺を助けてくれるって信じてたよ、ミーオ」

 笑みを深めた兄を見てフクスは驚くことしかできない。兄は、こんなにもミーオを信頼していただろうか。ミーオはそんな兄を見つめながら、不機嫌そうに眉根を寄せた。

「で、お前たちはそこで何をしているんだ?」

 低い女の声が場の空気を制する。フクスは驚いて部屋の扉へと顔を向けていた。扉を開け放ったオーアが額のすみに青筋をつくり、こちらを睨みつけている。

「いや……俺は、呼ばれたから来ただけで……」

「童貞兄貴はどうでもいいっ! そこの二匹はなんでいるっ?」

 びしっとオーアの指がフクスとミーオに突きつけられる。ひっとミーオは悲鳴をあげて、兄の背後へと隠れてしまった。

「オーア恐いっ! 何とかしてよ、レーゲングスっ!」

「え、ちょ、ミーオ……?」

「あなたは私の夫になる人でしょっ!? 妻になる女が困ってるのよっ。助けてよっ」

 ミーオの言葉にフクスは眼を見開いていた。


 ――蒼色キンギョは愛する雄狐を金で買った。彼が他の誰にも盗らえないように。

 

 世間では、そうミーオとレーゲングスの関係を持て囃す。それは世間を欺くための嘘だと、ミーオは笑いながらフクスに話してくれた。

 名家のリッター家の当主が亜人である事実は、世間に大きな衝撃を与えた。

 彼が金魚鉢に君臨する蒼色キンギョと恋仲となれば、臨時政府に与える影響も多大なものがあるだろう。だから、フクスを守るために彼を夫にするのだとミーオはフクスに告げた。レーゲングスを夫にすれば、この金魚鉢を守る駒として最適な役割を果たしてくれるからと。

「フクス?」

 フクスの思惟はレーゲングスの言葉によって遮られる。自分と同じ翠色の眼が縋るようにこちらを見つめていた。

 その眼を見ていたくなくて、フクスは兄から顔を逸らす。

 自分は兄を捨てた。だが兄はまだ自分に未練がある。だからこそ、兄はミーオに買われ、金魚鉢を守るために利用されることを選んだのだ。

「レーゲングス……」

 ミーオが兄を呼ぶ声が聞こえる。そちらへと顔を向けると、ミーオが兄の手を労わるように握りしめていた。彼女は兄を見あげ、優しい笑みを浮かべてみせる。

「オーア、じいとの逢瀬を覗いちゃったのは悪かったけど、そのおじいさまを待たせるのはどうかと思うわよ」

「あぁ、それもそうだな……。私も、あれはなかったことにするよ」

「うん、私も誰にも言わないわ」

 レーゲングスの片腕を抱き寄せ、ミーオはオーアに微笑んでみせる。オーアはそんなミーオを睨みつけてみせた。ミーオは片眼を瞑り、人差し指を桜色の唇の前に差し出してみせる。

「大丈夫、ちゃんと黙ってるから。ね、フクス」

「あ、うん」

 言葉を振られ、フクスは慌てて首を縦に振る。フクスはいい子ねとミーオは微笑み、レーゲングスの腕に自分の頬を寄せてみせる。くるりと頭をレーゲングスに向け、彼女は涼やかな声で言った。

「行きましょう、未来の旦那様。私たちの将来のために、話し合いをしなくちゃ」

 彼女の言葉にレーゲングスは苦笑し、小さく頷いてみせた。

 これから彼らはお茶会を開くのだ。

 彼らはそこで話し合う。金魚鉢の未来について何ができるのか。どうすれば金魚鉢を救うことができるのか。

 その話に参加できるのは、金魚鉢を救う力のあるものだけ。

 立ちどまり、フクスは扉を潜るミーオとレーゲングスを見送る。

 苦笑する兄をミーオが怒鳴っている。そんな彼女の眼が嬉しそうに細められるのを、フクスは見逃さなかった。

 二人の後に続くオーアが扉の前で立ち止まる。彼女は眼を笑みの形に細め、フクスを呼んだ。

「フクス」

「はい」

 凛としたオーアの声にフクスは慌てて言葉を返す。オーアはそんなフクスに苦笑して会話を続けた。

「お茶会が終わった後でいい、部屋に来てくれないか? 話したいことがあるんだ」

「オーアさん?」

「それに、お前は十分私たちの役にたっているよ」

 オーアは優しく声でそう言って、部屋へと足を踏み入れる。彼女はフクスに微笑み、扉を静かに閉めた。

「それってどういう意味?」

 ラタバイと愛し合っていた彼女の姿が脳裏を掠める。兄と自分を彷彿とさせるその姿にフクスは嫌な想像をしてしまう。

 仲睦まじい兄とミーオの姿が、そんな自分たちに重なってしまうのだ。

 ミーオは兄を利用するために側に置いているのだといった。でも、どうして兄と一緒にいるときのミーオはあんなに楽しげなのだろうか。

「私は、ミーオに愛されているのかしら?」

 疑念が呟きになる。

 その言葉に応えてくれる者はいない。





「おー、ようやく来たの。レーゲングス」

 部屋の扉が閉められると、自分を歓迎する声が聞こえてくる。その声にレーゲングスは苛立ちを感じていた。そんな気持ちを押し殺しながら、部屋の奥に鎮座する老人に笑顔を送る。

「お茶会にお招きくださり光栄です。ラタバイお爺さま」

 ベルベット張りの椅子に腰をかけたラタバイが、ゆったりと相好を崩しレーゲングスに微笑みかける。金糸の髪をゆらすオーアが、そんな彼のもとへと赴く。

 オーアはラタバイの腰かける椅子の後方に立ち、彼の両肩に優美な仕草で手を置いた。そんなオーアにラタバイは振り返り、優しく笑みを向けてみせる。

 オーアは嬉しそうに黄土色の狐耳を伏せ、赤い眼を細めてみせた。そんなオーアを見つめながら、彼は言葉を紡ぐ。

「オーアは、この廓にいた美しい金狐の血を引いておる。儂の愛しい金色の狐の血を。レーゲングス、お前とフクスがそうであるようにな」

 うっとりと眼を伏せ、ラタバイはオーアに手を伸ばしてみせた。彼はオーアの頬を優しくなで、言葉を続ける。

「お前たちは、蒼猫を守るために生み出された赤狐の末裔だ。オーアの祖母である金狐は、この金魚鉢の地下に眠る遺跡を他の守り人たちと共に守っていたのだよ。彼らは、代々この遊郭都市の自治も担ってきた。彼らの信仰を重んじ、白人たちはこの金魚鉢を亜人たちの自由の檻として残したのだ。そして、その遺跡は女神に捧げられたものだった。蒼猫は、その女神の血を引く神聖な存在なのだよ」

 ラタバイの眼がレーゲングスの隣に向けられる。レーゲングスは自分の隣にいるミーオを見つめていた。

 白いタイドレスに身を包む彼女は、瑠璃の眼を鋭く細めラタバイを見つめている。彼女の蒼い猫耳は怒りに逆立っているようだった。

 そんなミーオに微笑みを返しながら、ラタバイは言葉を続ける。

「そして美しい蒼猫はこの島になくてはならないものだ。今も、昔も、これからも。その腹に女神は子を宿し、その血を絶やしてはいけない。決して、絶やしていいものではないんだよ、ミーオ」

「だから、レーゲングスと子作りをしろっていうの? そのために私に彼を買わせた」

 ミーオの不機嫌そうな眼が自分に向けられる。レーゲングスは今更ながらに自分を嵌めたこの老人の狡猾さを呪った。

 フクスを取り戻したいレーゲングスに知恵を貸したのは、眼の前にいるラタバイだ。彼はレーゲングスにこう進言した。

 ――だったら君の大切なものを奪った蒼色キンギョを君のものにすればいいと。

 そのときは、その言葉がこんな意味を持っているとは思いもしなかったが。

 自分はなぜかこの老人に気に入られ、ミーオの花婿として担ぎ上げられようとしているらしい。蒼猫の血を絶やさないために、彼はミーオを抱けと自分に言っているのだ。

「お前も分っておるだろうレーゲングス? お前の母はこの金魚鉢の守り人の一人だった。この金魚鉢を守るために赤狐であるお前の母は、リッター家の家長であったお前の父の妾となったのだ。お前の母は父とは従妹同士の関係にある。お前たちの生まれ育ったあの寺院で、彼女は生を受けた。そうして時は巡り、彼女はこの地にお前とフクスを導いたのだ」

「母は散財の末に、俺とフクスにその後始末を押しつけただけですよ……」

 彼の言葉にレーゲングスは嗤っていた。ラタバイは言う。父を堕落させた母は、自分たちをここに誘うためにそうしたのだと。

 レーゲングスが思い出すのは、寺院で父に抱かれる母の姿だけだ。人として育てられていたレーゲングスを、母は愛そうとはしなかった。

 フクスだけだ。あの冷たい家でフクスだけが自分に微笑みかけてくれた。

 フクスはレーゲングスにとって最愛の妹でもあり、恋人であった。

「この人の気持ちは無視するのね」

 ミーオの冷たい言葉が耳朶に突き刺さる。驚いてレーゲングスは横にいる彼女へと顔を向けていた。ミーオはレーゲングスの顔を見つめ、ラタバイへと視線を戻す。

「爺はまともかと思ってたけど、男ってみんな一緒なのね。下半身でしかものを考えない。女が子宮で考え事をするとか本気でおもってるんだから」

 鼈甲の扇子を優美に広げ、ミーオはそれを口元に充ててみせた。

「悪いけど、私にも心ってものがあるの。私の夫になる人が、蒼猫の私に相応しい人物か見極める時間ぐらいくれたっていいでしょ?」

 凛としたミーオの言葉が場を制する。彼女は鼈甲の扇を畳むと優美な足どりでラタバイへと歩んでいく。

「それは、私に命令しているのかい? ミーオ」

 白いスアーの裾を捌き、ミーオは瑠璃の眼に険のある光を宿す。そんなミーオにラタバイはにこやかなに問いかけた。

「そうよ。私はこの島の女神なんでしょ? だったら、この島の男を私は従えることができる。夫になるレーゲングスも、この島の元総督であったあなたも。あなたが蒼猫を信奉するなら、その蒼猫たる私に首を垂れるべきだわ」

 眼を鋭く細め、蒼色キンギョは元総督たる男に告げる。この島は自分のものであると。そして、その島の主たる自分に口出しすることは許さないと。

 ラタバイの顔から笑みが消える。彼は口元を歪め、満面の笑みを浮かべてみせた。

「さすがは、あのファーゲアの娘なことだけはある。そう、君はこの島を導く女神だ。やっとその自覚が出て来たようだね。赤狐を君に与えた甲斐があった」

 老人はひじ掛けを支えに立ちあがる。そんな彼をオーアが支えた。彼はそっと両膝を床につき、ミーオに首を垂れる。

「我らが麗しき女神。すべてはあなたの御心のままに……」

 唖然とレーゲングスは自分の眼前に広がる光景を見つめることしかできない。

 この島の最高権力者であったラタバイが、亜人の少女に首を垂れている。そんなラタバイを見おろすミーオの凛とした横顔の、なんと美しいことだろう。

 強い煌めきを宿す彼女の眼に、レーゲングスは魅入られていた。

「さぁ、あなたはどうしたい、レーゲングス?」

 彼女は涼しい微笑みをレーゲングスに向けてくる。鈴の音のようなその声に、レーゲングスは何も言い返せなかった。

 

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る