天使さま

天使さま

　錦戸（にしきど）先輩から電話があったのはその日の午後のことで、わたしは大学のカフェテリアで一人遅い昼食を取っているところだった。

　電話先の先輩の声は震えていて、聞くところによると、白河（しらかわ）先輩を殺してしまったらしく、どうすればいいか分からないとのこと。

　どうすればと言ったって、殺（あや）めてしまったものはしょうがない。自首しなさいと勧めてみたが、やっとこさイベント関係の内定も取れたことだし、それだけはもう本当に勘弁してもらいたいらしく、結局のところ死体を埋めたいから手を貸してほしいという勤労のお誘いなのだった。

　正直なところ大変面倒臭かったのだけれど、三年も面倒を見てもらった先輩からの本当に珍しい頼みごとだったので、せめてスパゲティだけ、ちゃんと食べさしてもらって、大体三時過ぎにはそちらに向かいますという主旨のことを告げた。

　電話を切ってあたりを見回すと、斜（なな）め向かいに座っている名前は知らないが少しだけ顔見知り、そんな同学科の男の子がニヤニヤしながら「ONE PIECE」の最新刊を読んでいて、結局のところ世の中平和なもんだった。

　錦戸先輩の家は大学から二駅下ったところにあり、実家から二時間かけて学校へ通うわたしとしては大層うらやましい環境であるのだけれど、なんという宝の持ち腐れ、先輩はあまり大学に来なかった。

　卒業間近の四年生だから当たり前なのだけど、思えば二年生のときも三年生のときも大学ではあまり見かけなかったような……。

　まあ、どうでもいいけど。

　インターフォンを押しても先輩が出て来ないので、靴を脱いで部屋にあがる。と、リビングの中央に先輩が正座したまま震えていたので、その驚いたことと言ったら、正味な話、大して驚いたわけでもないが、この微妙なリアクションを詳細に記すとなると面倒くさいので、ただ筆舌（ひつぜつ）に尽（つ）くしがたいとだけ述べておきたい。

　とにかく錦戸先輩は、白河先輩を前にして涙しているようだったのである。

　そろりそろり。錦戸先輩の背後に近付くと、先輩の前に横たわる白河先輩の姿も見えて、確かに白河先輩は死んでいるようだったが、事前に錦戸先輩から連絡をもらわなければわたしは白河先輩が眠っているだけだと勘違いしていただろう。それくらい、白河先輩の死に顔は安らかだった。

　そんな白河先輩はわたしとは学科が違うけれど、錦戸先輩を通じて少しだけ面識があるなんとも曖昧な間柄で、それでも構内で目が合うと、お互いほんの少しだけ首を傾けてお辞儀をして、それだけで、言葉を交わさなくとも白河先輩は良い人だ。

　くりりとした大きな目とトリートメントが隅々にまで行きわたっているサラサラのロングヘアーが特徴的な、女のわたしでもうっとりするほどの美しいかんばせを持っていて、割かし器量良しの部類に入る錦戸先輩とよく似合っていた。

　「埋めよう」

　錦戸先輩が言葉を発するまで、わたしたちは一人の美しい女の死体を前に、大学ではありえないほどの長い時間沈黙を守った。

　埋めるってどこにですか。庭先だよ。ああ庭先ですかお隣さんとかに見つからないですかねえ怒られないですかねえ。大家にさえ見つからなければ大丈夫だよだいたい俺お隣さん見たことないし。スコップとかはあるんですか。さっき駅前のドンキで買ってきたよ二本で千六百円だったよ。わたし今お金三百円くらいしか持ってないんで、申し訳ないですけど……。払わなくていいよ大体俺が頼んだわけだしむしろ後でラーメンおごってやるよ。わ、ありがとうございますー。

　無機質な言葉を交わしながら、わたしたちはドンキの一本八百円のスコップで庭先を掘っていった。

　昨晩の雨で土壌（どじょう）が柔らかくなっていたせいか二時間もかからずに大分深い穴が掘れて、わたしも錦戸先輩も一月だというのに汗だくでどこもかしこも温かくなっていたのだが、わたしは冷え症であるので指先だけがどうにもダメで、白河先輩の両足を持ち上げた時に先輩の身体の方が温かくてなんだかちょっぴり悔しくなったがもちろん口には出せないところ。

　ちなみに錦戸先輩は鼻をすすりながら白河先輩の両脇から腕を通し、ははは相変わらず羽のように軽いなあ、なんてロマンチックな比喩（ひゆ）を用いながら、持ち上げた美女をゆっくりと穴の底へ置いた、その時だ。

　白河先輩の艶やかな長い髪の毛がふぅわりと広がって、わたしはこの先輩のことが実は大好きであったと同時に、彼女がこの世にいないことがたまらなく羨（うらや）ましくなってしまったのだった。

　そう、白河先輩の華奢な身体、きめ細かい肌、美しいかんばせは、今日この瞬間から一日たりとも先に進むことがなく、これから社会の歯車を担（にな）う必要もなく、悲しみも、恋わずらいも、更年期障害も、女の子がこれから先に感じ得る全ての苦痛はもう関係のないことなのだった。

　そして何より一番心に染みたことと言えば、はっきりいうと、目の前で男泣きをしているこの人のことであって、おそらく今日の出来事は錦戸先輩にとって忘れられない一日となっただろうし、いつか別の誰かと錦戸先輩が恋に落ちても、自分が殺めた恋人の顔は錦戸先輩にとって死ぬまで忘れられないものとなっているだろうし、つまりわたしは白河先輩が羨ましくって羨ましくって、せんかたない。

　白河先輩。

　アナタは、とても罪作りな人。

　死んだ美女に土を被せ、穴の天頂をドンキのスコップでぽんぽんとならしてわたしたちの作業が終わるころ、どこからともなく「夕焼けこやけ」の切ないメロディーが夕方五時を知らせ、それを合図にわたしのお腹がぐぅぅとねじれた丁度良いタイミングで錦戸先輩が「ラーメン、食う？」と尋ねてくれたので、やっぱりわたしは錦戸先輩が好きなのだった。ちょうどわたしが白河先輩のことを羨ましいと思うくらい好きなのだけれど、ただ一つ、これだけは言えること。

　わたしは生きている。