第1章-24

 寺が壊れた翌日、福禄屋には来客があった。

 以前、火白たちも何度か名前を耳にしたことのあった駒石の親分という岡っ引きが尋ねてきたのである。

 何でも、不忍池の方で捕まえられたという怪しげな者がこの店の名前をしきりと口にしているのだという。

 不忍池の辺りは、駒石親分の縄張りではないのだが、捕らえた岡っ引きが知り合いだとかいうので、彼が福禄屋にまで事情を聴きに来たのであった。


「さあ、うちは知りませんねぇ。ここしばらく、芯太の具合が悪かったもんで、そっちにかかりっきりだったんですよ。今はもう元気になってくれたから、一安心なんですけどね」


 応対に出た店主の幸七郎は、穏やかな物腰でそう言った。

 彼と同じ歳だという親分は、だろうなぁと言いつつ三白眼を瞬かせている。見るに、彼は福禄屋を疑っているふうには見えなかった。


「凄いのう。幸七郎のやつ、何食わぬ顔をしておる」

「そうだよ。お父さんはすごいんだから」

「確かにな、芯坊の父上殿はすげぇわ」


 店表でのやり取りを、こっそり覗いているのは、火白に芯太、それに雪トの三人だった。雑巾や箒を片手に、物陰に隠れるようにして、彼らは幸七郎と親分のやり取りを見ていた。


「何やってんだよ、あんたたち。暇なら働けっての」


 その目の前に、箒が突き出される。持っているのは千次で、呆れ顔をしていた。


「いいではないか、少しくらい。気になったのだから」

「あんたのやらかした、寺壊し事件のことか?」

「それを言ってくれるなよ。おれも反省しておるのだから」


 火白が顔をしかめると、千次は箒を下ろしてにやっと笑った。


「まあ、そこまで気にしなくても幸七郎さんなら上手くやるさ。晴秋から話を聞いたときも、落ちついてただろ」

「そうだったなぁ」


 昨日、晴秋と火白からすべての話を聞いた幸七郎は、一言わかったと言って、晴秋に気に病んだりしないでほしいと言葉をかけたのだ。

 それを聞いて、晴秋が少しばかり泣きそうになった。

 永明が福禄屋に目を付けたのは、女で妖がろくに見えもしないのに陰陽師としてたつきを立てている彼女に嫉妬したからだ。

 しかしそれは、あの男の思い込みと言いがかりでしかなく、誰に聞いても、晴秋のせいではないと言うだろう。が、それでも彼女がどこかで己のせいだと思っていたのかと、火白はそのときの晴秋の顔を見てようやく気がつく始末だった。

 久那などはとっくに気がついていたようで、優しい言葉をかけて姉を労う幸七郎を見て、うんうんと頷いていたものである。


「それにしてもあの男、取り調べでこの店の名前を出したのか」

「昨日の今日で聞きに来るたぁ、御上も手が早いこって」

「といっても、駒石の親分は怪力乱神を語って世を乱す輩は大っ嫌いだからなぁ。ハナからその永明とかいう野郎のことは、気に喰わんと思うな」

「じゃあ、親分さん、なんでうちに来たの?」


 八歳とは言え、なんとなく事件の動きを察しているらしい芯太が尋ねると、火白と千次と雪トは視線を交わした。


「一応の確認だろうな。だけど、あの顔見るに大丈夫だろう。元々この店は、親分さんにも付け届けをしてるし、福禄屋が真っ当な商いをしてるってことは、この界隈は皆知ってる」


 壊れた寺のすぐ側にいて、怪しげなことをいう風体のよくない男と、家族もいて商いに精を出し、真面目に生きている男のどちらを信じるのか。


「そりゃ店主のほうを信じるわな」

「間違いない。で、寺を壊して騒ぎを起こしたとなりゃ、この辺りにはいられなくなるだろう。火を出さなかっただけマシだけど、それでもただじゃすまない」


 所払いにでもしてくれたらいいのに、と千次は箒を肩に担いで言った。


「所払いというと……お江戸からの追放刑だったか。確か」

「ふうむ。そのような刑もあるのか。……おれの覚えているのだと、火炙りと獄門と磔くらいしかなかったからのう。あとあれだ、晒し首」

「なんでそんなに極端なんだよ……」

「仕方なかろう。人の刑法とは縁がなかったから。それにおれの子どものころは、よく人の首は飛んでいたしのう」


 火白は肩をすくめた。彼の子どものころはまだ戦国乱世のころなのである。

 表の様子を伺えば、確かに親分は幸七郎の話を納得して聞いていた。問い詰めている様子もなく、ちょっと参考程度に話を聞きに立ち寄った、という体である。鬼の聴力ならば、彼らが何をどういう調子で話し合っているのかも聞き取ることができるのだ。

 親分はむしろ、怪しい奴の戯言で福禄屋にまで調べの手を僅かなりとも入れなければならないことを済まながっている様子であった。幸七郎は、それをけろりとしたほほ笑みで宥め、親分が暇をするときには、その袖に紙に包んだ何かをさりげなく差し入れ、親分もそれを受け取っていた。

 そのまま二人は、にこやかに別れる。幸七郎は、親分の姿が雑踏の中に消えて、見えなくなってから重い荷を下ろすように肩をとんとんと叩いた。


「あれは……ふむ、金か」

「付け届けだよ。ああしておけば、何かあったときに調べてくれるって訳さ。人間の知恵だよ」


 岡っ引きにとって、御上から与えられる報酬以外に、ああして縄張りの内にいる商家などから受け取る金銭は、大切な収入源なのだ。

 商家のほうにも、幾らかを包んで渡すことで、何か事件に巻き込まれたときなどに、便宜を図ってもらおうという魂胆がある。

 互いに利のあることなのだ。

 これが、強欲な岡っ引きであったなら、権威を笠に脅すこともあるのだが、駒石の親分はそのようなことをする手合いではない。

 ただし、彼は同時に怪力乱神の類が大嫌いという堅物だから、晴秋ことお晴との相性が最悪に近い。親分の影を見た途端、それまで店の中で帳簿をつけていた晴秋が店の二階へすっ飛んで行ってしまったのは、そういう訳であった。


「ああ、だからお主も隠れに来た訳か」

「まあな。いい人なんだけど、ちょいとそこらが石よりお堅くてさ。僕の顔見ると、真面目な職を探す気はないかって毎回言って来るのさ」

「……まあ、わからなくはないの」


 とはいうものの、千次には親分を嫌っている訳ではないようだった。


「が、永明の処遇がどうなるかは気になるのう。もし温い刑ですぐに自由の身になっても怖いのう」


 また逆恨みして来たら面倒である。

─────ここで、氷上の誰かだったなら。

 四の五の面倒くさいと、さっさと永明を殺めているだろう。それが最も、後腐れのない方法なのだし、鬼にとって人ひとりを消すことなど簡単なのだ。

 だからこそ、火白はそうできない。

一度そうやって人を殺めてしまえば、己の中の一線を踏み越えてしまいそうだった。人の町で暮らすには、恐らく越えてはならない境界である気がしていたから、火白には永明を殺めて何もかもを終わらせてしまおうというつもりはなかった。

 何があっても、その一線のことを忘れてはいけないのだ。

 前世が人だったという自覚はあれど、この世では火白はいとも容易く人を喰らうことのできる鬼なのだから。


「だが、だからと言って何もせぬのも、なぁ」

「ん?なんか言ったか?」


 何でもないさ、と雪トに言い置いて、火白は肩をすくめた。

 もし永明が釈放されて、それでも凝りていないようなら、無理やりにでも江戸から離れたところにまで置いて来てやろうかと思っていた。

 鬼の脚力を惜しみなく使えば、上方と江戸を行って帰るのも、多少の面倒というだけで済むのだ。


「いっそ、蝦夷えぞ辺りにでも放り投げに行くか……」


 行ったことはないが、話に聞く限り雪と氷に包まれるかなり厳しい土地だという。

 回りくどいが、永明が福禄屋にちょっかいをかけて来ることのないような方法として、悪くない気はした。


「主ー、ぶつぶつ言ってないで仕事しようぜ」

「ほいよ」


 その火白に、雪トは手にしていた雑巾を手渡す。すぐさま紹介できるような仕事がないというので、彼らは福禄屋の手伝いをしていたのだ。

 ちなみに久那のほうは、店の上でお夏、お千絵、晴秋と一緒に、店に出す袋物を繕っている。手先が器用であり、山妖の里で長年針仕事をしていた久那だから、それこそ売りに出せるようなものを仕上げることができるのだ。

 一方の男妖二人には、そのような特技はない。針などという細い物を下手に持てば、曲げて使い物にならなくしてしまうのが落ちであった。


「そういやさ、あの狐きょうだいたちはどうしたんだ?僕が朝起きたら、もう長屋にいなかったけど」


 同じく針仕事の苦手な千次は、掃き掃除の手を一度止めて尋ねて来た。


「ん?あやつらなら、昨晩遅くに玉子稲荷の方へ一度帰るそうだ。身の回りをちゃんとしたら、また来ると言っておったがのう」

「えー、小狐さんたち、かえっちゃったの?」


 一緒に遊びたかったのに、と芯太は口を尖らせた。どうやら、どこからかふかふかの毛玉である信乃と毛乃を見かけて、触ってみたいと思っていたようだ。


「帰ったが、また来るような口ぶりだったからのう。機会はあるだろうさ。……だがよ、芯坊や。毬のようにぎゅっと握ってはいかんぞ」

「やらないもん、そんなこと!」


 ぷく、と芯太が頬を膨らませる。その顔を見て、火白は安心しつつ、また手を動かそうとして、妖の気配を感じた。

 手を止め、顔を上げて、裏長屋の方を見やる。その目が驚きで大きく見開かれた。


「んん?」


 火白の視線に気づいて、同じ方向を見た雪トの口から、訝し気な声がこぼれた。

 裏長屋の側に立っているのは、昨日の夜遅くに別れたはずの、実乃だったのである。

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鬼はお江戸で、何見て踊る。 はたけのなすび @hatakenonasubi

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