第1章-23

 それからのことである。

 不忍池から、さっさと離れた三人は何事もなく福禄屋に帰り着いた。裏長屋に入れば、そこで待っていた信乃と毛乃は、実乃を見るなり飛びついてくる。


「兄上!」

「兄上だっ!」


 ぽーん、と縁側にふかふかと並んで座っていた赤茶の毛玉二つは、三人の姿を見たとたんに、勢いよく宙を飛び、木戸をくぐった実乃の胸にくっついた。

 たちまち、溜め込んでいた何かを吐き出すように、小狐たちはえぐえぐと声を上げて泣き始める。二匹を受け止めた青年姿の実乃は言葉もないようで、そのまま喉を鳴らして弟たちの頭を撫でていた。


「うん、火白くん。私たちはちと退散しようか。きょうだいの再会にお邪魔虫はいらないだろう」

「そうだのう」


 言いつつ二人が店表の方へ回れば、ちょうど幸七郎とお千絵、それに久那がいた。二人の顔を見た途端、ぱっと久那が走り寄ってくる。


「火白さま!」

「おーう、帰ったぞ」


 久那の顔を見ると、急にさっき雷を受けた腕がずきりと傷んだ。それで思わず、久那に応えるためにあげかけていた腕が、途中で止まる。


「おい主、今度はどこで怪我をこさえてきた?」

「うおわっ!驚かすな!」


 背後から肩を掴まれて、火白は文字通りに跳び上がりそうになった。振り返ってみれば、思い切り眉根にしわを寄せた雪トが立っていたのだ。


「大した怪我はしとらんから。犯人なら捕まえて来たしのう」

「本当かい!?」


 算盤を持ったまま、道先に飛び出して来た幸七郎の肩を、晴秋がぽんぽんと叩いた。


「ああ。この店にちょっかいをかけていた奴は、捕まえてこらしめた。だが色々と報告もあるから、後で裏長屋に来てくれ。久那ちゃんと雪トくんを借りて行っていいかい?」

「もちろんだよ。店が終わったら色々聞かせてくれよ、姉さん」

「当然だよ。お千絵さんに言って来ておいで」


 それを聞いて、店の中に戻って行く幸七郎である。

 その背中を見届けたと思う間もなく、火白は雪トに左の着物の袖をひっつかまれていた。袖の下から現れたのは、火傷も治っていない痛々しい腕である。

 見ていた久那の黒い瞳が、一瞬こぼれ落ちそうなほど大きくなったのかと思うと、火白の方を見つめ返した。


「これを指して、大した怪我ではないと言うのですか?」

「……すまぬ」

「すぐに謝られるのならば、下手に隠そうとしないで下さい。……晴秋さん、火白さまの手当をしたいので、少し失礼したいのですが」

「ああ、いいよ。行っといで、雪トくんもね」

「ありがとうございます」


 頭を下げるなり、久那は火白の手首を掴んでずんずんと歩き出した。後ろからは無言で雪トがついて来る。

 放っておいても、鬼の治癒能力なら二日ほどで跡形もなく治るのだが、そのようなことを言える雰囲気ではなかった。

 木戸をくぐって、三人は長屋の部屋に入る。久那が部屋の奥へ里から持って来た薬を取りに行く間に、雪トは入り口に近い床の上に座らせられた火白を見下ろして言った。


「で、主がそんなに派手な怪我をこさえるなんて珍しいじゃないか。晴秋の姐さんを庇いでもしたか?」


 大体その通りなので、火白は唸るだけにしておいた。


「珍しいくらい、強い陰陽師だったぞ。大きな式神を二体も出してきてのう」


 言い分は自分勝手であったが、永明の陰陽師としての力は本物だった。

 だから火白もそれ相応に立ち回らねばならず、うっかり寺を倒壊させることになったのだ。

 一つ目小僧たちに取り戻してほしいと言われていた住処のひとつを壊してしまったのだから、彼らには謝り倒すしかないだろう。


「だからなぁ……」


 雪トが尚も何かを言おうとしたときだ。入り口に人影が現れる。


「火白さん、おられます?」


 胸に二匹の小狐を抱いた青年、実乃である。彼は火傷をした火白の腕に目を留め、いきなりその場に膝を揃えて座り、額を地に擦りつけるようにして深々と頭を下げた。


「お、おい!?」


 驚いたのは火白である。いきなり玄関先で土下座されても、何が何やらわからない。


「……ありがとうございます。それに、申し訳ありません。俺は、あなたを利用しました」


 それで怪我を負ったのだから、謝らせてほしいのだと言う彼に、火白は目を白黒させた。


「利用されたと言われても、おれにはまったく心当たりがない。謝られても、応えようがないのだが……」


 何せ、火白は今日初めて実乃の顔を見たのだ。


「いえ、俺はあなたのことを知っていました。氷上の里の火白童子。人間好きの変わり者の妖として、あなたは一部では有名なのですよ」


 その鬼の童子が、ひょんなことから里を追い出されて江戸の方へと流れて来る噂を、実乃も聞いていた。聞いていたから、幸七郎にさらに呪をかけるように永明から命じられたとき、敢えて実乃は、火白と幸七郎とが巡り合うようにけしかけたのだ。


「本当なら、あそこで幸七郎さんが別の妖の血を採るように唆すはずでした。その妖に襲われそうになったところを、あの男が救うという手筈だったのです」

「何とまぁ、あやつそんなことまで企んでおったのか……。用意周到と言うか、大した悪知恵を言うべきか」


 だが、折よく火白童子が江戸の近くの川辺りにまで来ているという噂を、実乃は鳥の妖たちの噂話を聞きつけた。永明の八百長を潰すために、実乃は幸七郎が火白の方へ行くように主の指示とは違うことを教えたのだ。

 それで上手く行くのか、そもそも幸七郎が火白童子に巡り合うことができるのかは、半ば以上賭けだった。

 だが少なくとも、永明が芝居を打って福禄屋に潜り込むことは避けられるし、もしも、火白童子が本当に噂通りの人間好きだったならば、何か動いてくれるかもしれないと思ったのだ。

 随分と、目の前の妖狐の青年は、分の悪い賭けに打って出たものだと、思った。しかし結果的に、火白はその通りに動いているのだから、何も言えない。


「……それで、幸七郎のやつは青い髪の鬼を探すことになったのか」


 どうして、幸七郎があのようなことを言っていたのかが、わからなかったのだ。だが、実乃が仕向けたことなら納得がいく話だった。


「だけど、なんであんたは主がそんな鬼だとわかってたんだ?氷上の里っつったら、妖にも乱暴者って言われてるようなところだろ」


 昨日の小妖怪たちも、火白が乱暴者の鬼だと思っており、姿を見た途端に羆でも現れたかのような大騒ぎになったのだ。だというのに、実乃は火白が人好きの変わった鬼であることまでも知っていた。

 雪トがそう尋ねると、実乃は頭を少し上げて答えた。


「俺たちは、昔大狐さまを通じて、稲荷神さまの眷属方とも話す機会がありました。稲荷神さまは、西の山神さまとも縁があるお方です」


 西の山神さま、と聞いて、火白と雪トは顔を見合わせた。それは、久那の父のことである。


「西の山神さまが以前、酒盛りの席で言っておられたそうです。氷上の里にいる火白という鬼は、妖だというのに人が好きな変わったお方で、それだからこそ娘を預けられると」


 山神の娘に惚れられた、人を喰わず人に交わることを好む変わった鬼、火白童子。狐たちの間には、その話が流れていたのだ。まだ真木と暮らし始める前、大狐の側に控えていたころの実乃も火白の名をそうやって聞き、覚えていたのだ。

 狐たちの大勢にそうやって己の名前が広がっていたのか、と火白は頭を抱えたくなった。


「お父さまが、酒の席でそのようなことを……」


 いつの間にか、軟膏を取って戻って来ていた久那が呟いた。


「あ、それではこちらが西の山神さまの……?」

「はい。西の山神は私のお父さまです」


 久那が言うと、実乃はさらに平たくなる。


「おーい、そんなところで煎餅みたいにならんでくれ。というか、胸と床に挟まれて信乃と毛乃が苦しそうにしておるから、普通に座ってやれよ」

「いえ、でも……」

「いいから、座れ。……といっても、座布団も何もないがの」


 全員で入るとただでさえ狭い部屋は、いよいよ部屋は一杯になってしまったが、畳の上のほうが土間よりはずっといいだろうし、第一軒先でずっと土下座を続けられていては目立って仕方ないのだ。

 だが、畳の上に上がっても実乃は頭を下げっぱなしだった。視線は、火白の焼け焦げた腕に向いている。


「ああ、この怪我のことを気にしておるのか」


 久那に火傷によく効くが、めちゃくちゃに染みる黄色の軟膏をべったりと塗ってもらいながら、火白は腕を少し動かす。傷の痛みよりも、軟膏の痛みのほうが鋭く、ちょっと涙が滲みそうだった。


「火白さま!動かないで下さい、包帯がずれてしまいます!」


 すぐにそう怒られて、火白はぴたりと止まった。その間にも、久那はてきぱきと手を動かして、火白の右腕に丁寧に包帯を巻いた。これならば確かに、一日ほどで治るだろう。


「どうもありがとう。久那」


 きっちりと白い布を巻かれた腕を見て火白が言うと、久那は軟膏を袋に仕舞い込みながら、珍しく低めの声で言った。


「どういたしまして。ですが、もうこんな怪我を負われてはだめですよ」

「……うむ、頑張る」


 火白とて、別に好き好んで怪我をしたい訳ではないのだが、世に絶対という言葉はないのだ。だけれど、そんなことを馬鹿正直に言って久那に哀しい顔をさせるのは、絶対に嫌な火白である。

 手当をしてもらって、火白は頭をかきながら改めて狐のきょうだいのほうを改めて向いた。


「まあ、なんだ、実乃や。お主とて、弟たちを守るので必死だったのだろう」


 怪我はしたが、それは己が立ち回りを誤ったためで、実乃のせいではない。そして実乃の考えに巻き込まれた結果、幸七郎や晴秋と出会えたのである。

 彼も永明に従うばかりでなく、逆らっていた。焦げたり傷がついていたりの毛皮や体は、そのせいだろう。

 だから気にするな、と言いたいところなのだが、実乃の思いつめ方を見れば、そんな言葉を言ったところでさらに抱え込みそうだった。

 難しいものだと、火白は少し考えこんでから、ぽんと手を打った。


「では、こうしよう。おれたちが、もし次に何か厄介ごとに巻き込まれたとき、そのときお主は問答無用でおれたちを助けてくれ。貸し一つということにする。だからな、もう謝るのは止して、妹と弟に構ってやれ。初対面のおれの頭を齧ってくるくらいには、お主のことを恋しがっていたのだぞ」

「お、お前たちそんなことをしてたのか!?」


 信乃と毛乃は、兄狐に言われてぴゃっと首を縮めた。


「だって、だって……」

「兄上が、心配だったんだもん!」

「だからと言ってなぁ。いきなりよそ様の頭を齧ってはだめだろうが!」

「ご、ごめんなさいっ」

「ごめんなのっ」


 急に兄の顔になって、きょうだいを叱る実乃と小さくなって謝りながらもどこか嬉しそうな小狐たちを見て、火白は心底愉快そうに笑ったのだった。

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