外伝Ⅰ 不死の魔女/6

 カーテンを閉めきった部屋の中で、明かりもつけず、ヴェイルはソファに深く腰掛けたままじっとしていた。その手の中に土の詰められた瓶を握り込み、時々手を開いては、それに視線を落とす。それを繰り返していた。

 それはだった。知らぬ間に交わされていた契約に則り、彼女はヴェイルを死の運命から救い出して泥となった。幸せだった、という彼女の言葉を、ヴェイルはいつでも思い出すことができた。

 あれから、ヴェイルは生き人形を連れて無事エメドレアへと逃げ込むことができた。しかし結局、ヴェイルの罪は不問となり、一方で静穏な暮らしを望んでいた生き人形は日々を重ねることを許されず、ヴェイルだけが取り残された。信頼を寄せていた人を、幸せにすると誓った子を失って、ヴェイルは一人になった。

 ヴェイル=アールダイン、エメドレアの魔術学校アルムゼルダの講師——それが、新たにヴェイルに与えられた生だった。

 ヴェイルは立ち上がり、瓶を机の引き出しにそっとしまった。そして、しばらくそのまま立ち尽くしていた。ヴェイルの心の時間は、この部屋を与えられた時から止まってしまっている。だというのに壁の時計は無情にも時を刻み続け、世は忙しなく動いている。

「また、ひとり……」

 呟きは虚しく、一人きりの部屋に霧散する。得られた温もりは手からすり抜けていってしまって、もうどこにもない。こんな己が人々の幸せを願えるものかと、ヴェイルは奥歯を噛み締めた。

 何もかもが孤独に感じられた。信じるものは泡沫の夢のように揺らぎ、消えかかっている。手を伸ばして掴もうとしてもかなわない。

 そのままぼうっとしていると、ふと部屋の扉が叩かれて、ヴェイルは肩を強張らせた。

「はい、」

 反射的に返事をすると、扉の向こうで居住まいを正す気配がある。ややあって、遠慮がちな声が扉越しに聞こえた。

「フレイセル=ヴァイラー従士です。よろしいでしょうか」

 ヴェイルは目を瞬いた。それは、最近知り合った新人衛士の名前だった。まだ首都の地理に詳しくなく、迷子になりがちなヴェイルを見つけて、目的地まで連れて行ってくれる親切な少年である。

 ヴェイルは扉を開け、数日ぶりにフレイセルと顔を合わせた。彼はヴェイルと対面すると踵を鳴らして敬礼し、そして片手に下げた紙袋を軽く持ち上げた。

「その……贈り物に茶菓子をいただいたのですが、もしよろしければご一緒に、と……いかがでしょう」

 フレイセルはやや緊張しているようだった。まるで、意中の人物を誘いにかけるように、瞳は真剣そのものだった——いや、彼は確かに懐っこいが考えすぎだろう、とヴェイルは首を振る。

「私といても、楽しくはありませんよ」

「そんなことはありません。先生のお話は、とても興味深いものです。いや正直、魔術の話はきちんと理解できているとは言えないのですが……先生とお話ししていると、気が落ち着くのです」

 そこまで言われてはヴェイルも断り切れない。茶葉なら、クライフ教授が置いて行ったものがある。ヴェイルは観念したように嘆息し、フレイセルを招き入れた。

「どうぞ、今、窓を開けますから……」

 薄暗い室内を振り返ってようやく、部屋の中の空気が淀んでいることに気がつき、ヴェイルは窓へ歩み寄った。分厚いカーテンを開くのは何日ぶりだろう。差し込んできた陽光の眩しさに目を細めつつ、窓を開け放つ。春先の柔らかな風が頬を撫で、背中をすり抜けていった。

「すみません、あまり人を招かないもので」

「いえ……あの、先生」

「はい」

 何か言いたげなフレイセルに、ヴェイルは首を傾げた。彼は机の上に紙袋を置きながら、言いにくそうに、おずおずと切り出す。

「時々、こちらに伺ってもよろしいでしょうか」

 ヴェイルは言葉を探した。ヴェイルは、フレイセルを特に煩わしく思っているわけではない。彼が『気が休まる』というのなら、断る理由もない。

「どうぞ、お好きな時にいらしてください。講義中は、いないかもしれませんが」

 ゆえにあまり深く考えずにヴェイルは頷いていた。フレイセルはぱっと顔を明るくして、ありがとうございますと微笑む。いつも硬い表情をしている彼には、珍しいことだった。

 かち、と壁の時計の秒針が動き、昼時を知らせ、ヴェイルはしばらく時報の音を聞いていた。暖かな風に花の香りが混じっている。

「先生?」

 沈黙したヴェイルを訝しんだフレイセルが声をかける。それに、ヴェイルはゆるりと首を振った。

「いえ……なんでも。かけてください、フレイセルさん」

 不思議なもので、ただ来客があったというだけなのに、ヴェイルの口元には笑みが浮かんでいた。陽の光を浴び、春の風を感じたからかもしれない。フレイセルが呼び込んだのだ。彼が来なければ、この部屋の窓は閉め切られたままだったろう。

 後悔も、孤独も、そう簡単に和らぐわけではない。だが今は遠ざけておいても良いのではないかと思ったのだ。

 紅茶を淹れながら、ヴェイルは話の種を探す。世間話は得意ではないゆえに必然的に魔術の話になるが、フレイセルはそれでもいいと言ってくれる。それが、ヴェイルにはありがたかった。

 お話ししましょう、とヴェイルは静かに切り出した。それに、フレイセルが耳をすませる。風に乗って入ってきた花びらが、ひらりと、ヴェイルの指先に触れた。

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薄明のメフォラシュ こけもしん @a9744c

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