外伝Ⅰ 不死の魔女/5

 その言葉は、ヴェイルに強い衝撃を与えた。彼女が何を言ったのか、すぐには理解できないほどだった。それは少年も同じだったらしく、表情を固くして母親を見つめ、それから、母親から距離を取るように、よろよろとヴェイルの背中に隠れた。

 ヴェイルは少年を安心させるように肩に手を置き、そっと身を寄せた。少年の体はわずかに震えており、ヴェイルを見上げる瞳は戸惑いに揺れていた。そして、ヴェイルも同じ表情であった。まさかあんな、物を捨てるかのような強い口調で拒否されるとは思ってもみなかったのだ。

 衝撃が薄れるにつれ、ヴェイルは自分の行いがあまりにも軽率で、想像力の欠如した行為であったことを理解した。目の前の光景は、願っていたものとはあまりに遠く、残酷だった。しかしそれを導いたのは他ならないヴェイルなのだ。

 罪の所在が明らかになり、呆然と立ち尽くすヴェイルを、響が小突く。

「何をぼうっとしているんだ。ここを出るよ」

「出る、って……」

 犯罪を犯して逃亡するような後ろめたさをヴェイルは感じていた。響の言葉に、母親をなだめていた父親は首を振り、聞かない振りを決め込んでいる。

「今のうちに。この子を連れて。はやく」

 魔術師だと村のものに知られれば、ヴェイルや、そしてこの少年もどんな扱いを受けるかわからない。響に強く腕を引かれて、ヴェイルは急いで荷物をまとめ、少年に外套を着せる。

「さすがに二人を抱えては飛べないな。第一、アールダインはもう私より体が大きい」

 言うが早いか、響は少年をさっと抱え込んで、翼を広げるとベランダから飛び立った。にわかに外が騒がしくなり、ヴェイルも荷物を背負って響の後を追おうとする。それを、父親が呼び止めた。

「ヴェイルくん」

 ヴェイルは振り返った。糾弾されるか、詰られるか——ヴェイルは出来るだけ心を落ち着かせようとした。どんな言葉が投げかけられたとしても、それをヴェイルは受け止めなければならない。口を引き結び、緊張した面持ちで続きを待つヴェイルに、父親は、違うんだ、とこぼした。

「君を惑わせ、いざなったのは私だ。その上で、私はまた無理なお願いを頼むことになる。もう、無茶なことは言わないとここに来たはずなのに」

「……なんでしょう、それは」

 宿の階段を誰かが上がってくる音がする。父親はヴェイルの目をまっすぐに見つめ、そして、頼む、と頭を下げた。

「あの子を幸せにしてやってください。私たちには、……できません」

 ヴェイルは一瞬言葉を失い、そして、深く頷いた。そして床を蹴り、柵から身を乗り出した。




 地面が消え、どこまでもどこまでも落ちていく感覚に、ヴェイルは夢を見ているのだと確信した。十六歳のあの日、魔術師として深淵に片足を踏み込んだ夜、そして迎えた朝——ヴェイルは今でも、それらの出来事を鮮明に思い出せる。

 どんな人にも幸せであってほしいと願い、叶えられる手段があればそれを選ぶ——ヴェイルが志を新たにしたのも、それがきっかけだった。幸せとは何かを、常に慎重に考えながら、深淵に呼び込まれないように己を強く保ち、成すべきことを成す。言うは易く行うは難し、とはいえどもヴェイルは諦めるつもりはなかった。諦めてしまえば、希望はそれだけ遠のいてしまうからだ。

 夜空の星々に、ヴェイルは手を伸ばした。決して届かないところにありながら、その輝きを失わないそれは、旅するものの道標だ。

「ヴェイル」

 やわく囁かれて、ヴェイルは夢の世界から引き上げられた。目を開けると、藤色の瞳がヴェイルの顔を覗き込んでいた。

 あの日から三年が経ち、生き人形ラグルはヴェイルが設計した通りに歳を重ね、順調に背を伸ばしていた。声も少し、低くなった気もする。

「そろそろ出発の時間だから起こしておいてって、響が」

 大木が作る小さな崖の下に、ヴェイルたちは身を潜めていた。目的地であるエメドレアはもう目と鼻の先だ。ヴェイルはゆっくり起き上がると、消えかけの篝火に砂をかける。

「その、エメドレアっていう国についたら、静かに暮らせるのかな」

「ええ……きっと」

 あの日、少年を抱えて逃げ出したヴェイルたちを追いかけたのは、村人たちではなく、ヴェイルと生き人形を狙う死霊術師たちだった。各地を転々としながら逃げ惑ううちに、古き時代から生きる響の存在も知られ、ヴェイルたちはその全員が追われる立場となっていた。

 そんな中、響が提案したのが、魔術師たちが集まる国エメドレアへ逃げ込むことだった。死霊術師を魔術師と善良なる市民の敵と定義するその国の保護を得られれば、この逃亡生活も終わるだろうと、彼女は言っていた。

 ——私は、きっと捕まってしまうだろうけれど。

 ヴェイルは苦笑を漏らした。深淵を侵し、そこから魂を呼び寄せることは、間違いなく死霊術の類だ。追求されれば逃れるすべはない。ヴェイルもまた抵抗するつもりはなかった。犯した罪に相応の罰が下されるだけのことだ。

 しかし、少年には何の罪もない。ヴェイルによって生み出され、家族と引き離され、得体の知れないものたちに追われ、息もつけぬ日々を強要されている。この子だけは、とヴェイルは両手を伸ばして、少年の頬を包んだ。この身が引き裂かれ、魂が砕かれようとも、この子だけは守り通さなければならない。

「ひとりのとして……あなたが尊重されるよう、力を尽くします」

 触れた頬は暖かかった。血が通っている証拠だ。それが愛おしく思え、ヴェイルは何度も少年の頭を撫でた。

 そこへ、響が文字通り飛び込んでくる。翼を広げたまま、響は二人を急かした。

「やつらに勘付かれた。もうちょっと君たちを休ませてあげたかったけど、走れるかい?」

 響には疲労という感覚がない。眠りもしないので、常に周囲を見張る役目を負っていた。悪意ある輩が近づけば魔術で撃退し、敵わない相手ならば身を隠す。ヴェイルたちが今まで無事でいられたのは、彼女の秀でた能力があってこそだった。

 ヴェイルは頷き、立ち上がると荷物を背負ってその場を離れた。安全な場所へ先導する響の背中を負って、ぬかるみに足を取られないよう足を運ぶ。少年もまた、遅れずについてきていた。

「こんな生活も、あと少しですから」

 ヴェイルは少年を鼓舞するように、自身にも言い聞かせるように呟いた。国境を越えれば、そこは魔術師の国だ。思えば随分遠くまで来た。生まれ故郷のノールハルドはすでに北の彼方で、少年の出自を知る者もいない。あともう少しで、焦がれた平穏に手が届く——。

「え、っ?」

 息をついた瞬間、胸に、どん、と衝撃があった。何かがぶつかってきたというよりは、貫かれたような重みがある。状況を理解する前に、ヴェイルはたたらを踏み、次の瞬間、痺れるような激痛に膝をついた。

 胸から溢れた鮮血が地面を染める。銃撃を受けたと理解したのは、口から血を吐いたあとだった。響が異変に気付き、慌てて引き返してくる。それを、ヴェイルは叫んで止めた。

「来てはいけません! 先に逃げてください!」

 それでも、響は止まらなかった。倒れ込んだヴェイルを助け起こし、翼を広げて少年とヴェイルを守ろうとする。

「手に入らないと分かったら、これか」

 響の落ち着いた声音に、ヴェイルははくはくと唇を震わせた。そんなことを言っている場合ではないのに。自分が受けた傷が、致命傷だとヴェイルには分かっていた。急速に血が失われ、体の末端から冷たくなっていく。

「大丈夫だ、アールダイン。君は死なないよ。?」

 響の微笑みに、ヴェイルは薄れる意識の中で思い出した。

 彼女は不死の魔女でありながら、契りを交わした物の死を引き受け、泥になって崩れる泥人形であることを。

 ふっ、と体から鈍い痛みが消え去ったと同時に、彼女の胸に穴が開いていた。その胸から血がこぼれることはない。ただ、彼女はその時始めて、表情に疲れを見せていた。目を細め、二人に覆いかぶさるようにして、苦しげに息を吐く。

「予感はしていたよ……できればもっと後でと、思っていたのだけれどね」

 銃弾を受けて、彼女の翼が土塊のように弾けて散らばる。やめてくれ、とヴェイルは願った。彼女を傷つけないでくれ、と祈った。響は軋む体を懸命に動かして、埃を払うように腕を振った。すると、遠くの木々から鳥が音を立てて飛び立ち、殺意は途切れた。

「……これでしばらくは安全だ。さあ、」

 今のうちに、と二人を急かす響は、しかし、立ち上がらなかった。

「私はここまでのようだから」

 ヴェイルは手を伸ばして、響の手に触れた。その先から、響の体は砂になって崩れ落ちていく。

「私は、幸せだったんだよ。命を賭しても、守りたいと思えるものが、あったんだから」

 最後に彼女は微笑んで、ヴェイルの額に口づけを落とした。

「さようなら、小さきアールダイン。君の望む未来に、多くの人々の安寧があらんことを」

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