後編

 ***


 薄暗い停留所に数人の乗客を降ろすと、バスは音を立て、ゆっくりと走り去った。残された乗客は、私とは違う方向へぱらぱらと散っていく。私は一人、坂道をのぼりながら、はあっと白い息を吐いた。高台に見える団地の灯りは、この数年でさらに少なくなり、今では数えるほどしかない。

 私はマフラーを鼻まで持ち上げ、持っていたスマートフォンをポケットの中へ押し込んだ。今日ネットで確認した、大学の合格発表。結果は見事に不合格。これで東京の大学はすべて落ちた。かろうじて受かったのは、レベルのあまり高くない、家から通える女子大のみだ。母はどんな気持ちで、私の帰りを待っていることだろう。

 もう一度息を吐いて、足を止める。薄暗い公園のベンチに、人形のように動かず、一人で座っている人影を見つけた。


「寒いね」

 ポケットに手を突っ込んだまま、隣に座る。ベンチでぼうっと座っていたのは、私とは別の高校に通う睦生だった。私服姿の睦生は、制服を着た私を一瞬見てから、また前を向く。

「足、出してるからだろ?」

「みんなそうだもん」

 短いスカートの裾から太ももが見えて、私はそれをスクールバッグで隠した。

 十八歳になった私と睦生は、時々こうやってここで会う。睦生が思い詰めたような顔つきで、時々ここに座っているから、私が勝手に隣に座るだけだ。

「睦生、バイトの帰り?」

「ああ。お前は? 学校自由登校だよな?」

「今日部活のお別れ会だった」

「部活? お前何部だっけ」

 睦生は私に興味がない。だから三年間続けた私の部活も、覚えていない。

「合唱部だよ」

「へぇ、お前歌なんか歌えるんだ」

 睦生に歌ってあげたことはないけれど。そしてこれからもきっとない。

 キンッと冷え切った空気の中、黙って座っていたら睦生が言った。

「俺んち、引っ越しの日、決まったから」

「いつ?」

「三月十日」

「そっか……」

 睦生は推薦で東京の大学に合格していて、睦生のお父さんは仕事を辞め、田舎の両親と同居することになっていた。

「ずるいなぁ、みんな私を置いて、いなくなっちゃってさ」

 睦生は何も言わなかった。何も言わないまま、ゆっくりと空を見上げる。冬の夜空には、今夜も星が瞬いている。

『あの高い所で白く光ってるのが、こと座のベガ。七夕の織姫星だよ。その斜め下に見えるのは、わし座のアルタイル。彦星だね』

 ふと史の声が聞こえた気がして、私は首を横に振った。史の声が聞こえるはずはない。


「ねぇ……星の名前、教えて」

 ひとり言のようにつぶやくと、睦生が空に向かって指を伸ばした。

「あそこの三つ並んでる星が、オリオン座の三ツ星。左上の赤い星はベテルギウス。右下のはリゲル」

「うん」

 睦生の指先が空を動く。

「あの青白く光ってる星がおおいぬ座のシリウス。全天で一番明るい星。俺はあの星が一番好きだ」

 睦生の言葉は史の言葉だ。史は睦生にだけ、星の話をしていた。あのジャングルジムの上にのぼって、二人きりで。だけど睦生はもう、あの上にはのぼらない。

「私は……織姫星が好き。織姫星はどこ?」

「それは夏の星だろ。今は見えない」

「でも私は……織姫と彦星しか教えてもらってない」

 十四歳のあの夜、史はバイクの事故で死んだ。運転していた男は軽傷だった。史は私たちの前から、突然消えてしまったのだ。私の望んだとおりに。

 びゅっと冷たい風が吹いた。

「睦生……」

 私の声が震えている。

「私まだ……睦生に言ってなかったことがある」

 隣に座る睦生は、空を見上げたままだ。

「三人でプラネタリウムの町まで行った日のこと、『ごめん』って言ってた。史が、睦生に」

 つかえていたものを吐き出すように、私は息を吐く。睦生がふっとかすかに笑う。

「何で今さら言うんだよ」

 うつむいて、スカートの裾をぎゅっと握る。

「何で今さら……そんなこと言うんだよ」

 睦生が静かに立ち上がった。

「もう……帰ろう」

 下を向いたまま、私は答える。

「私はもう少し……ここにいる」

「……そうか」

 小さくつぶやくと、睦生は私に背を向けて、一人で公園を出ていく。私は冷たいベンチに座ったまま、その背中を見送る。

 睦生は今でも、史の横顔を見ている。空の星を見上げる、史の綺麗な横顔を見ている。

「願いが……叶ったのに……」

 私の願いは叶ったのに。今でも私の手は、睦生に届かない。

「バカみたい……」

 あきれたように笑って、ポケットからスマートフォンを取り出す。かじかむ指先で相手を呼び出し、電話をかける。

 苦しい。息をするのが辛い。お願い、誰か私を、ここから連れ出して――。


「何泣いてんだよ」

 顔を上げると、睦生が目の前に立っていた。坂道の途中で戻ってきたのか。

「泣いてないよ」

 私はスマートフォンを、ポケットに突っ込みながら答える。涙なんか出ない。私には泣く権利なんてない。深く息を吐いた睦生が、私を見下ろして言う。

「水音。帰ろう。一緒に」

 私は首を横に振る。睦生は黙って私を見つめる。薄暗い街灯のあかりが、睦生の顔を青白く照らす。

「……ほっといて」

 十四歳の夜、睦生が私に言った言葉。私たちは十八歳になったけど、あの年から時は止まったまま。

 公園の前に一台の車が停まった。私はバッグを持って立ち上がる。

「私、これから行く所があるの」

 睦生は私の顔をじっと見ている。私はすっと顔をそむける。

「さよなら。睦生」

 春になったら、睦生はこの町を出る。隣の家も、引っ越してしまう。睦生がすずのね団地へ帰ってくる理由はなくなる。私はもう二度と、睦生に会うことはない。

「水音……」

 睦生のかすれる声に、一瞬足を止めそうになり、それを堪える。振り向かずに公園を出て、停まっている車のドアを開ける。私が助手席に乗り込むと、運転席の男が言った。

「誰? あれ」

「隣の家の子」

「いいの?」

「いいの。行って」

 車がゆっくりと走り出す。睦生は公園の中から私を見ていた。その姿は蒼く透明な夜の中に、消えてしまいそうなくらい儚かった。

 ごめんね、睦生。あんたのこと、救ってあげられなくて。でもあんたが悪いんだよ。あんたがいつまでも、あの子の横顔を追いかけ続けているから。


「けど嬉しかったよ。水音ちゃんから電話もらえるなんて」

 私は窓に肘をついて、外を見つめていた。流れる景色は暗く、ぽつぽつと並ぶ町のあかりが、ぼんやりと灯っていた。

「どこへ行く?」

 運転席の男が聞いた。この人の名前、なんだっけ。私は史と、同じことをしている。自分で自分の身体を、傷つけている。

「どこでもいい……ここから逃げ出せるなら」

 赤信号で車が停まった。男はわずかに口元をゆるませると、私に唇を押し付けてきた。

 知らない男とするキス。その先のセックス。どこまで逃げればいいのだろう。どこまで逃げれば、この胸の苦しさから解放されるのだろう。

「楽しいこと、しに行こう。きっとあんな男のことなんか、すぐ忘れられるよ」

 唇を離した男がそう言った。

 信号が青に変わる。夜の闇の中、車が走り出す。車内のスピーカーから流れてきたのは、聞いたことのある曲。遠い昔、史の家のテレビから流れてきた曲だ。史はその音を聞いた瞬間、すぐに言った。

『あ、これ。お父さんの好きな歌だ』

 好きな人の好きのものは、どんなに離れていたってすぐにわかる。

 窓ガラスに手を当てた。その手を高く伸ばしてみる。けれど、こんな狭い場所からあの星は見えない。星の代わりにホテルのネオンが浮かんでいた。ぼうっと青白く。闇の中に。

 私は車内に流れる音を聞きながら、頬を伝わり落ちる涙を、手の甲で乱暴に拭い取った。

 今夜も私は燻り続ける。苦い想いを抱えたまま。朽ち果てていく、この町と一緒に。

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蒼く透明な夜、私たちは宇宙(そら)に向かって手を伸ばす 水瀬さら @narumiyu

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