中編

 それから少し経った夏休みの初日。玄関からチャイムの音が聞こえた。父も母も、もう出勤している。仕方なくドア穴をのぞくと、そこに睦生が立っていた。

「よう」

 渋々ドアを開けたら、気まずそうな顔つきの睦生が言った。私は睦生の前で、顔をしかめる。この前言われた「ほっとけよ」という言葉が、まだ胸に刺さっている。

「なによ」

 ぶっきらぼうに言うと、睦生が私から顔をそむけてつぶやいた。

「今日、暇?」

「は?」

「付き合ってもらいたいところがあるんだ」

 意味がわからなくて首をかしげる。睦生はゆっくりと視線を移し、もう一度私を見た。


「ははっ、なんか笑える。この三人で出かけるの」

 史がそう言って、足をバタバタさせながら笑っている。三人で乗った電車の中で。

「で、どこ行くんだよ?」

 真ん中に座った史が、私と睦生の顔を交互に見る。

 そんなことは私が教えてもらいたい。わけのわからないまま睦生に連れ出され、同じように連れ出された史も一緒にバスに乗った。駅で電車に乗り換えて、行き先も聞かされないままここにいる。

「ま、いいけど。今日は暇だし。あ、誘ったんだから、電車代は睦生が出せよな」

 史はそう言うと足と腕を組み、勝手に私の肩にもたれかかって目を閉じた。

「着いたら起こして。昨日寝てないんだ」

「ちょっと!」

 身体を離そうとしたけど、史は動こうとしない。ちらりとその向こうの睦生を見ると、睦生は私たちから目をそらし、持っていたスマートフォンで何かを確認し始めた。

 いったい、なんなのよ、もう。

 肩が重いし、イライラする。どうして私はこの二人と一緒に、電車に揺られているのだろう。やがて電車の音と一緒に、史の小さな寝息が聞こえてきた。


「二人とも、起きろ。着いたぞ」

 その声に、はっと目を覚ます。顔を上げた私の前に、睦生が立っている。いつの間に寝てしまったのだろう。隣を見ると、私にもたれかかっていた史が、眠そうに目をこすっている。

「降りるぞ」

 睦生がそう言って歩き出す。ホームに停まった電車のドアが、ゆっくりと開く。私は慌てて立ち上がり、ぐずぐずしている史の手を引っ張った。

 ホームに降り立った身体に、蒸し暑い空気が纏わりついた。空は真っ青で、蝉の鳴き声がじわじわと聞こえてくる。大きくもないけど小さくもない、でも綺麗に整った駅は、私の来たこともない駅だった。

 睦生が黙って歩き出す。私もそれに続こうとしたら、史がふてくされた顔で突っ立っていた。

「史? 行かないの?」

 史がだらんと下げた両手を、強く握りしめたのがわかった。睦生は私たちのことなど振り向きもせず、どんどん歩いていく。

「史?」

 もう一度声をかけると、史は唇を引き結び、真っ直ぐ睦生に向かって歩き出した。


「睦生!」

 史の声に睦生が振り返ったのは、改札を出て、歩道を少し歩き出したところだった。

「あんた何、考えてんの!」

 史が怒っている。睦生は無視するようにどんどん歩く。

「睦生!」

 睦生の肩を、史の手がつかんだ。立ち止まった睦生が、やっと史のことを振り返り、低い声でつぶやいた。

「史。会ってこいよ」

 私は二人のそばへ駆け寄って、緑の木々の向こうにある、ドームのついた建物を見上げる。

「会ってこいよ。お父さんに」

 睦生の言葉にはっとした。そう言えば、ずっと前に史から聞いたことがある。史のお父さんは、プラネタリウムで働いているのだと。だから星に詳しいのだと。

 ここはきっと――史のお父さんがいる場所だ。

「……睦生、あんたバカなの?」

 史が押し殺すような声を出した。

「あんた、そのために私を、こんなとこまで連れてきたわけ? 何考えてんの? バカじゃねぇの?」

「会いたいんだろ? 史はお父さんに。お父さんならきっと、史を助けてくれるよ」

 睦生の声に、史は肩を震わせながら言い返す。

「誰が会いたいって言った? 誰が助けてくれって言った? 余計なお世話なんだよ! ふざけんな!」

 そばを歩く家族連れが、顔をしかめて通り過ぎる。立ち止まって、こちらを見ている人もいる。史は顔を真っ赤にして、睦生に背中を向けた。

「帰る!」

「待って!」

 私は思わず駆け出し、史の行き先をさえぎった。睦生は黙ったまま、何も言おうとしない。


「ちょっと史! その言い方は、ひどいんじゃないの? あんたがバカなことばっかりしてるから、睦生が心配してるんじゃん! 睦生に謝りなよ!」

 顔を上げた史が、冷たい目つきで私を見る。

「心配してくれなんて……誰も頼んでねぇよ」

 低い声に一瞬ひるむと、史はにやりと笑ってこう言った。

「水音は、睦生のことが好きだもんな。ずっと前から」

 かあっと頬が熱くなる。その表情を睦生に見られていると思うと、指の先まで震えてきて、同時に怒りが沸いてきた。

「だから私がいなくなればいいって、思ってるんだろ? いいよ。邪魔者はさっさと消えてやるよ。二人でプラネタリウムでも何でも、見てくりゃいいじゃん」

 史が私に肩をぶつけるようにして歩き出す。私はそんな史の前にまわりこむと、右手を振り上げて、その頬を思い切りひっぱたいた。

「いって……」

「睦生に……ちゃんと謝って!」

 頬に手を当てた史が、私のことを睨みつける。私は両手を上げ、めちゃくちゃに史のことを殴った。

「痛いっ!」

「うるさい! 早く睦生に謝ってよ!」

 自分でも何をしているのかわからなかった。ただ悔しくて悔しくて、湧き上がる思いを止められなかった。

「水音! もうやめろ!」

 睦生に手をつかまれた。強い力。男の子の手だ。

「もういいから……やめろよ」

 だけどその声に力はなかった。私が唇を噛みしめると、史が背中を向け、駅に向かって歩き出した。

「……ごめん」

 睦生の手が、私から離れる。

「史のお父さんなら……史をなんとかしてくれると思って……俺には何もできないから」

 黙ったまま、睦生の言葉の意味を考える。

「水音まで巻きこんじゃって……ごめん」


 帰りの電車で並んで座っても、私たちは一言もしゃべらなかった。睦生はじっと下を向いていて、史は誰とも目を合わせようとしない。

 私は一人で、流れていく景色を見ていた。青い空がオレンジ色に変わり、車内に夕陽が差し込んでくる。床も、空いている席も、前に座って眠っているおじさんの顔も、すべてがオレンジ色に染まっていく。それを見ながら私は、放課後三人で集まった、史の家を思い出した。

 あの頃から私は、睦生のことが好きだった。史とおしゃべりしながら、部屋の隅で漫画を読んでいる、睦生の横顔を時々見ていた。誰にも話したことはなかったのに。史はそれにちゃんと気づいていた。

 空の色が濃くなっていく。やがて車内に、私たちの住む町の名前がアナウンスされる。睦生が立ち上がったから私も席を立つ。振り返ると史はまだ座っている。

「史」

 私が呼ぶと、史は面倒くさそうに腰を上げ、私たちを追い越すように、開いたドアからホームへ下りた。

 そのまま三人、何もしゃべらないままバスに乗り、同じバス停で降りる。帰る場所が同じなのだから仕方ない。十四歳の私たちは、どこへも逃げることができないのだ。

 睦生の背中を見つめながら坂道をのぼる。なんだか寂しくなって空を仰ぐと、蒼い夜空に明るい星が、ぽつんと一つ光っていた。


「水音!」

 史に声をかけられたのは、それからしばらくした塾の帰りだった。ジャングルジムのてっぺんに座った史が、私の名前を呼んで、笑いながら両手を振っている。

「降りなよ。危ないから」

「平気平気! 水音ものぼっておいでよ!」

 私はジャングルジムの下でため息をついた。この前のこと、史は何とも思ってないのだろうか。それとも史にとって、あれはたいしたことではなかったのだろうか。

 手を伸ばし、目の前にある錆びた鉄の棒を、ぎゅっと握りしめた。足を掛け、そのまま史のいる場所までのぼる。一番上までのぼりきったら、史が満足そうに微笑んだ。

 史の隣に腰かけ、空を見上げる。街灯のあかりは薄暗く、さわさわと草木の揺れる、乾いた音しか聞こえてこない。ジャングルジムの上に座る私たちだけが、この世にいるような、そんな気持ちにさえなった。

「この前は」

 しばらくそのまま黙っていたら、史がぽつりと言葉を漏らした。

「ごめんって、睦生に言っといて」

 隣にいる史を見る。史は空を見上げている。

「自分で言いなよ」

「水音が言って」

 史は空を見たまま、ふふっと微笑む。


 史の横顔は綺麗だった。メイクなんかしなくても、すごく綺麗だった。私はそれを、ずっと前から知っていた。そしてその横顔を、睦生がいつも見ていることも知っていた。二人は育った境遇がどこか似ていて、抱えているものが同じだったから。だから睦生は私じゃなくて、史に想いを寄せたのだ。そしてそんな二人が、毎晩この公園で会っているのを知ってから、私は考えるようになった。

 史が、いなければよかったのに。史が引っ越してこなければ、私が睦生の一番そばにいられたのに。史なんて――いなくなればいいのに。

 遠くからバイクの音が聞こえてきた。

「行かなきゃ」

 消えそうな声でつぶやいた史が、下に降りようとする。私は咄嗟に史の腕をつかんだ。

「行かなくていいよ」

 史が私の顔を見る。

「ここにいなよ。ここにいて……星の名前を教えてよ」

 史が私の前でふっと笑う。公園の前に大きな音を立てて、バイクが停まる。

「また今度な」

 史の腕が、私の手からするりと抜けた。ジャングルジムを軽々と降り、史はバイクの男に駆け寄っていく。

 私はそんな史の姿を黙って見ていた。黙って見ているだけだった。

 どうして私は追いかけなかったのだろう。

『星の名前を教えてよ』

 その言葉はやっぱりうわべだけの、思ってもない言葉だったのだろうか。

 あの時、史を追いかけていれば――何かが変わっていたかもしれないのに。

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