蒼く透明な夜、私たちは宇宙(そら)に向かって手を伸ばす

水瀬さら

前編

 それは蒸し暑い、雨上がりの夜だった。

 バスを降り、濡れた坂道をのぼりながら、私は小さく息を吐く。あたりは蒼い闇に包まれていて、坂の上から吹く生ぬるい風が、身体にじっとりと纏わりついた。

 ぽつぽつと並ぶ、街灯のあかりに照らされるのは、塾で受けた模試の成績表。密かに自信があったのに、結果はひどいものだった。家に帰って、これを見せた瞬間の母の顔を想像して、喉の奥からまたため息が漏れる。


 坂道をのぼりきったところに、古い団地が見えてきた。築四十年以上になる、「すずのね団地」だ。

 同じ県内にある隣の市は、新しいショッピングビルや高層マンションが建ち並び、道路や公園も整備され、ここ数年で見違えるほど綺麗になった。けれど私の住む町の、特に駅から離れたこのすずのね団地周辺は、年々過疎化が進んでいる。

 私が小さい頃は、同年齢の子どもがたくさん暮らしていて、団地内はとても賑やかだった。けれど、みんな次々と隣の市へ引っ越してしまい、いま残っているのは高齢者ばかり。老朽化のため、取り壊しになるのではないかという噂も、大人たちから聞いた。

 先週十四歳になったばかりの私は、サラリーマンの父とパートをしている母の三人で、生まれたときからずっとここに住んでいる。


 肩からかけた、パンダ柄のトートバッグの中にプリントを押し込み、顔を上げた。隙間を開けてあかりが灯る、五階建ての建物。そしてその手前には、小学生の頃よく遊んだ、小さな公園がある。

 公園の中の遊具は、どれも色あせて錆びついていた。最近は昼間でもひと気がなく、夜はさらにひっそりとしているから、この公園の脇を通るときは早足で歩こうと決めていた。

 その日もいつもと同じように、急いでそこを通り過ぎるつもりだった。だけど公園の中に見えた人影に目を奪われ、思わずその場に立ち止まってしまった。青白い街灯のあかりの下、ベンチに座る若い男女の姿。女のほうは、どんなに薄暗くてもすぐにわかった。

 宮原みやはらふみ。私と同じ中学二年生。史も団地の住人で、小学生までは一番の親友だった。だけど中学に入学した頃から史は学校に来なくなり、中二になってからは、一度も彼女の制服姿を見ていない。

 史は隣に座る、見るからにヤンキーっぽい男に肩を抱かれ、くすくすと笑い合っていた。顔を寄せ合って、キスをするようなしぐさもする。

 なにあれ。気持ち悪い。

 顔をそむけてその場を立ち去ろうとした時、いきなり背中を叩かれた。

「ひっ……」

「何してるんだよ、水音みと

 驚いて振り返ると、私のよく知っている顔がそこにあった。

睦生むつき……」

 立っていたのは河野こうの睦生だ。睦生も団地に住む同級生で、部屋はうちの隣。学校の制服を着て、肩からスポーツバッグをかけている。部活帰りだろうか。それにしても遅すぎる。睦生の右手には、コンビニの袋がぶら下がっていた。きっとこれが睦生の今夜の夕食だ。

 睦生は私の肩越しに、ちらりと公園をのぞきこみ、「ああ」と小さくつぶやく。そして何事もなかったかのように、坂道を歩き出す。

「あっ、ちょっと待って」

 私は睦生を追いかけた。公園の脇を通り過ぎる睦生は、何も言わない。

 じっとりと湿った夜の中、睦生の白いシャツを追いかけながら、一度だけ公園を振り返る。ベンチに座った史は、私の知らない男と、唇を重ね合わせていた。


 私と睦生の住むすずのね団地に、史が引っ越してきたのは小学三年生の時。史の家は母子家庭で、母親はいつも家にいなかった。私の家も共働きだったし、睦生の家は父子家庭。私たちは学校が終わると、なんとなくいつも史の家に集まって、時間を潰していた。

 史の家の、つけっぱなしのテレビの音。持ち寄った駄菓子の味。窓から差し込む夕陽の色。史とのどうでもいいようなおしゃべり。睦生はだいたいいつも、部屋の隅で漫画を読んでいた。そしてその時間は私にとって、一日の中で一番安心できる時間だった。

 そんな毎日が変わりはじめたのは、六年生の頃だ。史の家に突然、知らない男が出入りするようになった。私たちはあの家にいられなくなり、やがて史の母親が妊娠した。

「今度、赤ちゃんが産まれるんだ」

 そう言って史は笑っていたけれど、中学生になり、弟が生まれた頃から、史は学校に来なくなった。

「史ー、学校行こう」

 毎朝史の家に寄ったけど、史は出てこない。その頃団地に住む同級生は、ほとんどいなくなっていて、史を誘いに行くのは私くらいしかいなかった。そのうち弟を抱いた史の母親に、「もう迎えに来なくていい」と言われてしまった。

 だから私は、史がどうして学校に来なくなったのかわからない。そしてその頃から、睦生もあまり私としゃべらなくなり、三人はばらばらになった。


 蛍光灯の切れかかった団地の階段をのぼる。私の前の睦生は黙ったままだ。中学生になって、睦生は急に背が伸びた。小学生の頃は、私より小さかったくせに。

 学校で見かける睦生は、いつもサッカー部の男子と一緒にいて、楽しそうに笑っている。だけど学校が終わったあと、睦生がどこで何をしているのかは知らない。

 五階に着いて、睦生が立ち止まる。ポケットをごそごそとあさって、何枚かの小銭と一緒に鍵を取り出すと、それを鍵穴に差した。

 睦生の家に母親はいない。睦生も私も覚えていないほど小さい頃、睦生の母親は病気で死んだ。それ以来、睦生はずっと父親と二人で暮らしている。

「さっきの……」

 背中を向けたままの睦生が、ぼそっとつぶやく。

「誰にも言うなよ」

 私は睦生の背中に答える。

「言わないよ。言うわけないじゃん」

 今さら誰に話すというのか。史の素行が悪くなったことは、私の両親をはじめ、団地の誰もが知っている。もちろん学校の教師も友達も。史は今、完全に周りから孤立しているのだ。

 睦生が小さく息を吐いた。なぜだか私の胸が苦しくなる。

「じゃあな」

 かすれる声が耳に聞こえた。

「おやすみ」

 重いドアを開けた睦生は、一度も私に振り返ることなく、真っ暗な部屋の中へ吸い込まれるように消えていった。


「おかえり、水音」

 家に帰ると、台所に立つ母が言った。テーブルの上にはラップのかかった夕飯が並んでいる。

「模試の結果、どうだった?」

 トートバッグの中からプリントを取り出し、無言で母に渡す。母の顔色がさっと変わるのがわかった。想像通りだ。

「今日ご飯いらない」

「あ、ちょっと待ちなさい! 水音!」

 母の声から逃げるように、自分の部屋へ駆け込み襖を閉めた。

 勉強机の上にバッグを放り投げ、カーテンと窓を開ける。五階の窓からは、坂道にぽつぽつと並ぶ白い街灯と、乏しい町のあかりが遠くに見えた。上を見ると真っ暗な空に、いくつかの星が光っている。

「サイアク」

 親の金で、バスに乗って通わせてもらっている塾。帰ってくると、毎晩用意されている夕食。自分は恵まれている。史や睦生に比べたら。だけどそう思えば思うほど、こんなふうに反抗している自分が情けなくなって、余計に親の顔が見られなくなる。

 建物の下で、バイクの音が聞こえた。公園に停めてあったバイクが、騒々しい音を立てて走り去って行く。さっきの男が帰っていったのだろう。

 小さく息を吐き、窓を閉める。隣の部屋にいる睦生も、あの音を聞いただろうか。


「のぞいてただろ? この前。睦生と一緒に」

 私の前でけらけらと歯を見せて笑うのは、史だ。最近、髪が金色に変わり、童顔を隠すように派手なメイクをするようになった。全然似合ってないと思うけど。

「別にのぞいてたわけじゃないよ」

 塾の帰り、通りかかった公園に、今夜史は一人でいた。そして私に声をかけてきたのだ。史としゃべるのは久しぶりで、なんだか知らないひとと話しているような妙な気分だった。

「ていうか、あんなところで男といちゃつくほうが悪いんじゃない?」

「ほら、やっぱ、のぞいてたんじゃん!」

 薄っぺらいタンクトップに、ショートパンツを穿いた史は、また声を立てて笑う。何がそんなにおかしいのか。腹が立つ。

 私に背を向けた史が、ジャングルジムに手をかけた。そのまま一気に高いところまでのぼり、一番上に腰かけて空を見上げる。

 真っ暗な夜空に、瞬く星。そういえば前にも、こんなことがあった。あの日は私と史と睦生の三人だった。

「水音も来れば?」

 ジャングルジムの上から史が呼ぶ。私は首を横に振る。ふっと笑った史は、つかまっていた手を離し、それを夜空に伸ばした。私はその姿を、あの日の姿と重ね合わせる。


 あれは確か六年生の頃、母と大喧嘩した私は、勢いで家を飛び出した。喧嘩の原因は何だったか、それはもう覚えていない。

 団地の階段を一気に駆け下りると、外は暗くなっていて、急に不安が押し寄せた。こんな夜に、一人で外に出たことなんてなかったから。後ろを振り向いてみたけれど、母が追いかけてくる気配はない。だけどこのまま家に帰るのも悔しくて、私は夜の闇の中に足を踏み出した。

 その時、通りかかった公園に、史と睦生がいたのだ。史は今夜と同じようにジャングルジムのてっぺんに座っていて、私を見つけると「水音!」って呼んで手を振った。そしてその隣には睦生が、まるでそこにいるのが当たり前のように座っていた。

 声をかけられたことにほっとして、私もジャングルジムの上までのぼった。なぜそこに二人がいたのかは、聞かなかった。だけどなんとなく、二人はいつもこうやってここにいたのではないかって、その時思った。

 そしてその夜、史は夜空を指さして、星の名前を教えてくれた。

「あの高い所で白く光ってるのが、こと座のベガ。七夕の織姫星だよ。その斜め下に見えるのは、わし座のアルタイル。彦星だね」

「史、よく知ってるね? どうして?」

 史は私の隣で、自慢げに笑う。

「お父さんが教えてくれたんだ」

 史の両親は離婚していて、史はもうずっと父親に会っていなかった。だけど父親に教えてもらった星の名前は、ちゃんと覚えていたのだ。

「もっと教えてよ」

「また今度ね」

 そう言ったあと、史は夜空に手を伸ばした。史の手は、宇宙の星さえも掴めそうな気がした。睦生は史の向こう側から、そんな史の横顔をじっと見ていた。私の胸が、なんだかちくんと痛んだ。

 だけど史の言った「今度」は来ないまま、私たちは中学生になってしまった。


「史っ」

 私は史の名前を呼んだ。

「降りておいでよ」

 金色の髪をした史は、夜空を見たまま、こっちを見ない。

「史!」

 どうしてだか、史がどこかに行ってしまうような気がした。今よりも、もっと遠いどこかに。

 坂道の下からバイクの音が聞こえた。ふっと口元をゆるませた史が、ジャングルジムから降りてくる。そして私の横を通り過ぎ、公園の前に停まったバイクへ駆け寄っていく。

「史! 待ってよ!」

 私は史の背中に叫んだ。

「どこに行くの! 戻って来な!」

 史はバイクの後ろに飛び乗ると、男の腰に手を回してつぶやいた。

「……そんなこと、思ってもないくせに」

 史が小さく笑ったのと同時に、バイクが動き出す。騒がしい音を立てたバイクは、史を連れて、あっという間に消え去った。

 

 公園に残された私は、肩にバッグをかけ直し、一人で歩き始めた。

 坂道をのぼりきると、薄暗い蛍光灯の光る団地の階段が見えた。そこで私は足を止める。階段の下に、睦生がぼんやりと座っていた。制服のまま。いつも学校へ持っていくスポーツバッグを横に置いて。

「なにやってんの? こんなところで」

「べつに」

 ふてくされた口調で睦生が言う。この場所からなら、あのバイクが走り去ったところも見えただろう。

「家に……帰ろう?」

 私が言う。だけど睦生は何も答えず、その場に座ったままだ。

「睦生。一緒に、帰ろうよ」

「うるせぇな」

 睦生の声が耳に聞こえる。

「ほっとけよ」

 私は持っていたバッグをぎゅっと握りしめると、睦生の横をすり抜けて、一気に五階まで階段を駆け上った。ドアを開けて家に飛び込んだ瞬間、母の声が聞こえた。

「水音? 帰ったの? 遅かったじゃない」

 私は黙ったまま、自分の部屋へ駆け込んだ。

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