クジラのかみさま

羽鳥(眞城白歌)

クジラのかみさま

 

 知ってるかい?


 雨のかみさまは白いクジラの姿をしていて、雲にまぎれて空をただよいながら、ときどき潮吹きの雨を降らせる。

 ざあざあの大雨の時は、見あげたって見えっこないけど。

 晴れてる空から突然に雨の粒が落ちてきたら、急いで見あげてごらん。


 きっと、雲のフリしたかみさまが素知らぬふりして通り過ぎるのを、見ることができるに違いないよ。






 ギラギラの太陽が、空の真ん中で輝いている。

 晴れ渡った空には雲ひとつなく、風は凪いでそよりとも吹いてくれない。


 空は毎日表情を変えず、太陽は烈火のごとく怒ったまま東から出ては空のてっぺんに居座り、しばらくすると飽きて西へと帰ってゆく、それの繰り返し。

 白骨色に枯れた砂を掘ったところで水など出るはずはなく、草の一本も育たぬ砂漠から食べられそうなモノを探しだすのは難しかった。


 食べ物を得ようと必死なのはイキモノみな同じだから、大口を開いて飛びかかってきた大蛇が逆に、今日明日の命をつなぐ食料になったり。

 木の根でも、殻の固い昆虫でも、サソリや毒蛇といった危険なイキモノでさえも、生きるためなら食べるしかない。


 だって自分が力尽きてしまったら、誰が。

 彼を、守ってくれるというのか。








 陽炎ゆらめく砂塵の大地に、人のカタチをした影がふたつ。

 ひとりは背が高く、ひとりは小柄だ。ふたりとも色のあせた外套がいとうをまとっているだけで、大きな荷物や連れの駄獣だじゅうは見当たらない。


 小柄な方が駆けだすように歩を早める。その先にあるのは砂に埋もれかけた廃墟だ。

 石造りの建物であっただろう残骸が立ち並び、常緑樹であっただろう立枯れが砂礫されきの上から突き出している。

 見渡す限り、ふたり以外に動く姿は見当たらない。


「真白さん、危険ですよ」


 背の高い方が足を速めつつ、そう声を発した。少年の域をわずかに過ぎた、若い男の声。


 先ゆく小柄な影が足を止めて振り返る。弾みでふわりと布がひるがえり、まっしろな髪が外套から零れた。

 痩せた手が、鬱陶しそうに被っていたフードをはね除ける。


「だってるうさま、――ぁ」


 その名の通り、白い髪と薄灰の瞳に長い獣の耳を持つ少女が、細い眉を寄せた。

 彼女の視線が自分を通りこし背後を見ていると気づいた、と同時。

 固い感触を背中に感じ、耳の後ろで低められた声を聞く。


「――アンタたち、何者だッ」


 振り返ろうかと迷い、彼は答えのかわりに被っていたフードを除ける。

 あらわになった髪は少女と同じく白髪で、物憂げな双眸は透きとおる碧。白磁の肌に傷も染みもまったくない、息を飲むほど綺麗な青年だ。


「……私たちは害を為すつもりはありませんから、まずはソレを収めてくれませんか」


 ほんのり微笑さえ浮かべて穏やかに言う彼に、背後からの殺気がわずかにゆるむ。

 その間に真白は駆け戻ってきて、ふたりのすぐ前で立ち止まった。


「い、きてたっ」


 息と一緒に吐きだされたのは、そんな第一声。

 背中の人物が漏らした驚き声が青年の耳に届く。その様子に笑みを深めつつ、彼は数歩を踏みだして真白に並ぶと、振り向いてその相手に向き合った。


「ええ、生きてましたね。良かった」


 黒光りする拳銃を手に、勢いを削がれて立ちつくしていたのは――まだ子供としか言いようのない、茶髪の少年だった。









 雨が、降ればいいと思っていた。

 遺されていた水はもうわずかしかなく、このまま日が過ぎれば飢えより先に渇きで命が干涸らびてしまうだろう。


 それに、水がなければ洗えない。

 薬の調合も、なにもかも、腐っていない綺麗な水が必要で、なのに太陽は怒りを収めてくれず、空は青く染まったまま変わるきざしもなかった。


 白いクジラのかみさまは、いつになったらここの上を通り過ぎてくれるんだろう。


 祈りを込めて見あげた視界に、しかし変化は訪れず、日にちがひと月を越えてからは、期待よりあきらめが胸をふさぐ。

 かみさまに声を届かせようにも方法を知らないし、差しだせるような何かも残ってはいなかった。


 蓄え置かれた水が尽きてしまったら、彼の命もたやすく尽きてしまうに違いなくって。

 願うしかできない自分と、気づいてくれないかみさまが、ただもどかしくて悔しくて腹立たしかった。








 流架るか真白ましろ、そう名乗ったふたりを、少年はやや離れた場所から胡乱うろんげに観察する。


「本当に、何も害は加えませんからこちらに来ませんか?」


 苦笑混じりに呼びかけた流架を、とび色の目がじっと見返した。

 髪も肌も日に焦げて、衣服はかぎ裂きだらけだけれど、その瞳は生気を失ってはいない。


「……だって、アンタたち人間じゃないだろ」


 鋭く投げられた言葉に反応して、真白の長い耳が猫のようにピンと張った。


「すごぉい、どうして解ったですか?」


「ンなの見ただけで解るよッ」

「……ぇー」


 不満そうな白い少女を威嚇しつつ、少年は再び流架に向き直る。


「何しに来たか知らねぇケド、水も食べ物も分けてなんかやれねーし、井戸も畑もみぃんなれきってるんだ。だからさっさと行けよ」

「はい、それは見て理解しました。私たちは食べ物も水も必要ない、……そういう存在ですから大丈夫です」


 流架の言葉に少年は怪訝けげんそうに眉をひそめる。

 それでも、非常識なほどの軽装で灼熱の砂漠を歩く姿を見てしまっただけに、信じ難いながら聞き流す気にもなれないようだった。


「じゃ、何しに来たんだよ」


 唸るように問われた途端、待ってましたとばかりに真白が破顔一笑。


「あなたを迎えに来たですよ」

「アンタさ、砂漠の炎熱で変な夢でも見たんじゃね?」

「私たちが夢なら、あなたは夢と会話してるんじゃないですかっ」


 ますます態度を硬化させる少年と、負けじと言い返す真白の傍らで、流架は困ったように曖昧に笑んだ。


「生き延びた人を捜しだし、もっと生き易い場所へお連れする……私たちは、そのために旅をしているんです」


 子供らしく微笑ましい憎まれ口を叩き合ってたふたりが、言い合いをやめて流架を見る。

 少年の目が戸惑いに変わり、口を開いて何かを言いかけた、その時。


「――!」


 凪いだ空気をかきなでる、生き物の気配。

 明らかに複数のソレが何かを見極めるより先に、少年は身をひるがえし廃墟の奥へと駆けだした。


るうさまっ、追っかけなきゃッ」


 真白が声をあげて外套を脱ぎ捨て、同じく廃墟の奥へと走りだす。

 当然流架もその後を追った。






 本当は知っている。


 世界はぜんぶを壊されて、白紙に返されたんだってこと。


 そんなことできるのはかみさま以外にいるはずないから、太陽が怒ったままなのも、クジラが空を泳がないのも、当たり前なのだ。


 祈りも恨みも届くはずない。

 だってかみさまは、この場所をてたのだから。


 けれど、自分は守られてしまった。


 固く自分を抱きしめた強い身体が自分の分までぜんぶ、わざわいを引きうけてくれたから。


 残されたのは、黒くて硬い拳銃と、長くて綺麗な鍵ひとつ。

 そして、重い扉の向こうに蓄え置かれていた水と薬と弾薬の詰まった重い箱。


「……兄ちゃんッ」


 姿勢の悪い痩せた獣が、ぎらりと光る目を向けた。その額めがけ、彼は迷わず拳銃を撃ち放つ。破裂音と薬莢やっきょうと煙のニオイ、獣の悲鳴と威嚇の声。

 痛みを伴う反動も、殺す嫌悪感も、命を駆け引きする恐怖感も、どうってことない。


 ――兄を奪われる怖さに比べれば。


「てめぇらッ、そこから離れろッ!」


 続けざまに二発、三発。弾切れの不安が脳裏をよぎるが、獣の数は多く詰め替える余裕がない。

 頭を撃ち抜かれ絶命した獣に他の獣が群がるのを見てしまい、嫌悪がこうじて吐き気が突きあげた。


 殺さなければ食われてしまう。

 そんな獣じみた生き方と自分が同化しそうに思えてたまらず、振り払おうと立て続けに引き金を引く。


 数匹がもんどり打って悲鳴をあげたが、弾が切れても獣の数は多いままだ。

 餌にあぶれた数匹が、舌と牙をきだしよだれを垂らしながら近づいてくる。悔しさに歯がみしつつ爪を立てて銃を握りしめた、その時に。


「クゥオルぅっ!」


 叫ぶような少女の声が鼓膜を射抜き、獣たちが怯えたように動きを止めた。

 振り返り見た視界にびっしりと牙の並んだ巨獣の大口を見て、彼は驚きのあまり目を剥く。

 獣の群れが怯えた声で逃げまどい、あっという間に散り散りになった。茫然と獣を追い散らした何かを見れば、それは黒い翼と銀の体毛を持つ、ドラゴンに似た生き物だった。


「もうっ、ひとりで無茶しないでくださいッ」

「まったくです。猛獣の群れ相手に拳銃ひとつきりで立ち向かうなんて」


 ふたり共に詰め寄られ、さすがにばつが悪くなって目をそらし顔をうつむける。

 が、真白は遠慮なしに彼の顔を覗きこみ、にこりと笑った。


「ありがとう、は?」

「…………ぅ」

「聞こえません」

「うっせぇ」

「あー、可愛くなぁいっ」


 放っておくとすぐにケンカを始めたがるふたりに苦笑しつつ、流架は姿勢を屈めて少年に視線を合わせる。


「生き残っていたのは、〝貴方ひとりではない〟んですね?」


 真白に食ってかかるのをやめ、彼は睨むような目を流架に向けて、小さくうなずく。

 流架はそれを確認し、ほっとしたように表情をゆるめた。


「案内していただけますか? ……それとできればその前に、貴方の名前を教えて欲しいのですが」


 少年はしばらく黙っていたが、やがてかすかに首肯しゅこうした。

 そして小声で、ライヤ、と名乗ったのだった。






 四角く抜かれた石の部屋に彼は横たえられていた。

 敷かれた布団と被せられた毛布は真新しく、この部屋までは大変災が届かなかったことを暗示している。


「緊急避難用のシェルター、みたいなモノでしょうか」

「ぅん、つまり聖域てことですよね」


 流架と真白、言語は違えどイメージしていることは一緒だ。

 ここが何を想定して造られたとしても、この場所があったお陰で、ライヤと彼の兄は生き延びてこれたのだろう。


「兄ちゃん、この人たちは大丈夫だから」


 顔中、特に目の周囲に厚く巻かれた包帯からして、彼は視力を失っているのだろう。

 ライヤの話では、彼は身体中の至るところを損傷しており、両腕と片足がほぼ機能しない状態にあるということだった。


 ――でも、生きてるんだ。


 泣きそうに流架を見上げて、ライヤはそう訴えた。

 自分を守って兄は身体の大半を失ったのだから、今度は自分が命懸けで兄を守るのだ、と。


 横たわる彼のかたわらに膝をつき、その上に流架は両手をかざす。

 これほど状態が悪く、命が尽きかけている相手ははじめてだったが、確信はあった。


 生きることを望む人――、絶望しか遺されなかった世界をまだあきらめていない人と、希望のカケラを分け合うこと。


 それが、自分の存在意義だと信じるのであれば。



 





 烈火の太陽が、天頂に居座っている。


 あれから三日三晩、流架は兄の傍に座り込んだままで、兄の世話という日課を取り上げられたライヤは、廃墟がつくる日陰で時間を潰していた。

 真白とは顔を合わせてもケンカになるので、ひとりで食べられそうな何かを探している方が気がまぎれる。


 ふたりは、自分たちを迎えにきたと言ったけれど。


 ……何者、なのだろう。


 ふと立ち止まって空を見上げたライヤは、視界に映ったモノに度肝を抜かれて瞠目どうもくした。


「か、みさま?」


 目に痛いほど晴れ渡った蒼天に、ぽっかり浮かんだクジラ雲。薄ねずみ色の巨大なそれは、ゆっくりと流れるように空を泳いでいた。

 それが太陽の真下に差しかかると苛烈な陽光が遮られ、暗い影が砂礫されきを染めてゆく。

 キラキラと空から降りくだる光の破片が頬をかすり、思わず自分の顔をなでた。濡れた感触と、さあぁと耳をかすめる静寂の音。


「あっ、到着したっ」


 入り口から飛びだしてきた真白が空に声をあげ、ライヤはそれをぽかんと見返す。


「……何が?」

極光きょっこう、て名前です。空飛ぶクジラなの……っあ、るうさまアレですよー!」

「え、って、えぇ?」


 はしゃぐ真白と、うろたえるライヤ。

 そんなことをしているうちに入り口から、流架と、彼に連れられてもうひとりが出てきた。

 その姿を見て、ライヤがますます狼狽ろうばいする。


「え、ちょ、……兄ちゃん!」

「ライヤ!」


 満身創痍どころか健康そのものな兄に強く抱きしめられ、ライヤは混乱しつつも夢中で彼を抱き返した。









「……ホントに、コイツに乗るのかよッ」

「こらライヤ、態度が悪いぞ」


 不満げな弟を兄が小突く。コイツと呼ばれた黒翼の銀竜は、呑気にあくびをしながら出立の合図を待っている。


 頭上に浮かんだ大きなクジラが、濃い影を地上に落としていた。


「大丈夫、クゥオルは人食い竜じゃないですもん。極光もちゃんと日除けになってくれるし」

「幻獣の翼は強いから、きっとあっという間に到着しますよ」

「ぅん、だから落っこちないよう暴れないで乗ってください」


 真白と流架に交互に諭され、ライヤは口を尖らせたまま渋々うなずいた。その隣で兄が、深く頭をさげる。


「本当に、有難う御座います」


 そして弟と共に、銀竜の背に上る。

 真白が軽く首を叩くと竜は黒翼を広げ、羽ばたかせ、ゆっくりと上昇を始めた。かき混ぜられ巻きたつ風に、真白と流架の髪や衣服があおられて揺れる。


「そうだッ、くの忘れたんだけど!」


 思いだしたようにライヤが銀竜の上から身を乗りだし、叫んだ。


「アンタたちって、かみさまなのか?」


 手を振っていた真白が、傍らの流架を見る。彼も真白を見返して、ふたり同時にライヤに向かって笑いかけた。



「ううん、違うです。私はただの〝魔女〟で、」

「私は、〝神子〟ですよ」


 遠のく銀竜の背から、少年は何かを叫び返したようだった。

 遠くてよくは聴きとれなかったそれを感謝の言葉と解釈し、真白は満面の笑顔で両手を大きく振り返す。



 空を泳ぐ白いクジラが光のような霧の破片を降らせるさまは、涸れた砂礫の大地には似つかわしくなく、いっそ幻夢のようで――。


 その姿がかなたに溶けて見えなくなるまで、ふたりは空を見あげつづけていた。









  fin.

 


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クジラのかみさま 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

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