第11話

 一滴、首筋に当たった。見上げると二つ、三つ頬を打ち、驟雨となった。


 露葉は慌てて竹の葉の重なりが濃い場所へ避難する。


 細かな雨粒が陽光を弾き、辺りは白っぽく霞む。少し待てばやみそうな勢いだったため、しばらく動かずにいることにした。


 ここは都から南西に七里離れた、陽家が守りを務める霊山の一つ。露葉の父方の祖父が隠居している別邸がある山だ。


 南西、そしてその反対側の北東は、気が淀む場所と古来から言われている。すなわち禍つ者が生まれやすい場所とされているため、ここに退魔の陽家を配し、気の淀みを解消しているのである。同じように北東には陰家の別邸がある。


 半妖となった露葉を巫女の傍には置いておけない、子供らのいる修行場に戻すわけにもいかない、そういうわけで、露葉は以前よりさらに都から離れたこの別邸へ身を移されることとなった。


 蘇芳も誰も本人に伝えていないが、いずれ露葉はここに連れて来られるはずだったのだ。

 別邸の者は特段、妖退治を行わない。気の淀みを防ぐことが目的であるため、荒山とならぬよう木々を整えたり、山内の各所にある祭壇を毎日掃除したりなどが主な仕事となっている。


 ゆえに、実戦のないここには妖退治ができぬ陽家血筋の者が勤めており、また、前線を引退した年寄りたちの隠居所としても使われていた。


 半妖となろうがなるまいが、露葉の受け入れ先は変わっていない。ただ少し、連れて来られる時期が早まっただけだ。


 今日で移って七日が経つ。

 修行場にあった露葉のわずかな私物は本家の者が取りに行き、別邸に届けた。よって露葉は千影にも閃にも、勝手に都へ行ったことを謝れていない。

 正月までは、おそらくその機会もない。


(もしかしたら二度とないかもしれないけど)


 竹の根元に腰下ろす。

 密な葉で雨雫が弾かれても、いくらかの飛沫は当たる。露葉の直垂は麻で織られているため、水が容易に沁み入り、体を冷やした。


 ここでの露葉の仕事はまだない。祖父であるずいに、落ち着くまでは何もしなくて良いと言われた。


 瑞は先代の柱男で、この別邸の様々なことを取り決めている。祖父が何もするなと言うなら、露葉は一切をしてはならない。


 出入りして良いのは自室と祖父の部屋、外は屋敷の裏の竹林まで。行動範囲は厳密に定められていた。



 不意に、露葉は雨音以外の音を聞いた気がして、辺りを見回した。

 間もなく一方向に決め窺っていれば、笠をかぶった男がやって来る。


 腰に太刀を提げ、左手にもう一つ笠を持っている。しばらく視界の中をうろついていたが、やがて露葉を見つけた。寄って来ては、さっそくその頭へ笠をかぶせる。


「探しましたよ。黙って出て行かれないでください」

「…ごめんなさい」


 露葉は謝りつつも、腰を上げない。

 男の名は篠という。二十そこそこの若者で、本来は瑞の側付きだ。この別邸にいる者の中では腕が立つほうらしく、露葉の目付け役にされている。

 許可された行動範囲の中でも、この男に何も言わずに一人で動いてはいけないことになっていた。


 だが優しい千影と違い、滅多に笑わない篠はいつも不機嫌そうで、露葉はこの男のことがあまり好きではなく、また好かれているとも思っていない。


「何をされていたのですか」


 雨音が邪魔するため、篠は声を張る。それが露葉には怒っているように聞こえる。


「竹の子、探してたの。じじさまに食べさせてあげたくて」


 たまたま瑞の好物が竹の子だということを耳にしたのである。

 身を屈め、聞き取った篠は呆れていた。


「こんな時期にあるわけがないでしょう」

「ちょっともないの?」

「採れるのは春先だけです。風邪をひく前に帰りますよ」


 仕方なく、露葉は篠の後に付いて帰った。

 屋敷は山の中腹より下の平らな場所にあり、都の貴族屋敷と同じように門と生垣で囲んである。露葉らは裏門から入り、縁側で濡れた髪や足を拭った。


 柱から湿気った木の匂いがする。

 また、中から嗅ぎなれない香りも漂ってきた。


「変な匂いがする」

「は?」


 訊き返す篠の声がどうしても怒って聞こえ、露葉は委縮し「なんでもない」と黙り込む。


 沓脱石の上に草鞋を置き、ふと右手を見やれば、渡り廊下をやって来る瑞の姿が見えた。


 今日は薄柿色の狩衣を着ている。白髪がもう半分より後ろにしか残っていない、齢六十を超えた老爺だ。この国では長生きに入るほうである。

 蘇芳の背の高いのはこの老人から受け継いだもののようで、すっかり肉が落ちてしまった今でも上背だけは若者の篠にも勝る。


「やあ、見つかったか」


 瑞は樹皮のような顔で柔らかく笑む。ここに来るまで、露葉は幼少時に会ったきりの祖父がどんな人物であったか、よく覚えていなかったが、人を安心させる温かい言動が、やはり父の父であるのだと妙に納得していた。


「今、客が来ておるからな。お前はしばらくここにいなさい」

「なんのお客?」

「都へ帰る途中で、牛車が雨漏りしたのだそうだ」


 つまり客は雨宿りに寄った貴族であるらしい。

 少し下ったところに山道が通っており、その途上で屋敷を見つけたのだ。

 この辺りには他に家屋がなく、外部の人間が別邸にやって来るのは非常に珍しいことだった。


「篠、客人方の世話をしておくれ。露葉は私が見ているから」

「はい」


 影のように、篠がいなくなると緊張がわずかに和らぐ。

 縁側に瑞と並んで座り、露葉は拭いたばかりの素足を、屋根の縁から落ちてくる雨垂れの下に伸ばす。重い雫が親指の根元に当たるのが気持ち良かった。


「少しは慣れたかい?」


 あぐらをかき、瑞は雨音の中でも穏やかに話しかける。

 露葉は足先に目を固定したまま、是とも否とも言わなかった。


「もう本家には行けないの?」


 駄々をこねているのではない。純粋に知りたかったのである。


「もうお母さんに会えないの?」


 妖と同化し《穢れた》露葉はどこまで許され、どこから許されないのか。


 もしかすると正月でもいつでも、本家に足を踏み入れてはならないのかもしれない。他の誰にも触れてはいけないのかもしれない。


 先の晩、塗籠ぬりごめに閉じ込められたように、露葉はこの屋敷に封じられている。


「そうさなあ」


 瑞の反応は曖昧だった。下手な期待を持たせることも、無慈悲な未来を断言してしまうことも躊躇われたのである。老爺は慰めに孫の頭をなでてやろうとしたが、それも寸前でやめた。


 その様子を視界の隅に捉えつつ、露葉はすんすん鼻を鳴らした。


「やっぱり変な匂いがする」


 瑞の袖をつまみ、鼻に押し当てる。


「これ、なんの匂い?」

「うん?」


 瑞も自分で同じところを嗅いでみるが、わからぬらしい。怪訝そうにしている。


「嗅いだことない匂いがする」

「ふうむ? あぁ、わかったぞ、香の匂いだろう」


 瑞は大げさな声を出した。


「雨宿りの客はどこぞの姫のようだからなあ。しかし、少し牛車に近づいただけだというに、露葉は随分鼻が良いのだなあ」


 爺はすっかり謎が解けたつもりで感心しているが、当の露葉は納得がいかない。


「でも、あんまりいい匂いじゃないよ、これ。魚の内臓みたいな、生臭い匂いがする。ほんとにお香?」


 おやと瑞は思った。


 子供の鼻が高貴な香りを臭いと感じたとしても、生臭いという形容が出るのはいささか奇妙である。

 先代柱男は笑みを引っ込め、少々まじめな顔付きとなった。


「それはどこから匂うのだ、露葉。私からか?」

「ちがう。じじさまは匂いが移ってるだけで、もとは、たぶんあっち」


 露葉が指すのは渡り廊下の向こうである。意識して方向を探ろうとすれば、匂いが線の形となり、目に見えるようだった。


 露葉はより太い線を見極め、辿ってゆく。後に瑞も続いた。


 壁のない屋敷の中を突っ切り、行った先には篠がいた。

 他にもう一人いた屋敷の女と共に、突然几帳をめくって現れた露葉に顔を強張らせ、後から入って来た瑞に驚いている。


 そこは雨宿りの客を通した部屋だった。瑞の言う通り、客は貴族の姫らしき者と、その従者が男女合わせて五人。

 牛車に乗ってきたというわりに姫は壺装束だ。


 貴族の娘は滅多に外を歩かないが、例えば牛車が登れぬ社の階段を上がる時などには、歩きやすよう裾を膝の辺りまで端折ったうちきを着る。


 そうして足もとに小袖の色を見せているのが壺装束だ。いわゆる旅装束である。都の姫が、何事かの願掛けにどこぞの社へ参内してきたのかもしれない。


 まだ部屋に通されたばかりであったようで、姫は笠を脱いでいるが被衣かづきまでは取っておらず、足は縁側の沓脱石の上にある。


 従者たちも露葉と瑞に一旦視線をやったが、姫だけはちらとも見ない。縁側に腰かけ、草履を脱がせてもらうのを待っている。


 被衣で顔は見えない。

 膝の上に、なぜか大きな壺を抱えていた。

 そこに匂いの線が繋がっている。


「それ、なに?」


 露葉の声に緊張が滲んだ。

 首筋の肌が粟立つような、嫌な予感がしている。ここに来て、より濃くなった腐臭に戦慄した。


 すると姫が立ち上がる。


 露葉らのほうを向いた時、その白粉を塗った顔には表情がなかった。

 こちらを見ているはずの目に何も映っていない。置物のように生気がない。


 何を言うでもなく、壺から手を放す。


 がちゃん。


 あえなく割れた中から、青黒い蛇が這い出た。


 太い綱のような蛇である。とぐろが解けると、二尺ほどもありそうだった。

 真っ赤な口から気を奪う異臭が発せられ、逃げ遅れた姫の従者たちが、次々と倒れた。


 その隙間を縫って蛇が床を滑る。


 屋敷の奥へ向かっている。

 ただの蛇ではない。


 瞬時に悟った陽家の者の中で、最も速く、白刃を抜いたのは露葉であった。


 ほとんど音もなく。


 床を蹴ると同時に、短刀が蛇の三角頭に突き立てられた。


 仕切りの几帳もくぐらぬところで、蛇はのたうつ。しゅわしゅわと気が遠のきそうなおぞましい声で啼き、強い異臭を発した。


 露葉は傍に膝で立ち、柄頭に手のひらを当てさらに刃を押し込んだ。

 蛇の頭から、黒い煙が噴出する。

 辺りが見えなくなるほどに広がり、やがて跡形もなく消えた。


 途端、棒立ちであった姫が崩れ落ちる。


 瑞が駆け寄って確かめると、気絶していた。先程まとっていた妙な気配がなくなり、部屋に充満していた匂いも失せている。


(――あれ?)


 すべて終わってから、露葉は我に返った。


 目の前にあるのは床に刺さった短刀。確かに分厚い何かを刺した感覚が手に残る。

 しかし今は何もない。消えている。

 露葉が消した。


(わたし、妖を退治した…?)


「露葉」


 祖父に呼ばれ、振り返ればぎょっとされる。


 露葉の目はまた白鼠色に染まっていたのである。


 篠が己の短刀に手をかける。しかし、瑞はその肩を押しのけ、露葉の前にしゃがみ込んだ。


「ゆっくり、手を開きなさい」


 床に突き立ったままの短刀を指し示し、穏やかに言った。露葉はそっと両手を柄から離す。


「目を閉じて、深く息を吸いなさい。鼻から吸って、口から吐くんだよ」


 言われたとおりに露葉は三度繰り返し、目を開けると、瞳に黒が戻っている。場に安堵が広がった。


「お前、妖の力を使ったね」

「え…?」

「退治には陽の力か。まったく、器用なことだ。さあて、どうしたものかなあ」


 ぶつぶつ言って、瑞は苦笑する。


 断片的ながら、露葉には祖父の言いたいことが、なんとなくわかった。


 近頃、匂いや気配に敏感になっている。体が軽く、思った場所へ、思った以上に速く到達できてしまう。妖化したギンが黒羽の人形に咬みついた時とまるで同じ感覚だ。


 妖の力、すなわちギンの力を、露葉は自然に扱えている。そして、それに引きずられるかのように、陽の力も増している。

 それは露葉がもともと内に持ちつつ、うまく扱えていなかったものだ。


 結果として、露葉は瑞たちでも気づかなかった妖の気配を探り当て、瞬く間に滅し、憑りつかれていた姫を助けた。


 見事に退治人の務めを果たしてしまった。


「…」


 ずっと、焦がれていた力だ。幾度も思い描いた理想である。

 だがそれを叶えた姿は正しい形ではない。

 無意識に発現された力が、本当に制御できていたものかも怪しい。以前は妖を滅すことに躊躇いが生じていたのに、その余地もなかった。ほとんど反射に近かった。


 そのことに露葉自身が驚愕している。


 俄かの変化に恐怖する一方、後ろ暗い喜悦が満ちてゆく。

 両の黒目から零れる涙には様々な感情が溶けていた。


「露葉、先の話の続きだ」


 瑞は声を殺して泣く孫に、手拭いを渡した。


「もしお前が覚悟できるのなら、その力で本家に戻ってみるかい?」


「え…?」


 露葉は瑞を凝視する。

 唐突過ぎる祖父の意図を掴みかねていた。


「どれ、久しぶりに働こうかね」


 散らばっている壺の破片を一つ拾い、老爺は軽々と腰を上げた。

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あめつちの子 キリキ @aegirine

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