第10話

 蘇芳が文で約束を取り付け、その日の昼下がりに、露葉は陰家へ連れて来てもらえた。


 短刀などの武器は当然ながら没収されており、横にいる父の腰には小太刀が吊ってある。それが抜かれる時、露葉はギンと共にこの世を去るのだ。


 陰家の門前では琥珀が待っており、蘇芳に頭を下げ無言で母屋へ案内した。


 小さな客間で、黒羽はすでに座して待っていた。

 右頬には生々しい傷がある。頬骨から顎まで長い線が走り、縫い目が点々と見えている。


 黒羽は気味の悪いほど白い肌をしているため、赤黒い痕がなお痛ましく、その様をわざわざ見せつけているようだ。

 蘇芳と並んで正面に座った露葉に、黒羽はもとより細い目をさらに細めた。


「さて、どう殺そうか?」


 露葉の心は物騒にざわめいた。ギンであれば全身の毛を逆立てている。


 昨夜ギンを受け入れ、一度眠って起きるともう、露葉の中でギンとの境はなく、今や自分の記憶のようにギンの持っていた記憶を思い出せる。

 同時にこの男への激しい憎悪も完全に己のものとなった。


 すると露葉の目が白く染まる。


 その変化に黒羽は瞬き、蘇芳は片膝を立てた。


(ほんとに…殺してやりたいね、ギン)

 

 自分の爪と歯でもそれが叶うだろうかと思う。


 首だけでギンが露葉のところまで飛べたなら、露葉も同じことができるかもしれない。蘇芳に斬られた瞬間に、首だけ飛ばして黒羽を咬み殺す。

 それが叶えば、ギンも露葉もほんのわずかに報われる。


 だが、露葉は目を閉じた。

 心の中で暴れるものを、じっくり時をかけて見つめ、深い呼吸を繰り返す。


 やがて再び目を開くと、黒い色が戻っていた。


 露葉は両手を床に付け、額をそこへ近づける。


「ごめんなさい」


 誰もがその言葉に唖然とした。


「…何に謝る?」


 はじめて困惑を滲ませ、黒羽が問う。


「その傷をつけたこと。どんな理由があっても、それは悪いことだから」


 人を傷つけるのは悪いこと。露葉はそう教わってきた。

 悪いことをしたなら謝る。それが露葉の思う正しさだ。


「でもあなたのことは、ゆるさない」


 顔を上げ、黒目のままで相手を見据える。


「ギンと一緒に永遠に恨み続ける。だからその傷はずっと消えない。あなたが自分のしたことを忘れないように、わたしたちが絶対に消さない」


 言葉は呪詛であり、決意であった。

 蘇芳は小太刀に手をかけたまま、どう動くべきかを悩んでいる。


 対して黒羽は、左の口の端を上げた。


「私を殺さぬのか」

「殺さない。ずっと恨む。死んでもずっと」


 どんなに憎らしく、恨めしく、何万回と惨く殺してやりたくとも、人である露葉は人を殺せない。


 だが殺意は絶やさない。ギンの魂と共に、抱え、生きていくことに決めた。


「…可哀想に」


 呟き、黒羽は蘇芳のほうへ視線を投げる。


「ご息女は禍つ気を上手に呑み込んだようだ。太刀は収めて良いのではないかな」


 蘇芳も今は露葉でなく、黒羽を見据えて動かない。その様子も黒羽には愉しいようだった。


「もし陽家で抱えきれぬのなら、こちらに寄越してくれて良い」


 蘇芳も露葉も、脈絡のない申し出に目を瞠った。


「なんだと?」

「この子の気は幾分我らに近いようだ。まあ同じとは言えんが、おそらく陽家よりは居心地が良いのではないかな」

「黙れっ」


 蘇芳は柄に添えていた手を床に叩き付けた。

 急に激した父に露葉だけが驚いている。


「――柱男も人の父か。いや結構。余計な申し出であった」


 にんまりと黒羽は言って、身を引いた。

 しばらく蘇芳はそれを睨んでいたが、隣からの不安げな視線に気づき、座を立った。


「帰るぞ」


 露葉も慌てて立ち上がる。先に部屋から出されると、几帳の外には琥珀が控えており、また無言で先導に立つ。


 蘇芳は几帳をくぐる際に、一度だけ振り返った。


「なぜ妖を仕留めなかった」


 露葉の視界にはもう黒羽が映っていない。ただ様子の変わらぬ声だけが届く。


「外法だよ。付き纏う妖の霊力はいくらかこの身に移る。少し馳走になってからとどめを刺してやろうと思うていたのだが、まさかこんなことになるとはなあ。まこと、まこと、世はおもしろい」


 聞いた蘇芳は几帳を殴るように閉じた。


 背を押され、外まで急かされながら露葉は身を捩り、父を見上げる。


「わたし、陽家にいてもいいの?」

「当たり前だ。お前は陽家の子なのだから」


 蘇芳は断言する。


「…わたしは殺されないの?」


 その問い対しては一拍の間があった。


「――お前がお前である限りは。ここへはもう二度と連れて来ない」


 父は後悔しているようだった。



 外に出ると、白い日を夏の雲が覆っていた。

 あめつちには本日も、穏やかな光と闇がたゆたっている。

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