第9話
異常なことが起きている。
今日も変わらぬ日差しのもとにあって、蘇芳は都に漂う気のかすかな変化を感じ取っていた。
世は太平と謳われるが、それを実現する陰陽の神の気は振れやすい天秤の上にあり、その調和は常に崩れ、常に二人の巫女の力をもって調えられるを繰り返している。
果てしのない作業を一つ誤れば、再び天地が乱れ、世が終わる。実のところ五百年前から変わらず危機は続いているのだ。
どんな些細な存在でも調和を乱すものとなりうる。ゆえに陰陽の家は神気を乱す《禍つ者》、すなわち妖を熱心に退治して回っているというのに、乱の危機を孕むものが昨夜、陽家の懐で生まれてしまった。
今、蘇芳は早足に末の娘のもとへ向かっている。
露葉については以前から小さな悩みの種ではあった。
彼の娘には霊力がないわけではない。ただ陽の霊気は末の子ほど弱くなる傾向があり、上の兄姉と比べてしまえば、どうしても劣るのだ。
しかも気を操る感覚がどうにも鈍く、いつまで経っても修行の成果が挙がらぬため、巫女候補として数えることはできぬという結論に先日至ったわけである。
どころか、退治人とすることも難しい有様だった。
多少の落胆はあれど、父としての蘇芳はそれならそれで良いと思っていた。長男の真白も長女の紅葉も、優秀な子であるがゆえに危険に立ち向かわせねばならない。
せめて末の子だけでも安全なところに置いておけるのであれば、ありがたい話だった。
蘇芳は持てるすべてを陽家に捧げた男だが、己の妻子に愛着がないわけではない。できれば我が子には平穏に暮らしてもらいたい。そんなありふれた願いを当たり前に持っていた。
だが、そうして安心して放っておいた娘は、妖に魅入られてしまった。
陽家の者が妖に憑りつかれただけでも異常なことである。なぜなら陽家は気の性質上、妖を剋す力が陰家のそれと比べても強く、妖にとっては触れることさえ困難なのだ。よって妖は陽の気を避けたがる。
それでも力の弱い露葉だからこそ、侵入を許してしまうことがあったのだろう。あらゆるところが未熟な子供だ、陽気を持てど付け入る隙があったのだろう。
だが露葉が黒羽を斬りつけた時、蘇芳は根本から認識を違えている気がしてならなかった。
その時にはまだ予感に過ぎなかったが、昨夜、そして今朝になり、それは確信に近づいてゆく。
母屋東方の部屋の、遣戸に貼られた札を剥がし慎重に中を覗くと、四方を厚い土塀で囲んだ暗い
雑炊に味噌を溶いた
その瞳は常の通りに黒い。
昨夜は両眼とも白鼠色だったが、朝になると元に戻っていた。
食事を運んだ光芒からその報告を聞き、蘇芳も慌てて様子を見に来たのである。
「おはようございます」
食べかけの椀を膳に置き、手を付いて礼儀正しく露葉は父に挨拶する。
どうにも暢気な、子狸のような表情のつくりは蘇芳の知っている娘に違いない。黒羽を斬りつけた時の、見たこともない形相ではなかった。
心の片隅に警戒を残しながら、蘇芳は遣戸を開けたまま露葉の前に腰を下ろした。
「具合が悪いところはないか?」
「うん」
露葉はまた椀を持ち、残りの味噌水を啜る。
とりあえず蘇芳は娘が食べ終えるのを待った。
昨夜、露葉は自ら結界の中に山犬の妖を呼び込み、その身の内に収めてしまった。
陰家の柱男ともあろう者が、妖一匹を仕留め損ねたことは俄かに信じ難いが、実際そうだったのだから仕方がない。
ともかくも蘇芳らは憑き物を落とそうと様々試みたのだが、どれも効果はなく、ひとまず牢から場所を移し、扉に札を貼って一晩厳重に露葉を閉じ込めておいた。
その間、露葉が暴れたり、奇行に走ったりということはなく、実に落ち着いていた。妖に憑依されていれば祓われるのを恐れて抵抗するものだが、そういう素振りはまるで見られなかった。
こうして改めて向き合っていても変わったところは見当たらない。
大人しい末娘。蘇芳の思う露葉そのままである。
妖は未熟な山犬の子であり、しかも妖に成ったばかりで知恵も浅い。であれば、巧妙に露葉を演じているということもないだろう。
妖を身に宿す一方で、意識を乗っ取られてはいない。どんな術でも妖を引き剥がせない。それらのことから、ある仮説が導き出せる。
すなわち、露葉は妖と同化したのではなかろうか。相容れぬはずの陽の気と禍つ気が混ざり、一つとなった。
前代未聞で、蘇芳自身も荒唐無稽な話に思えてならなかったが、もしそうだとすれば彼の娘は半人半妖になったということだ。
なぜそんなことが起き得たのかはわからない。神気の乱れが幼い娘に影響を及ぼしたのか、他になんらかの要因があったのか。
いずれにせよ、今後どうしたものか蘇芳は悩んでいる。
半分人であることを救いと見て生かすか、半分妖であることを危惧し殺すか。陽家柱男として、父として、選べる道は二つに一つ。
「お父さん」
食べ終えると、露葉は膳を脇へのけて居ずまいを正した。
何事かと蘇芳のほうはやや緊張を帯びる。
「どうした?」
「陰家の柱男のところに行かせてください」
「なぜ」
蘇芳の眼差しが厳しくなるが、露葉は怯まず父を見つめていた。
「言わなきゃいけないことがあるから。できたら、お父さんも一緒に来てほしい。無理だったら他に誰か強い人が付いて来てほしいです」
膝の上の小さな手は、固く握り締められている。
即座にだめだと言おうとした蘇芳は、言葉を飲み込んだ。
(…あるいは、良いことかもしれん)
現在冷静な露葉が、禍つ気に呑まれるとすれば黒羽の前が最もあり得るだろう。 彼を斬った時の露葉の動きは尋常でなかった。
いくら注意を払っていなかったとはいえ、柱男二人に手練れの側近まで誰も反応できなかったのだ。思えば、あの時からすでに妖との同化が始まっていたのだろう。
今後も恨みに狂うようなら、露葉は人でなく妖だ。殺さねばならない。露葉自身もそれがわかっている口ぶりだ。
(ならば、委ねてみようか)
もとを正せば、妖を仕留め損ねた黒羽の非が多分にある。あの生白い童顔男にも責任の一端を担ってもらわねば気が済まない。
無論、最後に責任を果たすのは己のつもりでいるが。
蘇芳は覚悟を決めた。
「わかった。俺が一緒に行こう」
露葉は嬉しそうな、そして悲しそうな顔で、頭を垂れた。
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