第8話

 夢も見ずに、目覚めると白い朝だった。


 蘇芳の姿は部屋にない。露葉は手甲や短刀など、寝る前に外した装備を付け直し、几帳をめくった。


「起きなさったか」


 庭先に光芒がいた。なぜか太刀を佩いており、露葉の顔を見るや安堵したように目元を緩めた。


「ご気分はいかがかね?」

「…ギンは?」


 日差しに目をすがめながら、露葉は問い返す。体がだるく、気分は最悪だ。


「今、陰家の柱男が来られておる」


 光芒もまた問いには答えず、それだけ告げる。

 露葉はぱっと目を見開いた。


「お前さまに礼を言いに来られたそうだ。顔を洗って参りましょうぞ」

 

 光芒に連れられて行く間、嫌な予感に胸が騒いだ。


 庭から直接客間へ回ると、几帳が巻き上げられており、蘇芳と向き合って座る黒羽の姿があった。

 その後ろには琥珀も控えている。三者はそろって露葉を見た。


「憑き物は落ちたかな?」


 黒羽の言葉の意味が、露葉はわからなかった。

 蘇芳や光芒は複雑な顔をしている。ただ黒羽だけが愉快そうである。


「お前は、あの山犬に憑かれていたんだよ」


 やがて蘇芳が重々しく口を開いた。

 父が言うには、露葉がギンに出会った時、ギンは《生成り》、つまりは生きながらにして妖に変じ始めていたのだろうと。

 そして禍つ力を使い、露葉を操り黒羽の居所を探らせた。


「はじめに、お前が陰家を見つけられなかったのはそのためだよ」


 妖に憑かれていたせいで、術が効いたのだと黒羽が言い添える。彼らはそれによって露葉の異常を悟ったのだ。


 蘇芳へ宛てた文に、それらのことがすべて書かれていた。よって蘇芳は一晩中、娘が何もしでかさぬよう傍で見張っていたのだ。


 黒羽が、屋敷に襲撃してきた山犬を屠るまで。


「教えてくれてありがとう」


 にこやかに黒羽は言った。


「あれに不意に襲われていれば、いささか危うかった。助かったよ」


 露葉は微動だにしない。瞬きもせず、呼吸さえも忘れ、そこに立つ。

 かわりに蘇芳が頭を下げた。


「申し訳ない。この子はまだ己の力をうまく扱えんのだ。それで妖に」

「いや、元凶はこちらにある。むしろ憑かれている状態で意思を完全に喰われておらなんだのは、さすが陽家の――」


 刹那。


 銀色が閃いた。


 血飛沫が白刃の軌跡の続きを天井に描く。露葉は右頬が大きく裂けた黒羽を目がけ、上へ振り抜いた短刀を、返す刀で斬り下ろした。


「やめろっ!」


 琥珀が間に滑り込み、短刀を持つほうの腕を受け止めた。もう片方は蘇芳が掴み、露葉を引き倒す。


「露葉やめろっ、露葉っ、露葉っ!」


 暴れる子の頭を押さえつけ、蘇芳は繰り返し名を叫んだ。その表情には、突如牙を剥いた娘への困惑が浮かんでいる。


 露葉は床に顔を押し当てられながら、それでも濡れた刃を握り締め、黒羽を涙目で睨みつけた。


「死ねっ!」


 今は夢の中ではない。紛れもなく、露葉自身の殺意である。

 黒羽はギンを弔うと言った。露葉の希望を汲んでくれたのだと思った。

 しかし、違ったのだ。昨夜の夢は夢ではなかった。


「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき! お前がギンのお母さんを殺したからギンは妖になったのにっ! なんでっ、ギンを殺した!? なんで謝らなかったの!?」


 弔うとはそういうことだ。少なくとも露葉はそう思っていた。


 この世で最も赦し難いのは、赦してもらおうとすらしないことである。

 それは己の非を認めていないということ、あるいは、奪った命を軽んじているということに他ならない。


「謝る…?」


 黒羽は、聞いたこともない言葉を耳にしたかのようだった。右頬から流れる血は止まる気配なく、彼の青藍の水干を黒く染めてゆく。


「ぜったい、ゆるさない」


 短刀を前へ動かす。今にも蘇芳の手が離れれば、露葉は黒羽の喉を掻き切る。

 ゆえに拘束が解かれることはなかった。


 ここに至り、場の誰もが悟った。露葉は確かに妖に憑りつかれてはいたが、操られていたわけではなく、一連の行動はすべて露葉自身の心から生じたのものであったことを。


「可哀想に」


 部屋から連れ出される間際、呟かれた黒羽の声が、露葉の耳にいつまでも残った。



 ☽



 夜になった。


 破れた筵の上で、いつかのように膝を抱えて座り、露葉は格子の向こうを見つめている。


 朝に土蔵の軒下にある仕置き牢に放り込まれてから、露葉は一音も発さずにじっとしている。光芒が運んで来た飯も水も口にしていなかった。


 黒羽を斬った罰として、ここへ閉じ込めた父に抗議しているわけではない。単に物が喉を通る状態でなかったのである。


 怒りと悲しみが身の内を占め、何も受け付けられない。日が落ちてもそれは一向に変わらなかった。むしろ、増してゆくようだ。


 牢に入れた後、蘇芳は外にしゃがみ懇々と妖のことを露葉に教えてくれた。恨みに狂った者の残忍たること、同情の無意味であること、露葉はギンにその心を利用されたのだということ。


 黒羽は何も間違った対処をしていない。ギンはすでに妖に変じていた。殺す以外に方法はなかった。そのことをギンに憑りつかれている露葉に言うわけにはいかなかった。


 それらを露葉はすべて理解できる。


 ギンの母が殺されたのは人を襲ったから。逆恨みし、妖となったギンは殺されるしかない。仕方がない。それが道理である。


(――って、思えって、ギンに言うの?)


 目の前で母を斬り殺されたのだ。自らも殺されかけ、辛々に逃げ延びたのだ。


 道理がなんの慰めになろう。


 腐れ死にゆく苦しみの中、それでも恨むなと言うのか。納得しろと言うのか。

 そんなことは了承できるはずがない。

 できないからこそ、妖になるのだ。


(…ギンがわたしを利用したって言うなら、わたしだってギンを利用した。ほんとは千影たちに知らせたほうがよかったのに、一人でギンのことを陰家に知らせて、お母さんにほめてもらおうとした)


 同情心しかなかったわけではない。露葉も露葉なりの打算があり、ギンの苦しみを知っていながら、自身の願いに利用した。そして結果的にギンを最悪の形で死なせてしまった。


 残忍な妖がどこにいただろう。残忍なのは人である。


「ごめんね、ギン」


 ぎゅっと膝を強く抱える。


「ごめん…ごめんなさい…」


 無意味な謝罪を繰り返す。そうでもしなければ、とても夜を耐えられなかった。



 ☽



 ふと、光がよぎった気がした。

 土蔵の周りに明かりはない。今宵、月影は雲に遮られ、かすかにしかわからない。

 それゆえか。暗闇の中、膝から顔を上げた露葉にはその姿がひどくはっきり見えたのだ。


「…ギン?」


 遠くの星々のか細い光で輪郭を作ったような、山犬の首が牢の前に浮いていた。

 白鼠色の瞳の、確かにギンの首であった。


「生きて、るの?」


 恐ろしくはなかった。ただ信じられず、声が震えた。


 格子の隙間から手を伸ばせば、ギンは甘えるように鼻をすり寄せる。すでに肉の身ではないはずだが、ふわふわと心地よい毛の感触がある。


 あの時、黒羽に飛ばされた首だけが逃げて来たのか。

 露葉は涙を溢れさせた。


「ギン、ギンっ、ごめんねっ」


 こんな姿になっても、なおも死なない。恨みを晴らすまでは、どうしても死ねないのだ。


 だが、今のギンには黒羽を殺せるだけの力がない。他に縋れるものもなく、露葉を頼みにして来たのだろう。陽家には結界が張られているが、一度憑りついて繋がった露葉の気を辿り、ここへ入って来られた。


 ギンを見て、露葉はそこまで察した。

 そしてもう二度と、見捨てたくないと思った。


「ギン、聞いて。わたしはもう、誰にも必要じゃない子だから、だから、ずっと一緒にいられるよ。ふたりでも寂しいかもしれないけど、きっと、一緒にいればちょっとはつらくなくなるよ」


 ギンと川辺で寝る夜は、いつもより安らかだった。

 露葉もギンも寂しかったのだ。最初に露葉がギンに惹かれたのは、ギンが露葉を襲わなかったのは、同じものを互いに感じていたため。


 ふたりとも、寄り添ってくれる存在が欲しかったのだ。


「わたしをゆるしてくれるなら、一緒にいよう? ギン」


 両手を広げる。ギンは迷わず、格子をすり抜けて露葉の胸に飛び込んだ。

 強く抱きしめると、触れている部分からギンが体に沁み込んでゆく。


 恨みも憎しみもそのままに。


 それらは身の内から露葉を穢す。


 陽家の者が気づいて駆け付けた時には、山犬の姿は跡形もなく消えており、闇夜で白鼠色の瞳を光らせる露葉がいるのみであった。

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