第7話
南天の紋が入った扉をおそるおそる叩くと、柱男の侍従である
陽家の血筋の者で、露葉からはやや遠いが親戚の内である。露葉の顔を見るや、熊の子でもいたかのように驚いて辺りを見回し、露葉が一人でやって来たことを知り更に驚いた。
「いやあ、これは、いやあ、いかがしたもんか。まあちょっとお待ちなさい」
光芒はぶつぶつ言って露葉にろくに喋らせず、おそらくは寂しさに負け下りて来てしまったのだろうと早合点し、露葉を門の中で待たせて母屋に走って行った。
実家と言えど、勝手にうろつくとまた誰に何を言われるかわからないので、露葉は門扉に寄りかかり、しゃがんで大人しくしておく。
陽家の屋敷も陰家の屋敷と大まかには同じ造りである。表門の正面に母屋があり、右手の内門をくぐると庭に出る。
母屋の中央にも中庭があり、それより南の表門側に柱男や侍従たちの仕事部屋と私室、客間や厨などがあって、北側の半分が丸ごと巫女の居住区として分けられている。
神を祀るための祭儀場などもすべて北側にあるため、巫女は滅多なことでそこから出て来ず、また陽家でも許された者しかそちらには入れない。
その他、妖退治を請け負う実働部隊は、母屋と渡り廊下で繋がった東西の別棟で生活している。碧や、兄の真白もそこにいるはずだった。
巫女の侍従となった従姉妹二人と、姉の紅葉は母屋の北側にいるだろう。彼女らは許された者たちだ。
ほんの幼い頃には、露葉も北側で生活していた。露葉の母は己の乳を子に飲ませたがり、真白も紅葉も修練場に行く前は同じようにして育てられたと聞いている。
なのに露葉だけ、上二人のようになれなかった。しかし今宵から、その評価は変わるかもしれない。
ややあって光芒が連れて来たのは、父、蘇芳であった。
「お父さん!」
露葉はぱっと立ち上がる。心はすでに浮き浮きしている。
身丈六尺はある大きな大きな父は、腰の辺りまでしかない小さな娘に、やや困った顔をしていた。
「辛抱できなかったか」
仕方がなさそうに言うので、父にも呆れらているのだと思った露葉は急いで懐から文を出して渡す。
「これ、陰家の柱男からっ」
「なんだって?」
はじめは半信半疑の蘇芳だったが、文を開いて読み進めるごとに、表情が強張っていく。
父が読み終えるのを待ちきれず、露葉は口頭でもなぜここにいるのかを説明した。一日にこんなにも口を利くのは久方ぶりのことである。
露葉の話にも蘇芳は相槌を打ち、光芒には何事かを耳打ちして文を手渡した。光芒は音もなく母屋のほうへ消える。
そうしてから、蘇芳はわざわざ腰を折って露葉の目線に合わせ、優しく問いかけた。
「山からずっと一人で歩いて来たのか」
「うんっ。あ、千影とかに黙って来ちゃったのはだめだったかもだけど、でも、ギンがもう死んじゃいそうで、急いでたから」
元気よく頷いた後、露葉は少し不安になり言い訳を紡ぐ。だがそんなことをせずとも、蘇芳に怒りの気配はなかった。
「本当はだめってことがわかってるなら、今日のところは良しとしよう。ともかく、ご苦労だった。おいで。今夜は父さんが一緒に寝てやろう」
「え」
ぽかんとする露葉に、蘇芳はおどけた調子で拗ねてみせた。
「なんだ嫌か?」
「そ、んなことないよ。嬉しいっ」
(ほんとはお母さんがいいけど)
言ったところで叶えられるものではないため、本音は胸の内に収めた。はじめからそこまで期待はしていない。
手の甲まですっぽりと父の大きな手に包まれ、中へ招き入れられる。
たったそれだけでも、露葉は死んでも良いくらい、とても幸せな気分になれたのだ。
☽
せっかく本家に来たのだから、母には会えないにしても、紅葉や真白にも露葉は会っていきたかった。
しかし、庭を通って縁側から蘇芳の部屋に連れて来られると、そこで足を洗って夕餉を食べ、一歩も几帳の外には出してもらえず、父と光芒以外の誰にも会えないうちに、夜となった。
二枚の筵を重ねた上に寝かされ、体を冷やさぬようにと蘇芳が自分の直垂を掛けてくれる。大きいため、露葉の肩から足までが余裕で隠れた。
埃っぽい部屋の隅でも岩の上でもない、これまた久しぶりのまともな寝床である。
昼間の疲れもあり、夕餉に米を食べさせてもらった今は満腹で、露葉は早々に瞼が重くなっている。
しかし、傍の柱に背を寄りかけ、横にならない蘇芳のことが気になった。
「お父さん、寝ないの?」
半分寝ながら問えば、頭をなでられる。
「お前が寝たら寝るよ。おやすみ」
なぜ露葉の眠りを待つのかわからなかったが、温かい手に優しくなでられるうちにどうでもよくなり、意識は深く沈んでいった。
まるで嘘のように幸福である。
思った通りに事が進み、皆が露葉に優しくしてくれる。眠りの心地よい暗闇が数々の違和感を包み、すべて気のせいということにする。
事はうまくいったのだ。
安堵し、どんどん深く、沈んでゆく。闇の中には何もない。
だというのに、底に辿り着くとある光景が眼前に広がった。
普段よりも近い地面。
真っ黒な感情が心に渦巻く。
見据える先に、太刀を持った男が一人。
間違いなく、母を殺した男だ。その匂いも顔も忘れたことはない。ようやく、居場所を突き止められた。
殺す。
なんのためでもない。殺すために生まれたのだから、殺すのだ。
振るわれた一太刀をかわし、刹那の間に男の背後へ跳ぶ。体は羽よりも軽かった。思った通りに、思った場所へ瞬時に動ける。
男が振り返る前に、露葉は新しい牙で咬みついた。
ばつん、と首が捻り切れる。
倒れ伏す体から血の流れているのが、母の死に様と同じだった。
甘い肉の恍惚と、更なる憎悪が身の内に噴き上がり、全身の毛が逆立つ。
殺す。
一度では足りない。永劫に渡りこの男を咬み殺す。
そう誓った時、首筋に冷たいものが触れた。
反射的に身を捩る。すると強く花が香った。
山つつじであろうか。それが散らばった地面が先程より更に近くにある。頭を持ち上げようとしても、うまく持ち上がらない。
「おっと、仕損じたか」
聞こえた声のほうには、太刀を握った男がいた。
露葉が必死に咬みついていた首から、途端に苦味と、土藁の匂いがし出す。
死体などどこにもなかった。星空の下には、中身の土が零れた藁人形と、半分首の切れた露葉があるだけだ。
「安らかに」
冷たい一撃と共に、地面が離れた。
男が露葉の舞う首を見上げ、嗤っている。
母を殺した時の顔で。あの、赦せぬ目つきで。
「…あっ、あぁああっ、ああああああ!」
存在すべてで絶叫する。
赦せない、赦さない。
だがそれ以上何もできず、堕ちると同時に露葉は目覚めた。
「あ、あ…」
露葉は変わらず父の部屋で横になっている。太刀を持った黒羽はおらず、山つつじの匂いもしない。
「寝なさい」
枕元に蘇芳が座っており、目尻から溢れる涙を指の腹で拭われた。
「い、まっ、ギン、がっ」
「ただの夢だ」
「っ、ち、がうっ」
露葉は気休めの手を払いのけた。
「前に見たの、ほんとだった! ギンが斬られてっ、ギンが、柱男にっ」
確かめねばならない。夢なら夢で良い。どちらにせよ、今すぐギンのもとへ行かねばならない。
直垂を跳ねのけ、駆け出そうとし――
「止まれ露葉」
静かな声に、縛られた。
指一本も自由には動かせない。名をもって相手を支配する術である。
特に露葉にとって、名を付けてくれた蘇芳の言霊は絶大な効力を持ち、それを破る方法などなかった。
蘇芳は露葉を横に寝かせ、直垂を掛け直してやる。
「朝まで起きるな」
強制的に閉じさせられた瞼は、自力ではもう開かない。
再び意識が落ちるまで、額をなでられる優しい感触が続いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます