第6話
表門をくぐった後、露葉は琥珀にしっかりと手を握られたまま、人気のない母屋を横切り、更に内門を抜け、満開の山つつじの庭へ連れて来られた。
柔らかい日差しの当たる縁側に、青藍色の水干姿の男が一人、座っている。
左足は沓脱石の上の草鞋を潰し、右足は床に立て、そこに肘を寄りかけ寛いでいる。紅白入り乱れる花々を愛でているようだった。
はじめ男の横顔は髪に隠れて見えなかったが、琥珀が声をかけると、細い目と目が合った。
かなり若い男だった。
露葉の父はもう四十になるが、この陰家の柱男はまだ三十か、二十ほどにも見える。
間違いなく、夢で見た男だった。
薄い唇にあるかなしかの笑みを湛え、強張る露葉を興味深そうに観察している。
「露葉、露葉」
二度、耳元に呼びかけられ、我に返る。気づけば琥珀の手に爪を立ててしまっていた。
「ごめん、なさいっ」
手を放し、琥珀から数歩距離を取る。
そうして柱男、黒羽に向き合うと、心がひどくざわついた。
腹の中を何かが這い回っているような、気持ち悪さが指先にまで伝わる。
露葉はこの時はじめて、人に嫌悪感というものを抱いた。
「…陽家柱男、蘇芳が次女の露葉と申します」
身を守るように右手で左の二の腕を掴みながら、礼儀通りに名乗り、ここに来た経緯を努めて冷静に説明する。
修練場で死にかけていた山犬の子をギンと名付けて世話していること、それの記憶と思しき夢を何度も見ていること、もし現実であったのならば、山犬の子は黒羽に復讐しようとしているということを、今度はきちんと順序立てて話せた。
「――でも全部わたしの勘違いかもしれないから、教えてください。ギンのお母さんを、殺しましたか?」
露葉が話す間、黒羽はまったく視線も表情も動かさずに聞き入り、問いにはすぐさま答えた。
「殺したよ」
露葉は冷たい刃物に腹を刺されたような気がした。
黒羽のほうは柱に背を寄りかけ、続きをゆったり話す。
「あれは、確か半月前だ。
憐みの籠った声音で、しかし口元には笑みを浮かべ、言っている。
露葉は何か言い返したかったが、何も思い浮かばなかった。
この男の態度が許せないのに、言っていることには異議を挟む余地がない。
山犬が人を襲っていれば、山犬を殺す。力さえあれば誰でもそうするだろう。その時に、子も殺してやるというのは一つの慈悲であるだろう。生きながらに腐り死にゆくギンの姿を見ていれば、納得もできる。
「ま、まだ、まだギンは妖になってない!」
かろうじて、それだけを言うことができた。
「お願いです。妖に転生する前に、ギンを弔ってあげてください。人と同じようにしてあげれば、恨みは薄くなって、妖にならないかもしれないって、聞きました。きっと柱男がやってあげれば、ギンもゆるしてあげようって思ってくれるはずです」
すると黒羽の笑みが急に深まる。
露葉の後ろ、琥珀のほうを一瞥し、そしてまた露葉に視線を戻す。
「お前は優しいのだね。やはり可哀想なことをした」
左手がつと後ろに伸びて、干し柿の三つ乗った盆を引き寄せ、そのうちの一つを黒羽は露葉へ放った。
「知らせてくれた駄賃だ」
「っ、わ?」
干し柿と黒羽とを見比べ、露葉は困惑していた。だが腹の虫は正直に、甘やかな匂いに喜んで鳴く。
「遠慮せずお食べ。残りは包んであげよう。それを持って、今夜は父上のところに泊まると良い」
露葉は目を丸くした。
「だ、だめ! 勝手に山を出て来ちゃったから、絶対入れてもらえない…」
「まさか。陰家の柱男に危機を知らせた娘を誰が邪険に扱うものか。少し待ちなさい。父上に文を書いてやろう」
露葉はどうして良いかわからず、右往左往する。その間に黒羽は几帳の裏へ消えてしまった。
黒羽が戻るまでは、他にどうしようもないので干し柿を噛む。
久しぶりの強い甘味に舌が痺れた。修行中は、菓子など滅多なことで食べさせてはもらえないのだ。
盆の上のもう二つに手が伸びかけ、そこで露葉は琥珀の存在を思い出した。一人で平らげてはいけないかと、そちらへ盆を差し向ければ、「俺はいいから」と生温い笑みと共に遠慮される。
間もなく仕上がった文は、追加の干し柿三つの包みと共に手渡された。
これで陽家の屋敷に寄らないわけにはいかなくなった。
正直に言えば、それは露葉にとって何より嬉しいことで、最初の嫌悪感が吹き飛ぶ程に、黒羽に感謝できることだったが、弱り切ったギンの容態がどうしても気にかかる。
「あの、ギンのこと」
嬉しさを堪え、縁側に立つ黒羽を見上げると、何も言う前に遮られた。
「お前の望む通り、丁重に弔おう」
「っ、ありがとう!」
黒羽の一言で、露葉の不安はきれいに晴れた。
「ギンは修練場の母屋の近くの、小楢の沢にいるの! 案内します!」
「わかった、わかった。だが今日のところは早くお帰り。都の夜は山中よりも危ういのだから」
黒羽に目配せされ、琥珀がすかさず最初と同じように露葉の手を引っ張っていく。
別れの挨拶もそこそこに、露葉はさっさと表門まで連れて来られた。
まだ日暮れという程でもないのに、何か急いで露葉を帰そうとしているように思え、門を出る前に琥珀を見上げれば、
「大丈夫だよ」
そう、人の好い顔で言われ、送り出された。
その後、大路へ向かってしばらく歩き、曲がり角に差し掛かる前に振り返ってみると、陰家の屋敷は変わらずそこにある。
(…どうしてさっきは見つけられなかったんだろ。隠形の術は妖から隠れる術なのに)
なぜ露葉にまで見えなかったのか、それだけは最後までよくわからなかった。
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