飯食って笑って寝よう
フカイ
掌編(読み切り)
「泳ぎを教えてあげる」
そう言ってあのひとは、ぼくを最上階のプールに誘う。三月の晴れ曜日。吹き抜けのガラス窓から差し込む陽射し。青いプールの底にキラキラと陽光となって、舞う。
今年はじめて着る、チョコレート色のワンピースの水着。
小ぶりなバストが恥ずかしい。自慢できるのはくびれたウエストくらい。あのひとは黒いだぼっとしたトランクスで。黒いキャップに黒いゴーグル。そしてしずかに蹴伸びする。
すね毛の生えた長くて白い脚が、水中に伸びてく。学生時代は水泳部だって言ってた。きれいなフォームで早春の週末の朝、あなたはプールをひとりじめ。
ここは見知らぬ街の、見知らぬリゾートホテル。
波を立てずにしずかに泳ぐから、ぼくは黙って見とれるしかない。
「息つぎも、バタ足もしなくていいから」あなたはそう言う。「ただ、自分が水に浮かぶ一本のまっすぐな棒だと、思ってごらん」
ぼくはコースの壁を蹴って、レーンの途中で待っているあなたに向かって伸びてゆく。水は限りなく透明で、浮かぶぼくの影がブルーの水底に見える。ぼくは一本の棒だ。ぼくは水に浮く棒だ。そう心で念じて、何もしないまま、静かに進んでゆく。ぼくのまわりを波が二等辺三角形の形に広がってゆくのが、プールの底に影として映る。ぼくは飛んでいる。いま、あなたにむかって、宙を飛んでいる。
そしてあなたがぼくの手を取って。
ぼくの短い飛翔は終わる。
ぼくは身体を起こし、思い切り息を継ぐ。
「上手いぞ」
あなたが褒めてくれるから、嬉しくて。
何度も繰り返しながらそうして、蹴伸びでレーンを往復する。
そして途中からあなたは泳ぎ始める。
「おれにも少し、泳がせてくれ」
あなたはトビウオ。あなたはモーターボート。
自在に、水を往く。どこまでも、ペースを変えず、フォームも乱さず。
あなたの背中の筋肉に、水の膜がきらめく。そしてキックするとき、三回に一度、水しぶきを上げて。その脚の逆側に顔を上げて、息をするのね。
ぼくはずっと、あなたを見ている。
プールに誰が来たって、あなたを見ている。
●
プールを上がって、ふたりでホテルのカフェに。春先とはいえ、まだ寒い日々。でもカフェに入ってオーダーするのは、よく冷えた白ワイン。まだ午前中なのに。
「平気さ」、とあなたは笑う。
そしてそのワイングラスに、アイスウォーターの氷をつまんで素早く入れる。
「白ワインのロック・スタイル」って言いながら乾杯。
ハムとルッコラとチーズを食べて。
仕上げは濃いエスプレッソ。
あなたはぼくをうんと笑わせる。
つまらない冗談でも、あなたが言えば飛び切りのジョーク。目を輝かせながら誰かの悪口。最後は決まって、自分を卑下して笑いを取って。
そしてあなたはぼくのおでこにキスをする。
3時間だけ、取材に行ってくる、と。
部屋のキーを渡し、迎えにきた編集者のクルマにのって、どこかに出かけてゆく。
日曜日なのに。せっかくのリゾートホテルなのに。でも、そういうお仕事だから、仕方がない。
●
部屋に入って。
ぼくは洋服を全て脱ぐと、まだ乱れているベッドの中に入る。
裸のままで、リネンの寝具にくるまれるのが好きだ。
かすかなあなたの匂い。その残り香をかぎながら、ぼくは少しだけ自慰をする。
右手で右の乳首を転がして、左手で左の乳房をやさしくマッサージする。
あなたのことを想って。
あなたの身体を想って。
あなたの指と、肌と、性器。すこし伸びたひげと、くしゃくしゃの太くて短い髪。まんまるの黒い深い瞳、甘い唾液。
ぼくの身体はゆっくりと熱くなって、腰がしびれる。頭がぼんやりして。途方もない多幸感がゆっくりとやって来る。
すべてが
すべてが受け入れられて。
すべてが認められて。
●
死んでしまった母のことは、まだあなたに言えない。
けれど、それを打ち明けられたら、ぼくはもっとあなたに溺れてしまう。
でもいい。
これまでずっと、そうできずに何人ものひとの背中を見送ってきたから。
彼女が死んで、ぼくの胸のつかえは取れた。
でも、それでも。彼女が残した棘はぼくの心臓に刺さって、ずっと血を流し続ける。どくどくどくどく。
ぼくとあのひとの未来はこれから始まる。
悲しい話はもうたくさん。
飯食って笑って寝よう。
あなたが帰ってきたら、またうんとsexしよう。そして、あなたに打ち明けよう。
死んでしまった彼女のことを。
(宇多田ヒカル「Play A Love Song」から受け取ったもの)
飯食って笑って寝よう フカイ @fukai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます