ずっと


 ――初めてでは、ない気がする。


 陽太がそう思ったのは、意識が覚醒する瞬間である。

 本当に触れる程度だったけど、マシュマロみたいに甘く、しっとりと柔らかで、ふわふわとするようなあの感触は、一体何時に体験しただろう?

 遠い昔のようで、実は、結構最近のような?

 例えば、目が覚めたときに、いきなり彼女が――


「はっ!」


 と、靄がかかっていた視界がクリアになるにつれて、陽太の思考は正常の流れを取り戻す。

 少し薄暗い室内、独特の紙の匂いと様々な資料の入った棚は、一度だけ見たことがある。

 今、自分が居るのは、図書準備室だ。

 まだ下校時間ではないのか、隣の図書室からは人の気配をいくつか感じる。

 そして。

 隣の図書室にあった椅子をいくつか横並びにして、その上に陽太は寝かされていたようだった。そのためか、少しだけ身体が痛い。


「……起きた?」

「!」


 そして。

 すぐ傍らに好恵先輩が座って、柔らかな笑顔でこちらを見ていたのに、陽太は全身の熱の循環が加速するのを感じた。


「こ、好恵先輩」

「……おはよう、陽太くん」

「あ……は、はい、おはようございます」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」


 困った。

 会話が続かない。

 何度も交わしたやりとりなのに、今に限っては殊更に。

 見れば、好恵先輩の顔は少し赤みがかかってる。

 ああ、やっぱり先輩可愛いなぁ……って、違う違う、そうじゃない。そうじゃなくはないけど、今はもっと大事なことがある。


「あ、あの、好恵先輩」

「……なに?」

「夢じゃ……ないッスよね?」

「――――」


 好恵先輩、きょとんとなっていた。

 そして、陽太は陽太で、ものすごく後悔した。

 なに聞いてるんだ、オレ……!?

 でも、よくよく考えれば本当に夢みたいな展開だったし、あの時はあんな全力を出せた理由が今はわからないし、もう一度やれと言われれば確実に無理だと思える。

 それくらい、陽太は極限状態だったのだ。


「……ぷっ、ふふ、あはははは」


 そんな陽太の懊悩を余所に、好恵先輩は小さく吹きだし、次いで微かにに肩を揺らして笑い始めた。

 いつか見た、彼女の笑顔だった。これもまた可愛い。


「……わたしも、そうじゃないかと思ったけど」


 そして、ひとしきり笑った後。

 ふわり、と。

 あの時とは異なり、今度は優しく、好恵先輩は陽太を抱き締めた。



「……夢じゃないよ。わたしは、陽太くんのことが好き」

「――――」



 ああ。

 夢じゃない。

 この温かさも、柔らかさも、伝わってくる鼓動も、そして彼女のその想いも、全部、平坂陽太の現実である。

 これまでの自分なら、恥ずかしさのあまりゴトリと音を立てながら、再び気絶の一途を辿っていただろうけど。

 今は、こみ上げる嬉しさを、何とか堪えるだけにとどまったのと、


「……よかった」


 安心のあまり、陽太はどんどん力が抜けていくのがわかった。

 ここまで来るまで、長かった気がするし、朝比奈先輩に言ったとおり、この場面を迎えての成功のイメージを持てていなかったから。

 今、この時を迎えられて。

 本当に、よかった。


「それにしても……なんつか、ものすごくびっくりした」

「……なにが?」


 彼女に抱き締められたまま、陽太はポツリと漏らした。


「その、いきなり、好恵先輩の方からキスしてきたのは。さすがに予想外すぎて」

「……皆が、期待してたから」

「え、えぇぇ……そ、それに応えちゃう辺り、好恵先輩、めっちゃ凄いっスね」

「……それに、わたしも、キスしたかったから。二回目で、少しだけ思い切れたし」

「そう思ってくれたのは素直に嬉し……え、に、二回目っ!?」


 今、とても衝撃的なことを聞いたような気がした。

 もしや、好恵先輩のファーストキスの相手は、別に居たと?  ……よくよく考えれば、好恵先輩も高校二年生の後半だし、そのくらいの経験があってもおかしくないと言えばないのだが、それでも、先輩の初めてになれなかったのは少しショックと言うか……!


「せ、先輩、一回目って……」


 思わず、訊かずに居られなかった。


「……? 一回目も、陽太くんだよ?」

「…………はい?」

「……この前、陽太くんが風邪を引いて、眠っていたときに、その、ちょっと触れる感じで」

「……………………はいいいいいいぃぃぃぃ!?」


 これまた、仰天の事実だ。

 でも、さっきの覚醒の瞬間、初めてではない気がする、と感じたのはそのためだったかも知れない。

 ……もしや、あの時か?

 好恵先輩の言うとおり、あの、風邪を引いた日に、好恵先輩がお見舞いに来たことがあった。

 その時、陽太は眠っていて、感じた柔らかな感触とほわほわした感じを夢の中で味わって……その少し後に、目を覚ましたいう経緯があったのだが。

 まさか、アレが現実のものだったとは……!


「……ごめんね。駄目、だった?」

「いえ、そ、そんなことはないッス! そりゃ、その時は寝てて実感がないから少し残念かも知れないけど、初めてが好恵先輩と言う事実が、オレにはとても光栄ッス! それに、さっきの二回目も好恵先輩の方からしてくれて、もう、嬉しく嬉しくて……!」

「……じゃあ」


 しどろもどろの陽太の回答にも構わず、好恵先輩は陽太の身体を解放して。

 頬を赤らめながら、こちらを見つめてきて――それから、そっと目を閉じた。

 ……なにやってんの、先輩?

 その行動の意味が、陽太には少しわからなかったのだが、



「……三回目は、陽太くんから、して欲しいな」

「――――!?」



 ゴトリ、と自分の中で音が鳴った。

 どこまで。

 好恵先輩ってば、どこまで、オレに対して無防備な攻めをしてくるの……!?

 いろいろな意味で、頭を抱えたくなった。

 そんな中でも、彼女は目を閉じたまま、じっとその時を待っている。

 いいのか? と、陽太は自問する。

 いい、と好恵先輩が無言で言っている。

 ならば……行くしか、ない、のか……!?

 こうなったらもう、勢いはないけど、度胸だけで。


「…………」


 ごくり、と陽太は唾を呑む。息も呑む。

 目を閉じる好恵先輩もまた、可愛くて。その桜色の唇は、綺麗で、先ほども味わったとおり、甘く柔らかそうで。

 バクバクと鳴る己の鼓動を感じながら。

 吸い寄せられるかのように。

 重ねよう、としたところで。



 キーンコーンカーンコーン



「!?」

「……?」


 室内に……というより、校内にチャイムが鳴り響いた。

 次いで、


『下校時間となりました。まだ校内に残っている生徒は、早く下校しましょう』


 校内放送がスピーカーから聞こえてきた。

 時刻は、午後六時。

 見ると、図書準備室の小窓の外は、すでに暗い色だった。

 全然気付かなかった。



「好恵ー、そろそろ下校時間だから、鍵を閉めないといけ……な……」



 そして。

 拝島先輩が、図書室の方の入り口から図書準備室に入って声をかけてきた……と思ったら、今の陽太と好恵先輩のことを目撃して、


「もう少しゆっくりしていきなさい。――好恵、この前に言ってたアレ、三十分くらいあれば済むと思うから」


 それだけを言い残して、一瞬で回れ右をして、図書準備室を出て行ってしまった。


「いや、拝島先輩、帰ります、ちゃんと帰ります!? つか、三十分って何のことッスか!?」

「……………………」

「うわ、好恵先輩、なんでそんなに全身で赤くなってんの!? 拝島先輩に何を吹き込まれたんスか!?」

「………………あぅ」

「って、今度は好恵先輩が倒れた――っ!? 先輩、せんぱ――いっ!?」


 結局。

 好恵先輩が復活するのにいくらか時間がかかってしまい。

 三回目は出来ずに有耶無耶になったまま、二人は図書準備室を出るのであった。



  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★



「…………」

「…………」


 すっかり暗くなった学校からの帰り道を、好恵は陽太くんと一緒に歩く。

 二ヶ月前に彼とご近所さんになって、毎日ではないとはいえ、何度も一緒にこの道を歩いてきたけど。

 今は、とても特別なように、好恵は感じた。

 以前とは違う、こういう陽太くんとの関係を、何というのだろう?


「あ、あの、好恵先輩?」

「……なに?」

「ええと……さっき言ってた、三回目の件なんですけど」

「……え」


 陽太くんがそう言ってきたのに、好恵、ちょっとドギマギした。

 よくよく考えると、三回目をして欲しいなんて言ったのは、少し大胆だった気がする。

 今、ここで続きをやろうと彼に言われると、好恵には出来る気がしなかったのだが、


「す、すんません、今はもうちょっと待って欲しいッス。流石に、オレの中で、その、気がまとまらないと言うか」

「……そうなんだ。うん、待ってる」


 そういうことらしいので、好恵はちょっとホッとした。

 同時に、ちょっとだけ残念にも思えた。

 もう少し、陽太くんの方から何かあればいいな、と考える自分は欲張りなのだろうか――


「その、代わりなんスけど」

「……あ」


 キュッと。

 陽太くんは、好恵の手を握ってきた。自分と同じくらい、細やかで、まるで女の子みたいな手指だったけど。

 重なった途端、好恵は、とても力強く感じた。


「これが、今の精一杯です」

「……うん、ありがと。嬉しい」

「は、はいっ」


 手を繋ぎながら、帰り道を歩く。

 これもまた、特別なことのように思えて。


 ――ずっと、陽太くんと一緒に、歩いていたいな。


 心からそう思える。

 陽太くんと出会って約半年、人生に於いては短い時間かも知れないけど。

 好恵にとっては、彼を想って……そして陽太くんにとってもまた、自分のことを想って、とても、とっても長い道のりを経て、結実したこの想いで。

 ずっと、手放したくないものだ。

 そのためにも、お互いの想いに、逃げずに向き合っていきたい。

 今のような、高校生じゃなくなっても。

 大人になっても。

 おじいちゃん、おばあちゃんになっても。

 ずっと、ずっと。

 だから。


 好恵には、陽太くんに言う、言葉がある。


「……陽太くん」

「あ、はい、なんですか、好恵先輩」


 それは。

 いつだったか、傘の買い物に一緒に行こうという意味で言ったけど。

 その後に、何故だったか、頬を突っつき合うみたいになっちゃったけど。

 今度はもちろん、違う意味で。

 もう逃げないという誓いと、ありったけの勇気と、強い想いを込めて――



「……陽太くん、付き合って欲しいの」



【おしまい】

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一コマの結実 〜一コマシリーズ9 阪木洋一 @sakaki41

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