四 未来
二週間が経った。
季節が進み、この自動車学校に通い始めた頃とは日の光の射し込み方が変わってきた。自習室の中で私のお気に入りだった奥の角席は日当たりが強くなり、スマホの画面が見辛いので別の席に座るようになった。
時々、
私はまだ全然、仮免に辿り着けない。折れた骨に取り付けてあるプレートとねじを外す手術もこれから受けなければならない。
忌々しい骨折も悪いことばかりではなかった。腕のなかの金属プレートが不思議と冷えるような気がするなー、私の知らない冬が閉じ込められているのでは?みたいなうたを『蹴る雀』の原稿に入れたら真っ赤っ赤にコメントがついて返ってきたのはこの春最高の思い出のひとつだ。
その中で、一番好きな歌人が「あなたが自分のからだのことを詠んだのは多分初めて見たと思います」と書いていて、どうやら投稿作をかなり読んでくれているという現実味が急激に沸き起こった結果、ニャー!とバスの中で鳴いてしまったりした。しかもそれを大輝に聞かれた。
最近になって私は大輝に、ネット短歌をやっていて今度同人誌に参加する、それでいま原稿をやりとりしてる、と抵抗なく話すことができた。多分大輝はそれを言いふらしたりはしないと思う。今はそう信じる気持ちになっている。
短歌SNS『七色雀』内のランキング有段者有志による不定期刊の同人誌『蹴る雀』は、その年の夏に開かれる日本最大規模の同人誌即売会に合わせて発行されることが決まり、逆算で各種締め切りが設定された。過去になんか色々ヤバイ事件があったらしく、かなり安全を見込んだ感じの日程だと思う。
私には新人紹介枠で三ページが割り振られた。といっても載せる内容はフォーマットが決まっている。
略歴はできた。SNS投稿作からの自選三首と一言コメントもできた。かなり苦労したがタイトルつきの新作五首もできあがってOKが出た。
いつもスマホ画面の向こうに見ているSNS内の人気歌人が同人誌の編集チームとして直接コメントやアドバイスをくれるのは予想外に面白い。「いいね」や称賛コメントではない言葉をもらっても嬉しいのだということが初めて分かった。
どうやら私は誉められたいだけではないんだな、と思う。もっといいのを作りたいと思っているな。ただの日記風パズルじゃなく、自分でも好きになれるような自分の言葉を紡ぎたいんだな。
私はたぶん、前よりももっと短歌が好きになってきている。
言葉に何ができるのかを知りたいと思っている。
自習室に射し込む光の線は今ではもう強く白く、まだ柔らかいけれどもどこか空の遠くに夏がいる。
いま最後にチェックしていたのは、二百字の短い自由文。SNSに参加した理由とか短歌を始めたエピソードとかを書く人が多いらしい。私も最初は「自分なりに学んでいこうと思います」的な学校の作文みたいなものを提出していたが、父親に十二万円叩きつけたあの晩に、怒りと夕飯抜きの勢いで書き直してしまっていた。
私は原稿のチェックを終え、このまま印刷に回してもらいたい旨をメールに打ち込み始めた。自分の書いたものがネットの外で印刷され、住んでいるこの地域の外でも読まれるということがこれまでなかったから、結構どきどきする。
「え、フリック入力めっちゃ速い」
頭の斜め上の方から聞き慣れた声が降ってきて、隣の席に大輝が座る。
「速いか? こんなもんじゃね?」
「いや速いでしょ。だってそれ利き手じゃないんでしょ」
「うん。確かにスマホは左手でも慣れてきた」
ふーん、と言いながら大輝はペットボトルの栓を開けている。ぷしゅ、と炭酸の気の抜ける音がして泡が逆光にきらきら立ち上り、世界美しいじゃん、と思う。
どうだろう、これを詠めるかな?
「ほんとは両利きなんじゃない? 右利きってのは思い込みかもしれない」
「ん?」
頭のなかで上の句の音数を拾い始めながら、いや下の句の七七からキメるか?と思っていた私に大輝がどうも意外なことを言った気がする。
右利きってのは思い込みかもしれない?
「世の中右利きが多いから何となく右使えそうなら右利きにして育つんだろうけど、だから左利きじゃないってことにはなんないだろ。中には両利きの人がいるわけだから。私右利きですって言ってる人の中には少ないけど一定数の両利きが含まれる」
「おお? うん」
「その人は自分のスペックを自分でも分かってないわけだよね。早い段階で『普通こうだから』に巻き込まれて右利きだと思い込んでる。右利き嘘じゃないしね。でも、知らないだけで本当は左手も使える」
「……かもね」
「だから、これがダメだったからもう何もできないとかいうのは意外と勘違いかもしれないんだよな。自分でも知らない引き出しがまだあるかもしれない」
あれ?
そうだよね。
それはまるで私の、
◇◇◇
夕暮れ、桃の木の下をどんどん歩いていく。どの枝にも摘果を生き残った青い実がたくさん生っている。
それはそれで生き残りだ。そして、絶望的に不利な条件でゲームさせられて負けたと思っていた私も、まだ生きている。
たぶん、生きている。生きているのだから生きている。死んではいない。
隣との境だった低い柵の壊れたところを通ると、笈川のおじさんが亡くなる直前に作った小屋があって、大輝はウッドデッキの上で私の古いタブレットを眺めている。
自習室で会ったとき、私の原稿を読みたいと言っていたから、さっき帰宅後にタブレットごと貸した。大輝はもう普通の顔をして自宅より先にうちに寄って帰るようになっている。
着替えるついでに家から持ってきたクッキーの皿を折り畳みテーブルに置いたとき、ポケットのスマホにメールが届いた。『蹴る雀』編集チームからだ。問題がなかったので全て印刷に回るという文面。これで私の作業は終了。
一年前はこんな風に過ごしているとは思いもしなかった。大学落ちて、高校卒業して、骨折して、同人誌に参加して、新しい友達ができて、こんな風になるとは考えてもみなかった。
ばらばらになった高校の仲間たちの日常がSNSに流れてきても、以前ほどには気持ちが痛まない。
時間は進んでいく。
大輝は近々本免許が取れるので、そうなれば一緒に自動車学校へ行き来することはなくなるだろう。家にいて果樹園を手伝うために通信の大学に入っているから、この先は時々、勉強で忙しくなるんだと言っていた。
私はこれから腕に入れたプレートとねじを取る手術を受けて、リハビリをして。多分そのリハビリも終わった後に『蹴る雀』が発行される。
その頃にはうちの桃も隣の桃も収穫の時期になり、父親は先日約束した通り、隣のてらおか果樹園の初めての収穫と加工に手を貸すはずだ。約束を反故にしたら私が許さないのは分かっているだろう。
それで?
それから私はどうするのだろう。
隣で勝手にクッキーを
クソ親父があの次の日に簡単に折れて私に頭を下げ、来年受験して元々の予定の私大に行くなら全額持つ、と言い出したことを大輝にはもう話してあった。
私は何だか決めかねていたのだけれど。
「もうさ、大学で何を勉強できるかとかじゃないよ。そんなの行ってみないと分かんないんだしさ。それより、どうなろうと四年くらい時間ができる。その間にたくさん短歌やれるでしょ」
提出した原稿が表示されたままのタブレットがテーブルの上に置かれた。全部読んでしまったらしい。薄々感づいていたが、大輝は読むのが速い。
「……いろんなものを知っていろんなものに出会うと、きっともっといろんな感じかたやことばが手に入るんじゃない? それには何か勉強してるポジションって便利だよ。図書館使える、学割使える、夏休みが長い」
「そっかー。そうかもしんない」
「それにしてもねえ。ふふ」
「なにさ」
大輝は時々、お兄さんぶった態度を取る。同じ歳のくせに。誕生日を比べたら、生まれたのは私のほうが早かったのに。
ぷぅ、と片頬を軽く膨らませて視線を送ると、大輝は微笑みながらもこちらがはっとするような真剣な眼をして言った。
「俺はこの文章好きだよ。あの晩の彩乃が文字になったみたい。書けるって、すごいな」
あっ、と私の中の私が思わず声をあげる。頭が桃の木々を突き破って、広い宵空のはるか高いところにすっぽ抜けていくような。
高揚。
大輝は私を。
読んで反応してくれた。
好きだよと言った。
『書く私』を茶化したりせずに。
これが私のことばだと受け取ってくれた。
ネット越しにだけ起こっていたことが、今、目の前で現実になっている。
今日のこの宵のできごとを、この透明な嬉しさを、私はいつかうたに詠めるだろうか。
ことばに変換して残そうと思えばこの世界はあまりにもたくさんのことに溢れている。
私はそれを捉えることができるか。名付けることができるか。
自分のことばで、うたうことができるのか。
ありがとう、と大輝に言って、タブレットを持ち上げた。
でも、今に見てろよ。
私はもっとうまくなりたい。
いつか私の書くもので、もっと強くぶっ飛ばしてやる。
たとえ天才じゃなくたって、まだまだ火力は上げることができる。
タブレットの画面は消したが、そこに表示されていた文章を私はそらで言うことができる。
――今は自分がどこに向かうのかも分からないまま、一瞬一瞬火花みたいに変化しているところです。結局何者にもなれず死んでいくのだとしても、誰かから見た私ではなく私が思う私を残していきたい。
私こと曽根彩乃の人生で一番シケた気分の春は、こうして終わった。
原稿はもう過去。提出したうたも、もう全て過去のこと。
これからもゲームは延々続き、死んだり生き残ったりしながら私は生きていく。
それがどんな道のりになるにせよ、することは一つ。
新しいことばを探して、旅をする。
それだけだ。
果樹園にはもう、夏が来る。
(了)
春と骨 鍋島小骨 @alphecca_
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