三 傘
「話しかけてもいい?」
って話しかけんのかよ、と思いながら私は
もう真っ暗な雨の夜、自動車学校の生徒を乗せる送迎バスの待合所。ニュアンスパーマ的に綺麗な髪型の眼鏡男子が首に明るいブルーのヘッドホンをかけて私の近くに座っていた。
なに、と返事をすると寺岡大輝は、ちょっとまた路線バス教えてもらいたいんだけど、と言った。その時ちょうど送迎バスがやって来て、私たちは一緒に乗り込み、何となく近くに座った。
窓ガラスにばちばちと雨粒がぶつかる音を立てながら、豪雨の中へバスは走り出す。私たちの降りるポイントまでは、こんな夜なら三十分ほどかかるだろう。
寺岡大輝は十八歳で、私の家の隣にこの春引っ越してきた。隣といってもどちらも果樹園なので、家と家は何百メートルも離れている。
隣には去年の冬のはじめまで
笈川さんのとこの亮ちゃんは結局果樹園を継がなかった。そのうちおじさんが持病を悪くして急に亡くなったので、一人でこれまでのようには維持できないと考えたおばさんは果樹園を手放した。
そこに引っ越してきたのが寺岡さんだ。役場は都会からの移住支援に力を入れ始めていて、そのプロジェクトに応募したということだった。
という経緯でうちの隣は『笈川果樹園』から『てらおか果樹園』になった。うちのクソ親父が私のやっていた受粉作業を「隣の寺岡より下手くそじゃねえか」と言ったのがこの寺岡だった。
都会から来て樹のことも生産者としての心構えも何も知らないくせに上っ面ばっかり洒落た風にしやがって、とうちのクソ親父は何かと寺岡さんを目の敵にしている。寺岡さんが来る前は笈川さんのとこの亮ちゃんが家業を継がないことを怒っていたし、何に対しても文句が多すぎるのだ。
とにかく寺岡大輝は寺岡さんちの次男で、高校を卒業してから引っ越してきたのでこっちに友達はいないし、土地勘はないし、どこに何があってバスの路線系統はどうなっているのかいまいち分からず、通い始めた自動車学校の送迎バスで何度か見かけた唯一の若者である私に声をかけたらしい。うちからJRの駅までどう行くか、だったっけ。
それから私たちは、時々喋るようになった。私の方でも、三月までの私を知っている長年の知り合いは避けたかったけれど誰とも何にも話さず付き合う相手がいないのも怖いなと思い始めていたから、『隣に越してきた寺岡くん』はちょうどよかった。向こうは分からないことだらけ。元からの住民の私が色々教えてあげるという形はすごく自然だ。
通販をコンビニ受け取りにしたら、笈川さんとこに入った寺岡さんちの次男が通販でなんか買ってどこのコンビニにいつ取りに来てどんな服装と態度で何のカードで払って一緒に何のコーヒー買った、ということまで数日で知れ渡ったというので、それはそうだろうねと私は答えた。
「そういうものなの?」
「大体は。この辺りじゃ、新入りはどんな情報もしゃぶり尽くされると思っておいて」
「おお……」
「噂話しかすることないもん。私のことだって色々聞いてるんじゃない?」
「あー、記念受験して家にいるらしいよ的な話はね」
だって、そう言うしかなかったのだ。本気で合格を目指せる成績には程遠かったから、そう言って悲壮感を隠しておくしかなかった。全然お祭り的なやつだよ進学したいとかじゃなくて、どんなんだろーと思ってさーちょっと行って見てくるわギャハハ!くらいの空気にしておかないととても耐えられなかった。
それがきちんと地域中に共有されている。新参の、まだ半分余所者の寺岡家にまで供給されている。かなりシブい状況だ。寺岡大輝も私も今はコミュニティの餌にすぎない。
「だからさ、ほんとに秘密にしておきたいことは絶対に黙っときなよ。どんな仲良しにも話さない方がいい。仲良しなんかできたらの話だけど」
窓の外のどしゃ降りくらいどす黒い感じで私は言ったが、寺岡大輝の返事はあくまでぽややんとしていた。
「同年代だと、今はきみが一番仲良しかな。他にまだ誰とも喋ってないのもあるけど」
暢気か。
『私』はバッドチョイスだよ寺岡大輝、何しろバカのくせに高望みすぎる国立を記念受験(表向き)して何にもせず実家にヘラヘラ暮らしてるクズだよ。働きもしないで何考えてるんだろうねって、聞こえるところで五回は言われたよ。ダメだろお前、コミュニティに入門するのに最初に掴むのが私はダメだろ。もうちょっと何か、そう例えば、体験型ファームとお洒落通販で成功しつつある吉村の拓ちゃんみたいな頼れる兄貴分に見出だされなさいよ。てらおか果樹園的にも路線はあっちだろ。
それにしても、同年代で私をきみなんて呼ぶ奴は初めてだ。都会の子みたい。まあ先月までほんとに都会の子だったわけだけど。うちの高校にはいなかったタイプで、頭よさそうな喋り方。たぶんネット短歌だって私よりこいつがやっている方が『っぽい』と思う。
こいつは近いうちに私を避けるようになるだろうな。何となくそう思う。他に話す相手ができていけば、周りに合わせるためにそうなるだろう。いま私は地域で納得されないポジションにある腫れ物だから。
だから。
だから私は教えていない。
私が短歌SNSに入り浸って自分でも投稿しているとか、SNS内で段位が上がってきて今度出す同人誌に参加を誘われたとか、そういう話は一切。
秘密は、教えた瞬間秘密ではなくなり、寺岡大輝がこの広い地域に二軒しかないコンビニでどの缶コーヒーを買ったかという情報と同じように地域の隅々まで伝達される。あの子あんなことやってるんだってさ似合わないね頭もよくないのに、という何かがくっつく分だけ缶コーヒー情報よりも面倒だ。
寺岡、強く生きろよ。田舎はめんどくさいんだ。自然と新鮮な農産物それに素朴な隣人きっと素敵よ!とか夢見て都会から移住し、農業も人付き合いも何もかも厳しくてすぐ撤退していく家族を私たちは何度も見てきた。あんたんちはそうじゃないといいな。うまくやれるといいな。うちのクソ親父が態度悪くてごめんね。ああいうのがいるから住みにくくなるんだろうな。
降車ポイントが近付いてきて、雨はまだざあざあ降っていたけど自動車学校を出た時のどしゃ降りよりは弱まったかな、と窓を見ていると、寺岡大輝が「あ」と言った。
「傘ないの?」
「うん、忘れてきた。いや嘘。忘れてきたじゃなくて、今朝父親と喧嘩したら父親が折った。だから今この世に私の傘はないんだよね」
「えぇ……お父さんつよいね……」
今朝出掛けにクソ親父が、何でまだ免許取れないんだ俺の時は適当にやっても一月で仮免取れた、とか絡んできたので、通い始めてまだ一月経ってないし手を折ってて技能受けられないんだから仮免試験受ける資格もない、と言ったらなんかすごいキレて怒鳴られて傘取られて折られたわけなんだけど、自分の父親がバカなことや傘を折られたことよりも、そのあと言われた言葉の方が心にこたえた。
――何にも出来ねえし可愛げもねえ、お前はほんとに失敗作だったな。近所に何て言われてるか知ってんのか。恥かいてんのは俺なんだよ。とっとと嫁にでも行ってくれた方がまだ助かる。行っても役に立たねえんだろうけどな!
私に対する蔑みを、あいつは隠そうともしなかった。
小さい頃から両親には、「うちは女の子だけだからお婿さんに来てもらってお前が果樹園をやるんだよ」と言われていた。私は必要な子供。私がいなければ果樹園を継ぐ人はいない。だからどんなことがあっても親は私を捨てはしないと思っていた。私が家を捨てることも許さないだろうと思っていた。だって笈川さんの亮ちゃんのことはあんなに悪く言っていたのに。
それなのに、さっさと嫁にでも行けと言う。
私が出ていっても構わない、もう要らない、という意味だ。
傘じゃなく私が何かに叩きつけられ、手の骨じゃなく私の心が骨折している。
朝からずっと、それで私は気持ちがびりびりしている。
ありがとうございましたと運転手に言ってバスを降りようとすると、降り口の外でぽんと音がして寺岡大輝が傘を開き、入んなよ、と言った。
バスにはまだ他に人が乗っていて発車を待たせるわけにもいかないから私はとりあえず降りたけれど、微妙に傘には入らない所に立って、いいよ別に、とだけ言った。背後でバスが水音を立てて走り出していく。
「いいよって、すごい降ってるし、濡れるよ」
「いい。悪いし」
「だってどっちにしても五百メートルくらい一緒に歩くんだよ。きみが入らないなら俺も傘ささない」
「え、意味わかんない」
「こんなに降ってて自分が傘持ってんのに、同じ道の友達入れないとかないよ。ほらもう濡れてるから」
こちらに傘を差し出すから、今度は寺岡大輝の肩と鞄がたちまち濡れていく。それはまずいと思って私は、わかったわかった、と慌てて言って一歩近付いた。目は合わせられなかった。
「……ごめん」
「えー、言うならありがとうとかでしょ。謝ることじゃないじゃん」
本当に全く何も責めていない口調で言って、寺岡大輝は歩き出す。多分、私のために少しゆっくり目に。
私は雨に当たらない傘の下で、ありがとう、と低い声を出した。
頭の上では雨粒がばたばたと音を立てている。骨折している右側の腕や肩に、傘を持つ寺岡大輝の左腕が触って少しあったかい。他人の体温は久し振りだ。高校時代を思い出してしまう。友達と文字通りいつもくっついてぎゃあぎゃあ騒いでいたあの頃。みんな一緒だと思っていられたあの頃。
私が失ったもの。不意にそう思った。
どうしようもなく生きているだけで、結構簡単に失ってしまったもの。
「元気ないよ。お父さんとの喧嘩、ひどかったの?」
ああ本当に、友達みたいなことを言うなあ。今なら泣いても暗いし雨だしばれないかなあ。でもそういう甘い
答えられない。あんなわけの分からないおっさんの話をしたくない。愚痴ったらきっと面倒くさい奴だと思われそうだし。
だから秘密にしておく。話さない。
何もかも打ち明け合うことで友情の証にする息苦しさに気付いてしまった。何でも話すのが友達だなんて今は思えない。
丁重に断ったのに寺岡大輝は私の家の入り口まで送ってくれて、妙にはしゃいだお母さんが上がってお茶でも、いや夕食を、と言うのをシャープかつ感じよく辞退して帰っていった。お母さんは、うちの食卓に寺岡大輝が登場して無事に済むと思っているのだろうか。アホではないか。あのクソ親父がいるというのに。
開け放した引き戸を通って居間に入ると、当のクソ親父は早くも発泡酒を開けている。顔色を見るとまだ酔ってはいない。
お隣の寺岡さんの息子さんが
「都会もんはチャラチャラしてそういうことだけは抜け目ない。こいつもこいつだ、何で断らねえんだ。寺岡の息子だぞ。俺の立場が分かってるのか? そういうところからつけ込まれてなめられる」
後頭部がぎゅうっと締め付けられるように思考が苦しくなった。いつものだ。これはいつもの『閉じ』のサイン。
こんな風に嫌なことを言われると、考えるのをやめて言われ放題の嵐が去るのを待ってそれで生き延びる、ずっとそうしてきた。その苦しさのなかで適切に謝ったり反省の素振りを見せる手際を手際と思わせずナチュラルに見せることが誠意の見せ方だと要求され続けてきた。
でも私はもう疲れた。
どうしてそうしなければならないのか分からなくなった。
秘密を言おうと思った。これまで言わずに来たこと。本当に全然言わなかったから多分そんな気持ちが私にあることさえもクソ親父は知らないであろうこと。
秘密を言うと、たちまちみんなに知られ、手のひらを返されたらそのまま急所として攻撃されて私は社会的に滅びに近付く。
言わない方が賢いんだろう。
でも賢さの意味が私にはもう分からない。
分からなくなったから今日は、言おうと決めていたことがある。
「ちょっと何言ってるか分かんないんだけどそもそもお父さんが私の傘折るからこうなったんでしょ」
彩乃、とお母さんが焦った風に言った。嫌だ。こうしてクソ親父の機嫌を損ねるなと常にメッセージを発してくる。察してなんかやるか。今日は察してやらないって私は決めてきた。朝からそうすると決めてきた。
何だと、みたいなことを薄ら低い声で言ってクソ親父がゆっくりこちらを見上げた。何だととは何だ。こっちの台詞だバカ野郎。
「あのさあ、お父さんにとっては、私が大雨の夜道を一キロ歩こうが途中で行方不明になろうがどうでもいいのかもしんないしそれならそれでもういいけど、人の親切を悪く言う必要はなくない? あいつ、わざわざここまできて半分道戻るのに。引っ越してきてこのかた散々文句つけてるクソめんどくせぇおっさんの娘なの知ってても何も言わずに傘に入れてくれる人の方がどう考えても立派でしょ。
お父さんは毎日寺岡さんちのことごちゃごちゃ悪く言うけど、あいつは自分の親が何言われてるか知らないはずないのにお父さんのこと何にも言わないよ。どっちが大人か分かったもんじゃないよね」
彩乃よしなさい、彩乃、とお母さんが何度も言う。次第に小さな悲鳴のように。彩乃ッ、と
育ててくれたのは感謝してるけど、クソ親父が地元国立大学しか受けさせないって言い出したときお母さんは何も言ってくれなかった。それまで長い間、地元私大の方に行く前提の話をしていたのに。高二の時は、オープンキャンパス行かなくていいの?とお母さんの方から言ってきたのに。あんたが大学に行くお金はちゃんと貯めてあるよと言っていたくせに。裏切り者。
私は郵便局の白と緑の模様が入った封筒をテーブルに放り出した。
「あとこれ自動車学校のお金、とりあえずある分だけ十二万返す。いま住み込みのバイト探してるから、免許取れ次第この家を出てってそっちで働くことにした。残り二十万はそれで近いうちに返すし、四月一日から家出るまでの食費とか光熱費もつけて返す。ただ骨折治るまでの医療費はそっちで持って。労災みたいなもんでしょ。
あとは勝手に歳取っていくといいよ。私は帰ってこないから。笈川さんとこの亮ちゃんが果樹園継がないのが考えられない、親が甘やかしたんだ、育て方を間違ったからだってお父さんずいぶん言ってたけど私も果樹園継いだりはしない。たぶん親が育て方を間違ったんでしょ。自分の悪口言って歳取っていけばいい。
話は以上。夕飯食べたいからどっか行ってくんない? 顔見てると食べ物が不味くなる」
さすがにかなりの勇気を要したこの後半を言い切ったところで、左の頬を引っ叩かれた。お母さんに。クソ親父は何も言わずに座ったままだ。
絶対に泣いてやるもんかと思った。これも今朝からそう決めていた。
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