二 承認
そもそも、ぴちぴちの十八歳女子である私がなぜ春も盛りの四月頭に、長い日よけつき帽子に腕カバーというダッサいカッコで脚立に登って桃の受粉なんかしていたかというと、その果樹園は私の両親のものであり、桃の受粉は現代でも手作業の必要な仕事であり、果樹園の娘の私が受験に失敗してただ家にいるのでこれを使えばパートに出す給料が一人ぶん浮くとクソ親父が判断したからだった。
受験に失敗と言ったって、何も予定が狂ったわけじゃない。落ちることは最初から明白だった。
私はこのド田舎の小学校から持ち上がりみたいな公立高校に通っていて、卒業後は一番近い町の私大に行けたらいいなあと思っていた。私の成績でも入れそうな偏差値
ところが、私が高三になってから父親は急にこう言い出した。
――私大なんて高すぎる。無駄なことしなくても、うちから通える国立があるだろ。あそこに行けばいい、お前は中学では成績よかったんだから。
あそこに行けばいい、って何だ。お前は自分の娘の『現在の』成績を分かっているのか?
確かに町には国立の単科大学がひとつあるが、うちの高校からは毎年一人二人しか入らない。偏差値は五十、ちゃんと勉強していた人間の数値だ。私はそうじゃない。
中学で成績がよかったなんて三年も前の話だ。そのあと全然勉強してない私は全然国公立レベルじゃない。
とっくに捨てていた理数も含めセンター試験を五教科とも受けて六割とか七割とか取るなんて無理だということも、あのクソ親父には何度言っても理解されなかった。
慌てて志望を書き込んだ全国模試が返ってきたら当然E判定。そもそも二教科か三教科でいいと思っていたから高三の段階になってから急に五教科全部受ける体力そのものがない。国公立受ける成績じゃねえよと担任も正直に言った。
そんな具合に勉強のできない私がいきなり勉強始めても焼け石に水というか、のれんに腕押しというか、とにかく「うそだろ」みたいな感じで何の手応えも成果もなく高校三年生の時間は過ぎていき、センターも二次も相変わらず何を聞かれてるか分からないまま終わり、入試には当然落ちた。
卒業式して不合格で、直後にインフルエンザにかかって、高校最後の三月はぐちゃぐちゃに丸められたゴミみたいに潰れて終わり。
後に残されたのは、もはや高校生でもない、大学生でも新社会人でも浪人生でもない、全くの、無印の私だ。
クソ親父には「ちゃんと本気でやらねえからだろ、こんなにできないとは思わなかった。お前には失望した」みたいな勝手なことを言われたけど、本気でやったところで元がバカ高の底辺なのに無茶苦茶言い出したのそっちだろ、としか思えない。
そうした何者でもない私が実家に落ちていて、することもねえんだったら手伝え、ただ飯食わせるつもりはないからな、とか何とかクソ親父が言い始め、強制的に受粉作業をやらされた結果がこれだ。
利き手の右を骨折。最の悪。
高校の友達とは全然遊べないままバラバラになってしまった。インフルエンザで寝込んでいた私だけ残してみんなは卒業旅行に行き、新生活の買い物をして、私はそれをただSNSで見ていた。
四月になってからはそれぞれ実家から学校や職場に通ったり、違う町で下宿して進学している子もいる。その様子がSNSのグループにひっきりなしに流れてきて、そのたびに私は内出血を上からぐりぐりと押されるような痛さを感じた。新しい身分になったみんなと、何者でもない私。
何なら彼女たちは思い出したように、「彩乃こっち出てこれないの? 毎日ヒマじゃん。代返してw」くらいのことは書いてくる。大学合格発表の三月七日までだったら私も、くそ暇まじ死ぬウケる(笑)くらいの反応をできたと思う。
でも今は。
何者でもない敗残者の今は。
私はこれをやる役目でいま生きている、と言えるものが何もない私は、自業自得で戦力外になった役立たずと見なされたまま日がな一日自宅にいることに耐えられず、ほぼ毎日自動車学校に通うようになった。
田舎の民にとって運転免許は命綱だ。とにかく公共交通機関が弱く家同士が遠く、スーパーも郵便局も病院も役所も遠い田舎では、自力で車移動できない時点で詰む。移動できなければ何もできない。
だから私が大学に行けないと決まった時点で父親は、「うちの軽トラくらい使えないと戦力になんねえんだからすぐ免許取れ」と言った。しかもマニュアル。だるい。
でも、家から出掛けていく口実も、直近の現実的な目標も、今は運転免許しかなかった。
だから私は足繁く自動車学校に通った。
徒歩と無料送迎バスで、片道四十分。必要より早く行き、必要より遅く帰った。家に帰りたくなかったから。
右手を折っているから実車技能は受講できない。学科だけをひたすら潰していくことになる。その学科も内容は別にどうでもよくて、私は実質、自習室に通っているようなものだった。
自習室は私語禁止だし机に一人一人パーテーションがあるので落ち着ける。うっかり知り合いに会って声をかけられたりしたくないので、そこに籠っているのが一番よかった。今なにやってるの?なんて最悪だ。喋りたくない。
利き手が使えないので食堂で箸を使うことはできず、校内の自販機で買う菓子パンとお茶が昼食。自習室のなかで一番見通しの悪い奥の角席に陣取って、私はスマホを手に考え続ける。
勉強はしていなかった。
何をしていたかというと、パズルだ。音の数を揃えるパズル。多少ルールから外れた数になっても構わないが、全体の姿が落ち着くように組むには少し考えなくちゃならない。全体で何かの意味になってた方がいいからだ。
これは、高校の仲間たちには教えていない唯一の趣味だ。ショートソング。短歌。五七五七七の短い作文みたいなもの。
私はスマホに短歌SNSのアプリを入れていて、他人のうたを見たり、自分でも投稿したりする。そのうち自作に添えられた星マークの横に数字が増えてくる。いわゆる『いいね』だ。私も、他の人の歌をいいねぇ、と思えば指先で星をつついて数を増やす。
いいねぇ、と思わないものがこの三月以来増えていた。新入学・新社会人・受験生・浪人生のうたは全部鬱陶しくて、見たくもない。恋愛のうたも、妊娠出産育児のうたも
役割のある人生を歩んでいる人々のことばが私の内出血をぐいぐい押してくる。幸せそうな顔で。星を押せない。星なんかいらねぇだろと思う。たとえ星がなくても許してもらえる役割があんたらにはあるんだろ。
モノのうたしか読めなくなっていることに自分でも気付いている。気持ちが出せなくなっている。私がどんなに決まりの悪い惨めな状況かバレてしまうような気がする。かといって、嘘の気持ちをうたにすることもできない。
そもそも私がガラでもない短歌なんかを始めたのは、ネットでバズった一首を見たのがきっかけだ。ぽんぽん飛ぶ言葉が面白い、と思った。
気まぐれにそのタイムラインを追うと、大量の素人がネットで短歌を詠んでいることがわかり、「背が伸びました!」みたいな単純なうたが新聞の短歌欄に選ばれていて作者は常連で子供、なんていう話題も見えてきた。
彼らはまるでただ三十一文字にした呟きをお気に入りのシールみたいに振り撒いているように見えた。今ここにいるわたしのきもち、としか言えないような言葉たちを、短歌だよ、といってぽんぽん放り出していた。
短歌というのは与謝野晶子とか正岡子規とかいう感じのゴリゴリのプロが芸術品として作っているものだとばかり思っていたのに、この人たちを見ていると専門的な勉強の話題もそんなにないし、辞書を引かなくても読めるし、何のことはない、ただ自分の思ったことを三十一文字くらいに書けばそれで受け入れられるんじゃないか――そう思えてきた。
祖母がスイカに塩を振るから真似した、というだけの三十一文字で中学生がたくさんの『いいね』をもらっている。
フレンチトースト成功したから今朝は最高、というだけの三十一文字で還暦の男性が話題の中心になっている。
だったら私の気持ちも受け入れられるんじゃないか。
平凡でも自分なりに文字にする気持ちがあるだけで、褒めてもらえるのなら。
つまりは誰かに『いいね』されたかったのだと思う。
受験勉強というものが結局何をしたらいいのか全く分からずに迎えた高三の秋、初めて投稿したうたに『いいね』の星が灯ったのを見た瞬間、身体はぐったり疲れているのに頭が夜空にすっぽ抜けていきそうな高揚があったのをよく覚えている。
それから半年、状況は激変した。他の人たちの明るいうたに痛いところを連打されて鬱々とした気分になりながらも、字と音のパズルを組んで投稿することがやめられないでいる。
理由は分かる。
私には、他に評価される場所がないからだ。
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