「いつからわかってた?」

「いや、薄々そんな気がしてただけ。確証はなかった。勘だよ」

「そっかそっか。勘かー」

「出てくる問題の題材は全部、海原がおすすめだって教えてくれた映画だったしね。それにあんな話をした直後に都合よく黒い学生証が届けられたのも、出来すぎた話だよ」

「むー。まあそれで気付いてくれるようにわざとヒントを残したってことさ!」

「ふうん?」

「な、なにさ! 文句あんの!?」

 千歳は冗談めいて頬を膨らませた。

「あと、そうだね。海原って特徴的な字を書くよね」

 善は屋上に来るまでに辿ってきた暗号の文面を思い出していた。最初、下駄箱に入れられていたメッセージ。「正しい」という字を、善は始め「正てい」と読んでしまった。既視感があったのは、千歳の書く文字だったからだ。

「あー……昔から結構言われるんだよね……『し』とか『に』とか『ん』とか。左上から始まる系のひらがな全部外に跳ねちゃうの」

「手書きで書いてなかったらばれなかったかもね」

「私は手書きの文字が好きだから」

「意外と古風だ」

「古風いうな古風」

 千歳はまたしても頬を膨らませた。

「それで、これ、どうしたの? まさか、海原が秘密組織のメンバー?」

 善は黒い学生証をポケットから取りだし、とぼけ気味に言った。あくまで学生証の真相については知らない体の口ぶりである。声に驚きと戸惑いのニュアンスを混ぜながらも、冷静な部分も残していた。海原が何を企んでいるのかはわからない。しかしこの黒い学生証が本物であったことだけは確かだ。どこでどうやってこれを手に入れたのかを聞き出す必要がある。

「ほんのドッキリだよ」

「ドッキリ?」

「そうそう。御子柴ちょっとああいう都市伝説に反応薄いとこあるからさ、現実に起きたらどんな反応するかなーって。興味湧いたから試しちゃった」

「わざわざ本物まで用意して?」

 そう切り返すと、千歳は意外にも目を丸くして「うぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「本物? それ、本物なの?」

 彼女は飛びつくようにして善の手から黒い学生証を取り、目を細めてしげしげと眺めた。

「本物なのか………よくできてるとは思ったけど」

「どういうこと? それ、海原が用意したんじゃないの?」

「暗号とか諸々を用意したのは私だけど、学生証は拾った」

「拾った?」

 予想だにしない答えだった。

「うん、拾った。学校の中散歩してたら落ちててさ。すっごい本物っぽかったからこれをつかって御子柴騙してやろーって思ったんだけど、まさか本物とはねー」

「なんだそれ……」

「いやー恐れ入った恐れ入った。本物だったなんて」

「試そうと思わなかったの? 本物かどうか」

「ぜーんぜん思わなかった! あ、そっか。本物なら学食無料?」

 善は頷いた。

「うわ──! 試しとけばよかった──! ちっくしょ──!」

 千歳は本気で悔しがっているかのように足踏みをする。一方で善は困惑していた。彼女の発言が嘘のようには思えなかった。しかし本当だとも思えなかった。本物とは知らず、いたずら目的で善に黒い学生証を送りつけた、なんて。

「──でも黒い学生証が本物ってことは、秘密組織も本物ってことだよね? もし拾った学生証を勝手に使ったってバレたら…………記憶消される」

 千歳は顔を青ざめさせて、口元をリボンで覆った。

「……あ、もしかして御子柴アウトじゃない? 本物だって分かるってことは、勝手に使ったってことだよね? 学生証」

「まあそうだけどさ」

 善自身が千歳の言うところの秘密組織である零課の人間だ。何も危惧する所はない。しかしあえて善は動揺したような顔を浮かべた。

「し、知らない……私、しーらない!」

 震える声でそう言うと、千歳は善のブレザーの胸ポケットに黒い学生証を押し込む。まるで病原菌を移すような仕草。彼女は制服のスカートを翻し、くるりと踵を返した。

「あっ……ちょっ!」

 善が慌てて呼び止めるのも聞かず、小走りに塔屋の中に駆け込んでいく。

 屋上に一人取り残された。わけもわからず、流れる風に天パが靡いていくの感じていた。疾風怒濤という言葉が頭に浮かぶ。畳み掛けるように言ってすり抜けるように屋上を出ていった千歳。ここに至るまでの一連の出来事は一体何だったのだろう。なぜ彼女は自分をここに誘導したのか。面倒な暗号まで用意して。本当にただの悪戯だったのか。

 胸ポケットからチタン製の学生証を取りだし、空にかざしてみる。日光を飲み込むような深い黒色の学生証。千歳はこれを拾ったと言った。いったいどこで。それを聞き忘れたことに、善は今気がついた。

 とりあえず美影さんに報告しよう、と思って善はスマホを取りだした。

 そこでふと2年4組で彼女と交わした会話を思い返す。あの時美影は、善が電話をしたことについて「何のことか分からない」という答えを返してきた。追及する前に彼女は去ってしまったが、あれは一体どういうことだったのか。

 電話の呼び出し音が遠くで鳴っている。3コール以内に出るはずなのに、電波の先の桐生美影は一向に電話を取らない。違和感がある。

「──もしもし」

 やっと出た美影の声は、やはりいつもの通り平らな声だった。

「御子柴です」

 善は右手に黒い学生証を弄びながら歩き出す。彼もまたひとまず屋上を出ることにしたのだ。

「黒い学生証の話か」

「はい」

「何か進展があったのか」

「ええ。とりあえず学生証を僕に送りつけてきた人間は判明しました。クラスメートの海原千歳です。1年3組、出席番号6番。元子役で、1年の間ではそれなりに有名です」

「元子役、ね」

「学生証自体も現在僕が確保しています。海原が自分で作ったり、誰かから譲り受けたりしたわけではなく、校内で拾ったものみたいです」

「そうか」

 善は塔屋の扉を開けた。明るいところにいたせいだろう。薄暗い塔屋の中は一瞬緑色に染まり、何も見えなくなった。

「とりあえず先決は学生証の出処を探ることでしょうか」

「その必要はない」

 声はすぐ近くから聞こえてきた。目の前に誰かが立っていた。携帯電話を耳に当て、こちらを見ている。美影だろうか。逆光で顔がよく見えない。

 やがて薄暗さに慣れた目がその人影をはっきりと捉える。そして次の瞬間、善は驚きのあまり足を止めた。

 海原千歳が立っていた。



「どうした。らしくないな」

 電話の向こうで桐生美影の声が言い、正面で海原千歳が全く同じように口を動かしていた。

「どういう……」

 一歩、二歩と後退し、善は入ってきたばかりの塔屋から出た。千歳がゆっくりとした足取りで詰め寄ってくる。電話は切れていた。無機質な音が耳の奧に届くばかりだ。

 善は千歳の特技を思い出した。声真似だ。昼休みにその話をしたとき、千歳は美影の声真似をしてみせた。学食で電話を掛けた相手は千歳だった。2年4組の教室で会った美影が何も知らなかったのは当然だった。そして電話に出るのが遅かったのは、美影本人ではないから。電話番号が変わっていたのは、本人に電話を繋げないため。

 塔屋と屋上との微妙な段差にこけそうになる。1%たりとも予期していなかった可能性に、善は久しぶりの動揺を味わっていた。

「聞いちゃったー、聞いちゃったー。ぜーんぶ聞いちゃった」

 軽やかな笑みを浮かべた千歳に、善は心臓がぞわりと震えるのを感じた。

「まさか御子柴が噂の組織の一員だったとはねー。おっどろきー」

 へらっ、とまた千歳は笑う。2つ結びの黒髪が、愉快そうに肩の上辺りで跳ねている。何を企んでいるのか分からない顔だった。

「生徒会執行部零課。まさか実在してたなんて」

「……!」

 次の瞬間、善は千歳に飛びかかった。肩を掴み、塔屋の壁に彼女を押しつける。一応の手加減はした。それでもちょっと乱暴だった。

「なに? 壁ドン?」

 そんなロマンチックなものではない。

 メガネの位置がずれるのも気にせず、善はブレザーの内ポケットからペンライトのような細長いガジェットを取りだした。

「なにそれ?」

「……記憶除去装置だよ」

 課の存在を一般生徒に知られたとき、メンバーの顔が割れたとき、仕事を見つかったときなどに使う。強力な光の点滅と、80万ヘルツの音により一定期間の記憶を相手から削ぎ落とす、らしい。善自身としてもこれを使おうとして手にしたのは初めてだった。

 装置の先端を千歳の顔に向ける。人差し指にほんのわずかに力を込めるだけで、彼女の記憶の一部を消すことが出来る。

「消すの? 私の記憶」

 善は躊躇った。

 するとそれを見抜いたかのように千歳は表情を変え、自分の肩を掴んでいた善の腕を解いた。拍子抜けするほど呆気なく、彼女は善の手から逃れる。力はない。柔よく剛を制すとはまさにこのことか、と間抜けな感想を漏らしている合間に、右手の記憶除去装置まで奪われた。

「くっ」

 善は慌てて千歳を捕まえ直そうとしたがもう遅い。次の瞬間華麗に足を刈られ、生温かい屋上の地面に転がされていたからだ。

 仰向けになった身体に千歳が馬乗りになってくる。組み方が上手いのか、自分よりも小柄な千歳を善はどかすことができない。

「んー、これどう使うんだろ?」

 彼女の手には記憶除去装置。きょろきょろとさまよう指が、柄の部分に着いたダイヤルに触れる。

「お? これかな?」

 上方向に何度もクリックされる。彼女の親指が動かすダイヤルは、装置の出力を調節するものだった。下にクリックすれば出力は弱くなり、上にクリックすれば強くなる。千歳はダイヤルが動かなくまで上方向にクリックした。最大出力である。

 装置の先端が目玉のようにこちらを見つめる。

 善は組み伏せられながら拳を握った。おそらく今ここで千歳の脇腹辺りを殴りつければ、彼女を押し退けることは出来るだろう。顔でもいい。とにかくどこかに1発。1発だけで十分だ。

それ以上は必要ない。

「記憶消しちゃうね?」

 確認するような口調で千歳は言った。その顔に一撃。ただ拳を握って振るうだけだ。

 できなかった。クラスメートを、友達を、殴れるわけがなかった。

「ばいばーい」

 スイッチの音が聞こえた。目の前は、瞼の下からでも分かるくらい真っ白に染まった。

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ゴミ溜め、墓場、パンドラの箱、あるいは宝の山 桜田一門 @sakurada

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