リケサ登竜記

アルキメイトツカサ

●全高2999メートル。登竜難度☆☆☆☆☆

岩竜エスパーダ


 朝の陽射しが爽やかに瞼に届き、ベオウルフは目を覚ました。上体を起こし、毛皮を剥ぐとテントから外へ出る。

 ひんやりとした霧の中の樹林帯はとても静かであった。耳を澄ませばようやく小鳥の囀りが鼓膜に届く。岩と岩の間を水が流れる音もほんのわずかに。

 昨夜から獣避けに燃やし続けていた焚火の煙が鼻を刺す。

 そのとき、足下が揺れ、少しだけベオウルフの金髪が風でそよいだ。


「今日も竜は安定している。この霧さえなければ、絶好の登竜日和なのだが」


 眉根を寄せていると、白乳色の霧の中からゆらりと人影が現れた。筋骨隆々とした体格の男だ。彼はベオウルフをその研ぎ澄まされた瞳に捉えると、ニッと笑った。


「よう、ベオ。よく眠れたか?」


 鍛えられた鉄が喋ればこうなるだろうという声に対して、ベオウルフは欠伸を噛み殺して答えた。


「ジョルディ、おはよう」

「ほらよ、朝飯だ。今しがたそこで獲ってきた」


 男――ジョルディの手には一本の杖が握られていた。その先端には、胴体を貫通させられた一羽の兎がぐったりとしている。


「パライソ竜生林に棲むパライソ兎だ。焼けば身は少ないものの、鶏肉のような味がして美味い」


 そう言いながらジョルディは携帯していたナイフで兎の体を捌き始める。ベオウルフは思わず鼻を抓んだ。パライソ兎の死臭は爽やかな朝の香りに混ぜられた不純物だ。ジョルディはベオウルフの眉目秀麗な顔が歪むのをものともせず、焚火に添えられていた鍋を利用して調理していく。

 焦げ目がついたパライソ兎から脂が溢れ、その肉塊を輝かせた。ジョルディがベオウルフに朝食を手渡す。


「これから過酷な行程が続く。滋養強壮のためにもしっかりと食べておくといいぜ。万が一のため、保存食用として加工しておこう」

「ありがとう、ジョルディ」


 びゅうっ。

 強い朝の風――通称『岩竜の欠伸』によって、パライソ竜生林の霧が晴れた。

 ベオウルフは天を仰ぐ。

 雲一つない青の世界。燦々と輝く陽の宝石。それを咥えようとするかのごとく、鋭く伸びた顔があった。

 言葉が見つからないほど雄々しく。

 思考を霧散させるほどに神々しい。

 いかに人間が小さな存在であるかを思い知らせる存在が、そこにいる。


 岩竜――エスパーダ。

 全高2999メートルもの巨体を持つリケサ王国で最も登竜が困難な竜。

 ベオウルフとジョルディを背に乗せたとも知らず――感じないのかもしれないが――エスパーダは巨大な眼を閉じ、何万年もの間夢を見続けていた。

 ベオウルフも彼――彼女かもしれないが竜の性別を判別する方法はない――に倣い、深く目を閉じてここまでの経緯を思い出していた。




「私が……エスパーダに登るのですか?」


 リケサ王国宰相アンピスからの突然の呼び出しに応じた騎士団長ベオウルフを待っていたのは、その心胆を凍りつかせるような任務であった。


「お前の働きにより、我が国の情勢はとても安定している。略奪を行ってきた竜賊も多くが討伐され、民たちからの評価は高い」

「それは良いことではありませんか」

「平和になったからこそ、だ。竜賊が滅ぼされたからこそ、竜に登ることを道楽としている者が多く生まれていると聞く。多くの竜が彼ら『リケサ登竜会』なる組合に登竜されているのだ。その勢いは件の前人未到の竜、エスパーダにも及ぼうとしている。ベオウルフ、お前には彼らより先にエスパーダの頭上に到達し、『逆鱗』を入手してほしい」

「つまり、素人集団に登竜されては王国の威信が脅かされるので、騎士である私がエスパーダを攻略したという実績が欲しいと?」

「そうだ。騎士とは、民を守るためだけではなく、道を切り開く者でもある。誰も登竜したことのないエスパーダの頭上に、王国の足跡を残すのだ。失敗は許されぬぞ」


 よくも簡単に言ってくれるものだ、この禿親父。

 そう内心で悪態を吐かずにはいられない。

 ベオウルフも自信の評判は熟知しているつもりだ。

 ベオウルフは騎士ではあるが貴族の出身ではない。ごく普通の下町で育った、ごく普通の平民である。だからこそ、他の騎士には負けぬよう人一倍勉学に励んだし、武術も身に刻んだ。そうしてリケサ王国の騎士の一員として認められたのだが、これが一部の家臣には気に食わないらしい。

 王国の威信を守るためと言うのは建前だ。アンピスはエスパーダ登竜という無理難題を押し付け、ベオウルフを始末しようとしているのだろう。


 複雑な思いを胸に、ベオウルフは任務を受けた。

 何としてでもこの難題を乗り越え、アンピスに一泡吹かせねばならない。そして、他の平民出身の騎士たちにも勇気を与えねばならない。

 揺るぎない信念の炎が燃え滾る。


 だが――ベオウルフは体力こそ人より優れているが、登竜の知識はからっきしである。竜賊討伐の任務のために竜へ赴くことはあっても、それは腰の位置よりも標高が低い。そして、相手が岩竜エスパーダとなればなおさらだ。

 そこでベオウルフは優秀なガイドを一人同行させることにした。

 登竜の知識も豊富で、ことサバイバル技術にも優れた青年。

 ジョルディ。

 同じ下町出身の、肝胆相照らす男。


 ベオウルフはジョルディとともに尻尾から登竜を開始し、任務は現在進行中なのである。




「どうした、ベオ。ぼうっとしていると、命取りだぜ」

「すまない、ジョルディ」


 ベオウルフは兎の肉を噛み千切り、十分に竜の幸を味わったあと嚥下する。


「さあ、今日の竜行計画会議だ」


 懐から地図を取り出す。それは、この巨大なエスパーダの体を写し取ったものである。登竜口である尻尾や背中は詳細に描かれているが、首から先は空白だ。それは、観測したものが皆無である証。


「俺たちが今いるのはここ、パライソ竜生林。今日はここから首筋を目指す。そこで野営し、次は頭上だ」

「わかった、ジョルディ。よろしく頼む」

「いいってことよ」


 とかくジョルディは頼りになる男だ。面倒見がよく、幼少期にガキ大将に虐められていたところを助けてくれたのをいつでも思い出す。そんな彼が快く無理難題であるエスパーダ登竜に付き合ってくれた。ベオウルフは昇天する心地で感謝したものだ。


 テントを片付けて、ベオウルフは道具類をザックに詰め込む。

 登竜者の神器とも言えるザックもまた、ジョルディの助言によって購入しカスタマイズしたものである。いわく、荷物とは肩で背負うものではなく腰で背負うものだと。バンドを伸ばして腰で定着させているので、負担は少なくなり疲労の蓄積を抑えることができた。

 このザックには主に食料や飲料水を詰め込んでいたのだが、過酷な竜行ですぐに食料は尽き、今朝のように自給自足が続いた。飲料水もほとんど飲み干してしまい、竜から湧く体液をアテにしているほどだ。

 他にも、ジョルディの意見を取り入れて装備したものはある。

 ベオウルフの登竜靴もまた今回のための特注品だ。長時間の吟味を経て採用したのは、竜のようなごつごつとした岩肌でも難なく進めるキャラバン製の登竜靴。衝撃を吸収しどんな地形でも対応。さらに鉄板も含まれているため剛性も良い。くるぶしを完全に覆っているので捻挫対策も兼ねてある。

 また、身に纏っているのは雨具に定評のあるエルアグア組合のレインウェアだ。竜の上では気候も変わりやすく、エスパーダのように高い竜だと雨風に晒されるのは常である。マントのようなタイプだと風でめくれ、雨粒が肌を殴るのできちんと上下に分かれたものをベオウルフは着用している。そして頭には兜。岩竜の岩の皮が砕け、落石となる可能性は高いので、必須装備となっている。

 最後に、登竜道具として欠かせないものがストック――杖である。

 推進力の向上に衝撃吸収、足場の安定、体の負担を減らし、登竜のペースの維持にも役立つまさに賢者の杖だ。

 鎧に身を固めた普段の騎士の姿とは違う自分の姿を見つめながら、ベオウルフはジョルディに感謝する。


「ベオ、しっかり俺に付いて来いよ」

「ああ、わかっているとも」


 二人はストックを握り締め、歩き出す。ちょうど鳥たちの合唱が彼らを送り出す合図となった。生き物の上でありながら、大地と変わらず草木が生い茂り、そこに小動物も住まうパライソ竜生林。長閑ではあるが、この景色を味わえるのはわずかな間だけ。この林を抜けた先に待ち構えているのは、落ちればその時点で死亡が確定する悪路である。


「……ここが『三つ子瘤』か」


 林を抜け、ベオウルフは絶句し、身をすくませた。

 首筋に向けて、突起物のようなものが三つ並んでいる。

 これこそがエスパーダの難所のひとつ『三つ子瘤』である。

 ベオウルフが足を震わせていると、岩竜の皮が砕けた岩石が弾かれ――そのままはるか眼下の前脚に向けて落下していった。

 反響する音は聞こえない。それほどまでの標高に、二人は今立っていた。


「ベオ、ストックをしっかり握って足場を確保だ。コイツの寝心地次第じゃ、大きく揺れて身が放り出されることもあるからな」


 そう言ってジョルディは果敢に『三つ子瘤』へと向けて歩を進める。

 ここから先は小さな竜を昇り降りするような感覚だった。

 大きく下ったかと思えば、さらに急登かつ岩場を上がることになるのだ。


「はあっ……はあっ……」


 竜賊と戦っているときよりも体力の消耗は激しい。肺が締め付けられるような痛みに苛まれながらも、ベオウルフは前を向き、ジョルディの背を見つめて歩き続けた。心が折れそうになるものの、そんな彼を引っ張ってくれるのもまたジョルディの存在だ。


「ベオ、ここは崩れやすくなっているようだ。俺と同じところに足を置け」


 何気ない言葉の一つ一つが疲労の募るベオウルフの助けとなる。一人でエスパーダに挑んでいれば、ベオウルフの心はすぐにすり潰され、亡霊と化していたことだろう。

 少しずつではあるが確実に進み、二人は三つ目の瘤をも登り切った。


 体は汗でぐっしょりと濡れ、寒気が襲い掛かってくる。


「ベオ、すぐに汗を拭くんだ。ここで風邪でも引いてしまえば、治るのはあの世かもしれねえぞ」


 ジョルディがザックから手拭いを取り出し、ベオウルフの汗を拭きとった。


「何から何まですまない、ジョルディ」


 弱いところを見せるわけにはいかない。ベオウルフは一層足腰に力を入れ、エスパーダの体を進む。


「……さて、『三つ子瘤』を抜けたはいいが……ここからが未開の地だな」

「いよいよ、誰も踏んだことのないエスパーダの頭上へと行くのだからな」


 ふうと息を吐き、二人が前を向いたとき。


「待たれよ」


 死神の手に触れられたような、冷たい言葉が耳朶を撫でた。

 二人の前に誰かが立っていたのだ。ローブを着込み、影で表情を読み取ることができない。男なのか女なのか、老人なのか少年なのか。一切が謎の存在。だが、人であるのは確かだった。


「俺たちより先に登竜客が……? いや、お前は……」

「聖竜教の信者か……」


 聖竜教とはその名の通り竜を信仰する宗教団体である。竜を神格化するあまり、竜の体で暮らし、竜を荒らす登竜者に対しては明確な敵意を持って襲い掛かる。そのため、竜賊よりも恐れられている場合もあるのだ。

 もっとも、基本的には無害。ベオウルフたちにも快く接してくれる……はずなのだが声色にその響きは無い。


「これより先は禁域。足を踏み入れれば、その身は呪われるだろう」

「警告か。ありがたいが、私にも退けない理由がある」

「だな。ベオのプライドがかかっているんだ。はいそうですかと引き返すわけにはいかねえ」


 ぽんと肩に手を置いてジョルディが強く言い放つ。

 しかし、聖竜教信者は怯むことなく、


「これを見ても、そう言い切れるか?」


 すっとその身を翻した。


「うっ……」


 ベオウルフの双眸に、鮮烈な光景が刻まれた。

 ぐったりと、干物のような姿の男が数名仰向けになって倒れていたのだ。ジョルディ以上に筋肉質で、大柄な男たち。そのいずれも、無残な姿となり、訴えるような空虚な瞳をベオウルフたちに向けていた。ある者は頭蓋が岩で穿たれ、ある者の足はあり得ないほどねじ曲がっている。

 正視に耐えがたい光景だ。ベオウルフが吐き気を堪えていると、ジョルディがすっと前に立って言い放った。


「こいつらはもしや、『リケサ登竜会』のメンバーか?」


 ベオウルフたちよりも先にエスパーダ登竜を果たそうとしていたのだろう。

 しかし、失敗した。滑落して命を落としたのだ。

 多くの竜を登り、経験に富んだ彼らでもやはり、岩竜を制することは叶わなかったらしい。


「彼らの後を追いたくなければ、引き返すがいい」

「…………」


 ベオウルフはほんの少しの口を噤んだあと、胸元に握り拳を置いて答えた。


「それでも、私は私を導いてくれる者のためにも、引き返すことはできない。我が名はリケサ王国騎士団長ベオウルフ。王家への忠義のため、誇りにかけて、エスパーダを登竜してみせよう」

「ベオ……」


 ふっとローブの中から息が漏れた。


「その覚悟、しかと見届けた。ベオウルフよ、その勇気に免じ、貴公の遺骸を見つけた際には丁重な竜葬を執り行うと約束しよう」

「なんだそりゃ、俺たちを馬鹿にしやがって……」


 無謀だと思われたのだろう。ジョルディは肩をいからせ、口を尖らせる。


「いいんだジョルディ。聖竜教の者よ、その厚意を私は良しとする」


 それが聖竜教に向けた最後の言葉であった。

 無表情かつ無言で見送られ、ベオウルフとジョルディは未開の地へと身を乗り出す。


「ベオ、怖くないか。あんな成れの果てを見てよ」

「恐れればそれが現実のものとなる。だから私は常に、登竜に成功した自分の姿を想像しなければならない。ジョルディはどうだ?」

「いや、あいつらには悪いがワクワクした。俺よりも凄そうな登竜者でも辿り着けなかった頭上へ行けるかと思うとな」

「それでこそだ、ジョルディ」


 やはり、彼の言葉を聞いていると心が安らぐ。

 すっと体が軽くなったような感覚を覚え、足場の悪い岩地を抜け――二人はついにエスパーダの首筋に到着した。

『三つ子瘤』で時間を使い過ぎたか、空はすでに星たちの劇場だ。


「今日はここで野営だ」


 岩と岩の間に、風を凌げるような空間を見つけ、ジョルディはロープを巧みに使いテントを設営する。ベオウルフは事前にパライソ竜生林で拾った木々を放り出し、火打ち石で着火。これで寒さ対策も万全だろう。


「いよいよ明日には頭上だな」


 保存していたパライソ兎の肉を食べながら、ジョルディが言った。


「ああ。どんな景色が私たちを待っているのだろう」

「リケサ王国全てを見渡せるんだろうな」


 穏やかな表情で、ベオウルフは足下の岩を撫でる。それに反応して、びくっと岩が揺れたような気がした。


「竜とは、なんと不思議な存在なのだろう。私たちよりも長く生きてはいるものの、こうして寝ているだけで何もしない。大陸の果てでは、火を吐く活竜が暴れたと言われているが、それも神話の物語だ」


 竜は人間よりも前に世界を支配していた存在なのは確実だ。だが、何らかの原因で全てが眠りについた。それは全世界を巻き込んだ竜同士の争いだったかもしれないし、世界を覆う災害をその身を以て守ったからかもしれない。


「こうして身を張って人間を試しているのかも知れねえな。俺たちに世界を預けるに相応しいか、その体と心が成熟しているのか、を」

「竜からの挑戦状。辛くもそれが、私の任務と重なったのだな」


 天を仰ぐ。竜の体の上にいることを忘れるくらい綺麗な夜空だった。

 夜の竜はとても冷える。ベオウルフとジョルディはできるだけ体を近付け、防寒着を重ねて寒さを凌いだ。明日に備えて休息をしっかり取ろうと考えたときには、すでに二人の意識は暗い底に落ちていた。



 夜が明け、運命の足音が近付く。

 ベオウルフが目を覚ましたとき、視界は霧で覆われていた。昨夜の星空が嘘のようだ。


「『竜の寝息』による霧か。こいつは厄介だ」

「慎重に行こう、ジョルディ」


 荷物を纏めて、出発。二人は白の世界の中からエスパーダの首筋――頭上へのルートを見上げた。

 それはもはや坂ではなく、塔と表現したほうが相応しいかもしれない。

 断崖絶壁。

 斜度が七十度を超えるこの岩肌を、手と足を巧みに使って登らなければならないのだ。

 これこそが、エスパーダの登竜者がいまだ不在という原因。

 リケサ登竜会の二の轍を踏まないよう、二人は熟考を重ねて登れる場所を探した。

 ジョルディは流れる脂汗を拭き取ってから、


「よし、行くぞベオ」


 首に手を掛け、岩肌を蜘蛛のように登り始めた。ベオウルフも彼に続く。

 少しでも手順を間違えれば命取りになる竜登り。そして、この視界の悪さ。高難度に高難度を掛け合わせた死神のリドルを二人は解いていく。

 わずかな窪地を見つけ安堵すれば、手の掴みようのない滑らかな岩肌に絶望する。

 その繰り返しで二人は首筋を登り続けた。


 何十メートル、何百メートル登っただろうか。

 残念ながら霧が深く、達成感を味わうことができない。ひょっとしたら、登り始めてから十メートルも経っていないのではないか。そんな恐怖心も抱かずにはいられない。

 しかし、ベオウルフにはそんな恐怖を切り裂く銀の剣があった。


「ベオ、大丈夫か」


 もちろん、ジョルディだ。彼こそベオウルフの裡で燃える炎にくべられた薪なのである。

 彼もまた多くの竜を登ってきたが、エスパーダは初挑戦。なのに、まったく恐れることはなく、むしろ嬉々としている風だ。


「ああ、大丈夫だ、ジョルディ……」


 ふっと笑みを交わした――


 次の瞬間だった。


 ベオウルフの手を掛けた岩が、ぽろりと崩れたのは。


 滑落。

 重心が崩れ、浮遊感が体を包み込んだ。暗黒の底に吸い込まれるイメージ。悪夢を永遠に見続けさせられているような一瞬だった。

 ベオウルフは天を見上げながら竜の背に向けて落下


〝――ここまでか〟


 唇を噛み締め、全てを投げ出しそうになったとき、


「ベオ!」


 厚く、暖かな両腕がベオウルフを現世へと繋ぎ止めた。


 

 どごおんっと重い音が鼓膜を破り裂く。

 ぱらぱらと岩の雪が降り注ぎ、瞼を刺す。


 何が起きたのかわからない。だが、ここがあの世ではなく、今自分が挑んでいるエスパーダの体の上だということは実感できた。どうやら、落下の最中で首の突起に引っ掛かったらしい。


 朦朧とした意識の中で、


「よう……無事か、ベオ」


 生地を薄く伸ばしたような声が聞こえた。少しでも油断すれば消えてしまいそうな声だ。


「ジョルディ?」


 はっとして声のほうを向く。

 そこにベオウルフの知る屈強な男の顔はなかった。

 幼馴染は口から血を吐き、仰向けになって倒れていた。


「まさか、私を助けるために……」


 ジョルディは落下の衝撃を和らげるために身を挺してベオウルフを守っていたらしい。

 だが、全身を強く叩き付けられ、そのダメージは深刻なものとなっていたようだ。


「無事……みたいだな……」


 消え入りそうな声で、ジョルディは微笑んだ。


「ジョルディ、なぜだ。私を助けなければ、こんなことには」

「お前を死なせるわけにはいかないからな……。お前は、俺たち下町生まれの平民の希望なんだからよ」

「きみを傷付けてまで、英雄視されたくはない……」


 深く俯き、目の奥が熱くなる。

 溌剌とした生命力を失い、ここまで弱々しくなった友の姿を、今まで見たことはなかった。


〝――これは自分の油断によるものだ。私が彼をこんな目に遭わせたのだ〟


 まるで彼のほうが騎士ではないか。ベオウルフは一層自分を辱めた。


「ベオ、俺はここで休んでおく……。お前だけでも登ってくれ。元々俺はお前の任務には関係ないんだからな……」


 荒く息を吐きながらジョルディは言った。おそらく、骨も数本折っており、体を動かすのもやっとなのだろう。

 しかし、ベオウルフは首を振った。


「ここで放っておけば、きみは確実に凍えて死ぬ。あるいは、竜の揺れる体に対応できず、落ちて死ぬ。どの道、死ぬ」

「おいおい、ひどいこと言ってくれるじゃないか」

「だからだ。縛り付けてでも、私はきみと一緒に上を目指す!」


 瞳の奥で決然の意志が輝きを放つ。


「ベオ? おい、正気か?」


 ベオウルフはザックからロープを取り出すと有言実行。ジョルディの体を背負ってからしっかりと縛り付けたのだ。

 ジョルディを背負ったことで、当然体の負荷は倍化する。竜登りの難易度はさらに上乗せされた。


「偉業には証人が必要だ。私が逆鱗を手に入れるところを、誰かに見てもらわなければならない。それをきみに託す。それに、竜登りの知識はきみのほうが上だからな。どこに手を置けばいいか、助言してくれ」

「次こそ落ちたら死ぬぞ」

「落ちなければいいだけの話だ」

「まったく、お前って奴は……。いいだろう、その無茶に相乗りしてやる」


 ベオウルフの剣幕に懲りたのか、ジョルディは微笑んだ。


「よし、待ってろよ、エスパーダ。死にもの狂いになった人間が、どれだけ恐ろしいものなのか、お前に教えてやる」


 逃げ道はない。前に進むしかない。上に登るしかない。

 怯えも恐れもなく、ベオウルフはジョルディを背負ったまま、登竜開始。

 鋭い岩の鱗がベオウルフの手のひらを血に染める。

 だからどうした。これは帰るときのマーキングだ。そう思い込みながら、ベオウルフは一挙一足慎重にかつ力強く動かしていく。

 竜の天候は頭に近付けば近付くほど厳しく、激しくなった。

 殴るような暴風に耐え、登れば登るたびに意識も薄れそうになっていくが、


「ベオ、もう少しだ。がんばれ」


 そのたびにジョルディが励ましてくれる。


「ありがとう、ジョルディ」


 それからどのくらいの時間が流れただろうか。

 確かなのは、日が落ちなかったということだけだ。

 ジョルディの声を受け、ベオウルフはエスパーダの首を登り続けた。

 すると、斜度が次第に緩やかになっていき、もはや崖ではなく尻尾やパライソ竜生林のような坂へと変化していく。鬱陶しかった霧のカーテンも徐々に剥がれていった。


「あっ、ああっ!」


 歓喜で声が、手が、全身が震える。


「ジョルディ、頭上だ。ついに、私たちは辿り着いたんだ!」

「ああ……」


 そこで二人を待っていたのは、銀の世界。

 リケサ王国一の高さを誇るエスパーダは雪の冠を被っていたのだ。沈みかけた太陽の光と、昇り始めた月の光。両方を浴びて景色は教会のステンドグラスのように煌めいていた。

 橙と紺が混じり合う黄昏の時間。魂が抜けそうなほどの大パノラマ。その中央で、陰陽の光を受ける王都もまた、蝋燭の刺さった祝祭用のケーキのように見える。画材を持ってきていないのが惜しいほどだ。

 心が躍り、言葉にならないほどの達成感がこみ上げて来るが、ベオウルフの任務はまだ終わってはいない。

 雪に到着の証を残し続けながら、ベオウルフは竜の頭上の中央部へ向かった。

 そこにあったのは、天に逆らって伸びた一つの鱗。針のような、剣のような、鋭く力強い白銀の鱗。これこそがエスパーダの逆鱗である。初登竜者のみに与えられる栄光の証。もしくは、無謀の烙印。

 ベオウルフは躊躇なく逆鱗の先端を折った。ほんの少しエスパーダの頭が揺れたが、それだけだ。おとぎ話では逆鱗に触れただけで竜は暴れ狂うと言われているが、竜は眠ったまま。竜の方も、誰かに逆鱗を抜かれるのを望んでいるのだろうと解釈する。

 疲労困憊となり、ベオウルフはその場にへろへろと座り込む。


「これで任務完了だ……」


 ぼんやりと秘境めいた景色を眺めると、安堵の気持ちで満たされ、笑みが零れる。


「ああ……やったな、ベオ」


 ぐったりとしているが、ジョルディもまた歓喜しているようだ。ジョルディの脈を感じ、ベオウルフは寄り添って彼のことを思った。


「ジョルディ、きみのおかげだ。きみがいなければ、まず尻尾の辺りで任務から逃げ出していたかもしれない。私はきみのような友を持って、幸せだ」

「俺も同じ気持ちだ」


 穏やかな声が背中から優しく聞こえてくる。


「さっきも言ったが、お前は俺たち下町のガキ共の希望だったんだ。俺よりも真面目で勉強ができたからな。きっと、この国の何かを変えてくれるだろうと、俺は確信していたんだ。エスパーダ登竜の任務を聞いたときには、ついにこのときが来たんだと体が震えたぜ」

「…………」

「俺は多くの竜を登ってきたが、エスパーダには挑まなかった。自然と、体が拒んでいたんだろう。『今はそのときではない』、と。どこかで、お前とこうして登るときを予感していたのかもしれねえ」

「ジョルディ……」

「俺も、お前がいたから力を振り絞ることができた。役に立てて嬉しいぜ、兄弟」

「ジョルディ、祝杯だ。手は動かせないなら、私が飲ませてやる」


 ベオウルフはザックから小瓶を取り出し、とぷとぷと容器に移す。この瞬間のために保管しておいた、年代ものの酒だ。なみなみと湛えられた酒の表面には漣が立ち、月の影を揺らした。


 エスパーダの頭上に最初の一歩を残したベオウルフとジョルディ。

 強固な友情により、この場が後の世でベオジョルの頂と呼ばれることも知らず、二人は偉業の味に酔っていた。

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