第7話 【ヘイク】
朝の清々しい空気と真っ青な空は、俺の淀んだ心を浄化するかのように、美しく輝き、地上を包んでいる。
それに、牧草の匂い。
この匂いを嗅ぐと、やはり此処が自分の居場所――最もしっくりする所なのだと感じる。
大地や空や植物、動物たちは、自分が生きているという実感を思い出させてくれる。
いつもそうだった。
これからも、きっとそうだろう。
死の臭いが充満する場所を、忘れさせてくれるだろう。
数時間前まではそういう場所に居たことが、信じられないくらいだ。
いつだって自然の物は癒してくれる。
俺が血泥にまみれて敵と戦って、疲労困憊で帰って来ても。
あんな戦いの後だからひどく疲れていたが、ベッドに直行したり、酒を飲みまくることはしなかった。
それよりも、此処に来るほうが良いように感じた。
ほとんど直感的な事で、理性ではなく本能がそう導いてくれたようなものだった。
精神衛生上、此処に居てこうやって自然と対話することが一番なんだろう、と思わずにはいられなかった。
青々とした牧草の中で寝転がって、眩しい空を見上げていたいとも思ったが、実行には移さず、黙々と羊たちの世話をしていた。
こうしていると、故郷を思い出す。
幼い頃は、大きくなったら父親のように羊飼いとして生きるんだ、と思っていた。
その事を疑わなかったし、羊飼いとして一生を終えることを望んでいた。
ところが、俺は今、異郷に居る。
国は滅茶苦茶に破壊され、滅んでしまった。
安住できる場所など無くなってしまった。
あんな状況下では、傭兵になる以外、選択肢など無かったのだ。
本当は羊飼いとして生きたかった。
羊飼いで良かった。
自分の生まれた村から一生出ることがなくても、それはそれで幸せに生きていけたかもしれない。
もう、言っても詮無き事だが……。
「お前も大きくなったな」
俺は牧草を絶え間無く食んでいる羊たちの中で、体格が少し小さな子羊に声をかけた。
他の子羊たちと比較すると、一回り小さくて、痩せている。
母親が育児放棄して、お乳をもらえず、死にそうになっていた子羊だった。
それを俺が保護し、ミルクを与えて育て、大きくしたのだ。
親身になって育てたので、他の子羊たちよりも愛情が沸いている。
特別扱いするつもりはないのだが、しかしそれでも可愛い存在だ。
「本当に、よく大きくなった」
子羊の背に手を置いて、もこもこしている毛を撫でてやった。
もちろん、俺の言葉に対して返事は無い。
他の羊たちと同じように、牧草を食んでいる。
それでも、この子羊には俺の気持ちが通じている気がした。
動物と人間は、時に不思議な絆で結ばれるものだ。
ふと、丘の下方から、人間の足音が聞こえてきた。
この丘にやって来る人間は、かなり限られている。
農場主のサミード・アズニーか、雇われているヴォル・ミズラくらいだ。
そういう訳で、俺はこの二人のどちらかが、用事があってこちらに来たのだろうと思った。
だが、違った。
丘を登って来たのは女性だ。
よく知っている女性――俺の幼馴染み。
あんな戦いの後なのに、疲れている様子は微塵も感じられない。
いつもの堂々とした彼女だ。
丘を登って俺の近くにたどり着くと、彼女――ディーナは茶色い艶やかな髪をなびかせながら、茶色い瞳で俺を見つめた。
俺は立ち上がり、笑顔を彼女に向けた。
「やあ、ディーナ。部屋で休んでいると思っていたよ」
ところが、彼女は笑顔を返すこともなく、俺を睨んできた。
羊たちがそばでムシャムシャと牧草を食んでいるが、そんな様子には目もくれず、俺の顔を凝視していた。
「…………どうしてあの時、矢を放ったの?」
唐突に、ディーナは怒気を含んだ声で口を開いた。
あまり聞いたことのない口調。
見たことのない表情。
それらは俺をかなり戸惑わせ、何を言うべきか一瞬迷ったのだった。
「どうしてって、君を助けたかったから」
あの時とは、夜明け前の夜襲の時の事だ。
あの一瞬の出来事について、彼女は言っているのだ。
彼女は唇を噛み締め、変わらず俺を睨んでいた。
「私は一人でも倒せたわ。なのに――」
「いや、君は倒せなかった。倒せる相手じゃなかった。だから、俺は矢を放ったんだ」
俺はディーナの言葉を遮って言った。
少し鋭く、強い口調になってしまった。
そういう口調になることはほとんどないので、自分でも驚いた。
「あの夜襲の目的は――あの戦いは、名を上げるとか、武勲を立てるとか、そういう事じゃなかった。あくまでも敵を川向こうまで撤退させるためで、功を急ぐ必要なんてなかったんだよ」
「武勲を立てたいなんて思っていなかったわ。私はただ、自分の腕を試したかっただけよ」
「それは危険な考えだよ、ディーナ。ましてや、君は女性で――」
『女性』という言葉を聞いた途端、ディーナの目の色が変わり、怒気が体から溢れたように見えた。
かなりかっとなったらしく、彼女は俺に食ってかかる。
「なぜ女だからって攻撃を仕掛けては駄目なの?なぜ!?私は誓った、あなたたち男と同じように、戦士になるって。だから、今まで傭兵として必死にやってきたわ。そして、これからも必死にやっていく。それこそ、命尽きるまで!」
「…………」
「そう、私は死ぬまで傭兵として生きていくわ。誰が何と言おうとね。なのに、あなたは……。なぜ……どうしてあの時、戦わせてくれなかったのよ!?」
「君には勝てない相手だった。どう見てもね。君は押されていた」
「押されてなんか――」
「君はあのままじゃきっと殺されていた。俺は君に生きていて欲しいから、矢を放ったんだ」
冷静な俺の物言いに――冷静過ぎたかもしれない――、ディーナははっとし、少し落ち着いたようだった。
深呼吸し、肩をすくめる。
「…………いつからそんなに正確な洞察が出来るようになったのよ?」
「戦いに身を投じていれば、自然とそうなるもんさ」
あまり認めたくはないが、それは事実だった。
そうしなければ、戦場では生き抜くことができない。
ましてや俺は傭兵だ。
正規の軍隊の兵士ではない。
他人よりも優れた洞察力で戦い、切り抜けていくしかないのだ。
澎湃 七条麗朱夜 @leschuja1902
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