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 あいつに綺麗だと言わせるだけの、名前を持った水蓮に。

 俺ははじめて嫉妬した。  ――遠野無花果の日記









 「梶井総司」という名は、一度だけ耳にしたことがある。


 それは、兄が亡くなってそう日が経っていない頃だった。葬式も終わり、住んでいた寮に戻ってからだ。兄が亡くなってもつつがなく進む日常生活に違和感がありながら、いつものとおり授業を受け、寮に帰った。その時に母から電話が来たのだ。


『梶井総司って人、知ってる?』

『無花果の友達だったみたいなの。でも、名前も聞いたことないよねえ?』


 兄の日記を見ても、梶井総司の名はなかった。

 仏壇を拝みに来るくらいなのだから、相当親しかったはずだ。なのに日記には梶井のかの字もない。その代わり、よく日記に現れていたのは『白北睡蓮』だった。

 白北睡蓮に関する、憧憬と嫉妬と執着。

 それらの感情が混ざり合った文章は、あの明るく人気者だった兄とはかけ離れていた。

 兄をそれほどまでに夢中にさせた白北睡蓮とは、どんな人物だったのか。

 『梶井総司』なら、白北睡蓮について何か知っているのではないかと思った。


 そうして俺は、この海の町へやってきた。








「ほれ」

 大学に慣れ始めてきた五月のはじめ、雨が止まない休日。

 いつものように梶井の家に行くと、数枚の紙を渡された。


「え?」

「原稿だ。これで満足だろ?」


 数枚の紙の束で額を軽く叩かれる。慌てて受け取ると、梶井はふんと鼻を鳴らしてそっぽをむいた。

 紙の束を見下ろすと、確かに活字が印刷されている。呆然としていると、梶井が眼鏡を外して拭いていた。

 煙草と檸檬の匂いが漂う部屋の中、意識がぼんやりとしてくる。


「読まないのか?」

「あ、ああ」


 唐突に原稿を渡され、俺は動揺していた。今まで執筆している態度すら見せなかったというのに、どういう風の吹き回しだろう。

 ちゃぶ台の前に座り、恐る恐る読み始めた。


 正直、梶井の小説を読むのが怖かった。


 はじめて『白北睡蓮』の作品を読んだとき、海の底に沈むような感覚に見舞われた。

 

 もし、『白北睡蓮』の新しい作品を読んで、そんな感覚に襲われなかったら? 

 『白北睡蓮』の技術が落ちていたら?

 兄が生きていた頃のように書けなくなっていたら?

 実際原稿を前にして、今まで抱いたことのない恐怖が湧きあがった。




 錯乱する目で、字を追う。



「美しい少年は、仙人に会う。」


 ぱら、



 震える指で、紙をめくる。



「少年は仙人を慕い、やがて仙人そのものになりたいと思う。」


 ぱら、


「しかし少年は、仙人になどなれないことを悟る。長い時を生きる仙人と共にいられないと知る。」


 ぱら、


「それならばせめて仙人に呪いをかけようと山から飛び降り、そのまま海の底へと消えてしまう。」


 


……………………………………………………。








読み終えて、紙束の端をとんとんとちゃぶ台の上で揃える。


「……最後の締めがないな」

「ああ」


 眼鏡をかけ直した梶井は、煙草をふかして返答した。


「思いつかなかった」

「思いつかなかった?」

「遺された仙人がこの後どうなるのか、なんも思い浮かばなかったんだ」


 梶井の吐いた煙が部屋の中で揺蕩う。

 煙草の中に香る檸檬が、なぜだか鬱陶しく感じた。


「煙い。開けるぞ」


 窓を開けると、白い煙の匂いも、澄んだ檸檬の香りも、すべて解き放たれる気がした。今日はこんこんと雨が降っている。それなのに風は穏やかで、眠りに誘われるような心地よさがあった。


「なあ、その少年ってさ」

「なんだ?」

「……なんでもない」


 その小説に出てきた少年は、まるで日記の中の兄のようだった。

 そう言いたかったのだが、言わないことにした。梶井はあのどす黒い感情に揺らいでいた兄を知らないだろう。それでも感情に狂った少年を描写していたのだから、もしかすると無意識のうちに兄の本質を見抜いていたのかもしれない。

 座り込んで窓から見える空を覗いていると、梶井が隣に座った。


「で、どうだった? 俺の小説は」


 梶井に視線を向けると、いつになくそわそわしている大の男の姿があった。俺からの評価が気になるのか、強ばった表情でこちらを見ている。俺はいつもの調子で吐き捨てた。


「全然ダメ」

「全然……って、はあ!?」

「あんたの小説は綺麗すぎるんだ」


 事実だけを淡々と述べると、梶井は呆けた顔をした後、くしゃりと顔を歪める。笑うのが下手くそな男だ。


「お前の兄貴はそこを褒めてくれたんだが?」

「俺は兄貴じゃないからな」


 自分の口からそんな言葉が出てきて、一瞬息をするのを忘れた。それをごまかすために言葉を羅列する。


「救いのない話を書くわりに、綺麗すぎる。人間の汚い部分もえがいたほうがいい。もっと生に執着するとか、死ぬ前に葛藤するとか……」


そこで考えて、俺は言った。



「誰かに嫉妬するとか」


 そう言うと、梶井はくしゃくしゃな顔を更に歪めて、静かに口にした。


「……やっぱ、無花果とは全然違うな。お前」


 その言葉につい笑ってしまった。この弱い男に、苦笑混じりに告げる。


「あんたに檸檬は似合わない」

「……そうさなあ」


 そんな気はしていたよ、と梶井は言った。

 部屋の中は、雨の匂いに満ちていた。

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あんたに檸檬は似合わない 海野月歩 @kairi_kobayashi

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