3

 何も知らないくせに、全てを見透かしたようなあいつの作品が

 虫唾が走るほど嫌いだった。 ――遠野無花果の日記 








 梶井から見た無花果は、とにかく破天荒だった。

 周囲から品行方正に見えるその青年は、常に明るい声音で俺を諭すのだ。




 根っからの性分なのか、梶井は幼い頃から陰を引き連れて歩いているような人間だった。

 陰気。根暗。そんなマイナスイメージが自分でも驚く程当てはまる。常に暗い目をして世を憂いているような、友達も信頼できる大人もいない寂しい男だった。

 そんな自分にできることと言ったら小説を書く事くらいだ。執筆したものは誰に見せるわけでもなく、一人細々と楽しむだけ。

 誰に認められなくても良かった。本を読んで小説を書く。その行為に自分の心が癒されていく。自分の書いた物語に自分だけが救われる、箱庭のように狭い世界だけで生きていた。



 きっかけは、教室に忘れた原稿だった。

 推敲途中の原稿を持ってきていたのだが、うっかり教室に忘れてきてしまったのだ。帰るときに気づき慌てて教室に戻ると、時既に遅し、無花果が読んでいる最中だった。


 遠野無花果という男は、梶井にとっては縁もゆかりもないような男だった。常に穏やかな笑みをたたえていて、男女問わず周りに人がいる。その端正な顔立ちから繊細な様子がうかがえた。名前の通り、見た目で楽しませる花よりも、匂い立つ果実を連想させた。

 人に見せる皮は厚いが、中身はぐちゃぐちゃで隙間なく実が詰まっている。

 近所に住んでいるのは知っていたが、自分とは住む世界が違うと思い、挨拶をくれる彼を避けて通ってきた。


 小説を返してくれと言ったのだが、無花果は「ちょっと待ってくれ」の一点張りで、視線を原稿に向けたまま微動だにしなかった。時折紙をめくる音だけが、二人きりの空間にこだまするだけだった。

 そして、読み終わった無花果が笑って一言。


「面白いな」


 人生ではじめてもらった感想は、それだけに留まらなかった。


「これ、あんたが書いたのか?」

「アマチュアのままでいるなんてもったいない!」

「せっかく文学部にいるんだから、もっと人に見せていけよ!」


 そして極めつけに、無花果は言い放った。


「決めた!俺があんたをプロにしてやる!」


 その言葉を梶井は鼻で笑い飛ばしたが、無花果は本気だったらしい。


 無花果はそれからというもの、梶井の家に押しかけてくるようになった。


 ひたすらに暗い性格の自分に、突然現れた明るい男。


 最初こそ無花果の図々しさに嫌気が差していたが、ほだされるのに時間はかからなかった。

 元々人との触れ合いがほとんどなかった梶井は、無花果の無遠慮な距離感に安心するようになった。強制的に馴らされたと言ったほうがいいだろうか。

 そうやって二人三脚で小説を書き始めて約二年。その日はやってきた。








「おーい! 総司! ……って、また玄関で寝てるし」

「んあ?」


 玄関の戸を勢いよく開けた無花果が、ため息をついて腰に手をあてる。気取っている無花果を視野にも入れず、梶井は玄関に横たわっていた。


「あ……? 俺、いつ寝て……」

「また神様が降臨なされたか? あんたの小説が読めるのは嬉しいけど、そう頻繁に記憶飛ばされるとな……」


 梶井には集中すると寝食を忘れてしまう癖があった。今回も気がついたら玄関なんかで寝ている。毎日のように無花果が梶井の状態を確認しに来てくれるから野垂れ死にだけは回避できていた。

 料理も掃除も、今や無花果の仕事になっていた。

 床に転がった眼鏡をかけると、無花果のやれやれといった顔がよく見える。


「まったく、俺がいなくなったときが恐ろしいよ。せめて日常生活だけはちゃんと送ってくれ」

「ん……」


 梶井は起き上がり、傍らに転がっていたスマートフォンの画面を無花果に突きつけた。


「なんだ? 俺、これから仕事なんだけど……」

「三分で終わる。いいからこれ見ろ」


 それはメールの文面だった。

 しばらく無花果は渋い顔で文面を眺めていたが、徐々に驚愕の顔へと変わっていった。


「総司……これ!」

「この前送ったやつが引っかかった。デビューはまだだが、編集が着くことになった」

「総司!」


 無花果は喜びを抑えきれなかったのか、梶井に勢いよく抱きついた。バランスが崩れるが、なんとか無花果の体を支える。

 薄いスマートフォンがごとりと床に転がる。

 抱きついてはしゃぐ無花果にそのままキスを送られた。


「!」

「やー! ほんと良かった! 今日はお祝いだな!」


 唇が触れたことに動揺する梶井と対照的に、無花果はすぐに体を離し、今日の夜の話をする。無花果は梶井の家で鍋パーティーをする気満々らしい。

 梶井は鼻を鳴らして、無花果に文句を言った。


「……そういうのはどうかと思うぞ?」

「あんた、変なとこで繊細だよな。いいじゃん、減るもんでもないし」

「いや、わりかし、結構、減る」

「減っちゃうのかー」


 無花果は軽く笑って、背中を見せる。その顔は光の加減でぼやけて見えない。


「じゃあ、俺は行くよ。あとは仕事から帰ってきたらな」

「おい、無花果」

「なんだ? まだ何かあるのかよ」


 言おうか悩んだが、結局言うことにした。


「そうやってごまかす癖、よくないぞ」



 しん、と、一瞬だけ空気が冷えた。



 無花果はただ静かに、やはり何かをごまかしたまま喋る。


「……俺はただ、水蓮が羨ましいだけだよ」

「すいれん? 俺のペンネームか?」

「そうじゃなくて、弟のほう。あんた、俺の弟の名前参考にしてペンネーム作っただろ」

「そうだな。綺麗だったからな。名前が」


 無花果は誰かを責めることもなく、静かな水面のような繊細な声で言う。彼の細身の体は、朝の光に溶けてしまいそうだった。


「――あの時後悔したよ。あんたに弟の名前なんか教えなきゃ良かったって」


 酷く傷ついた無花果の背中を、梶井は見送ることしかできなかった。玄関で育てている檸檬の葉が、責めるようにこちらを見ていた。


 その日、無花果は交通事故に遭って亡くなった。

 梶井が無花果に真意を問うことは二度となかった。









 鍋もいらなかった。祝いの言葉もいらなかった。ただお前がいてくれるだけで良かった。それだけで自分は前に進めたのだ。


 過ぎ去ったものはしょうがない。浜辺に落ちている貝殻は拾えるが、水底に沈んでしまったものはどうにもならないのだ。分かってはいるのだが、前に進む足を無くしてしまえば歩けない。

 後ろを振り向けば、無花果が白い貌で立っている気がするのだ。海の底のように真っ暗な影の繊維が、体中にまとわりついているみたいで怖かった。


 どうあがいたって、無花果はもう自分の小説を読んではくれない。


 この世で一番自分の小説を心待ちにしてくれていたのが無花果だった。時には笑いながらアドバイスをくれていたのだ。無花果は梶井の小説に対して負の感情を見せたことがなかった。


 それなのにお前の弟ときたら。



 少しだけ話を聞いていた彼の弟、水蓮は、話で聞いていた以上に無表情で、淡々としていて、清廉な青年だった。

 人の心臓を穿つまっすぐな眼は、自分には持っていないものだった。

 顔が整っていた無花果を遥かに凌駕するかんばせは、吐き気を催すほど美しかった。


 人を惹きつける無花果とは違う、人を寄せ付けない美しさ。

 破天荒なところも図々しいところも無花果とそっくりで苛々した。しかし嫌いになれない。無愛想で無表情だから、周囲に誤解されそうな青年だ。

 普通の人間には持っていない澄んだ瞳は、見る者をぞっとさせる。

 綺麗で無垢で潔白で。そんなものを見せつけられたら誰だって嫌悪するものだ。


 つい、水蓮のことを考えてしまう。煙草の予備がないことに気づいて、深く息を吐いた。

 買ってから五日、水蓮は毎日梶井の家に押しかけていた。その度に冷たくあしらっているのだが、若いゆえかまったくめげない。頑固なところも無花果に似ている。


 ほら、また、共通点を探してしまう。


 それが嫌でたまらなくて、気分転換も兼ねてスズの煙草屋に行った。最近は天気が不安定で、数日に一度雨が降っている。水蓮に返された黒い傘をさして煙草屋までむかう。今の時間、水蓮は大学だろうから安心して煙草を買える。


「こんにちは。スズさん」

「ああ。梶井さんかい。ちょっと待ってなさい」


 スズが窓口を開けて受け答えする。常連の煙草は別で用意してくれているのがありがたかった。しばらくするとスズが煙草のケースを渡してくれる。十箱入っている煙草のケースは金額の割に軽かった。


「水蓮がお世話になってるみたいだねえ。迷惑かけてないかい?」

「いえ……」

「あの子はいい子なんだけど、ちょっと誤解されやすくてねえ。話相手になってあげておくれ」


 梶井は少し悩んで、結局スズに尋ねてみることにした。

「スズさん。……あいつの足に何があったんです?」



 水蓮は右足を引きずって歩いているようだった。

 はじめて出会った日も、雨の中たどたどしく歩いている彼の背中が印象的だったのだ。


「あの子ねえ、サッカーやってたんだよ」


 スズは平然とした声で話し始める。


「都会の高校に入ったはいいのだけど、あまり馴染めなかったみたいだねえ。そうこうしているうちに、事故にあったのさ」

「事故?」

「工事中の建物の上から鉄柱が落ちてきてねえ……。右足ですんだのが不幸中の幸いさね。でも、それで右足をなくしてしまって、サッカーができなくなってしまったんだよ」

「なくした?」

「最近義足にしたばかりなんだよ。だからまだ感覚に慣れてないんだろうねえ」


 足が悪いのは見て分かったが、まさかなくしているとは思わなかった。水蓮の背はハンディキャップなど感じさせないくらいまっすぐで、堂々としていた。

 梶井の言いたいことが分かるのか、スズはうんうんと頷いた。


「頑固なところはそっくりだねえ」


 誰に似ているとは聞けなかった。梶井は灰色に陰る空を傘の下から覗き見た。


 いつまで自分は無花果の影を追いかけなきゃいけないのだろう。

 それはきっと、自分が死ぬまで続くのだ。


「……しかたねえなあ」


 思わず口角が上がった。笑うのが下手だから、水蓮にも「下手くそ」と言われるだろう。しかし水蓮も笑顔でいるのは苦手そうだから、もしかすると言わないのかもしれない。


 スズにお礼を言って、煙草のケースをいれた袋を片手に持って歩いた。

 スズは相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。


 どうということはない。小説をねだられたから書くだけだ。

 近くの文房具屋に行くために足を運ぶ。パソコンは売ったわけではなく、家の端で眠らせているだけだから、まだ起動できるはずだ。

 問題はプロット用のノートだった。

 執筆はデジタルだが、その前の工程……プロットや設定考察などはアナログ派だった。

 パソコンは仕事などで使うかもしれないととっておいたのだが、今まで書き溜めていた小説用のノートやメモは全部捨ててしまった。

 ぱらぱらと傘に降り注ぐ雨の音を聴きながら、電車の来る気配のない踏切へたどり着く。



 踏切の向こう側には、水蓮がいた。



 新しくできた友人だろうか、水蓮に傘を差している人物が隣にいる。水蓮が心配でここまで送ってきてくれたのだろう。

 しかたなく水蓮に嘘まみれの声をかける。


「おい。迎えに来たぞ」


 緊張していたのだろうか、無表情だった水蓮の顔が少し緩くなる。


 自分相手に何を安心しているんだか。


 ふん、と鼻を鳴らすと、水蓮が慌てて隣の人物にお礼を言って、ゆっくりとした足取りで梶井に近寄った。そんな水蓮に愛想を向けることもなく、形ばかりの言葉を投げかける。


「友達はいいのか?」

「ああ」


 振り向いて手を振った水蓮に、青年は気前よく手を振り返して、そこで別れた。

 やっと水蓮の肩の力が抜けたところで声をかける。


「傘は?」

「ああ。折りたたみ傘は実家にあってな。まだ買いなおしてないんだ。今日の朝は降ってなかっただろ?」

「そうだったか?」


 黒い傘の中に入れてやりながら、来た道を引き返す。

 文房具屋に行くのはまた次にしよう。

 今は、小説を書く気力が少しだけ戻ったことを勘づかれたくはなかった。


「あんたはずっと引きこもってるからな……。仕事はしてないのか?」

「してないが、そろそろ生活がきついな」

「……兄貴が死んでからか?」

「ま、そうなるかな」


 素直に答えると、横で水蓮がまじまじと見上げてくる。いたたまれなくなり、眼鏡をかけ直した。


「なんだよ」

「いや……なんかあったのか?」

「なんにもねえよ」


 形ばかりの否定をすると、会話がなくなる。静かな雨の音が聴こえるだけだ。

 傘の上で跳ねる、水の音だけが耳に残る。

 だが、しばらくすると水蓮がくくっとふきだした。


「あんた、嘘が下手だな」

「あ?」

「さっきの。俺を迎えに来たなんて、嘘だろ」

「まあな」

「どこに行こうとしてたんだ?」

「ただの散歩だよ」

「こんな雨の中をか?」

「雨の日に歩きたくなる時もあるだろ」


 雨と言っても土砂降りではなく、間隔をあけてぱらぱらと降ってきている。重さのない雨の中を歩くのは容易い。

 はじめて見た水蓮の笑顔は愛嬌があって、無花果によく似ていた。

 梶井が思っていた以上に、愛らしく笑う青年だ。

 帰り道を歩いていると、水蓮が雨のようにぱらぱらと喋る。


「みんな心配性なんだ。俺は一人で歩けるのに」

「……一人で歩けるならいいんじゃねえの。一人で歩けねえやつもいるんだからさ」

「それはあんたのことか?」


 水蓮が梶井を覗き込んで問いかける。その様子にこめかみが疼いた。

 無言で返すと、水蓮はいつもの真顔になって言った。


「あんた、意外に繊細だよな」

「おい生意気小僧。あんまり喋ってるとどつくぞ」


 そう言うと、水蓮は笑った。今日の水蓮はよく笑う。彼の崩れた美しい顔を眺めた。

 何度でも見たいと、そう思った。

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