2
睡蓮のことは誰にも知られたくない。
こいつの才能は、俺だけのものだ。 ――遠野無花果の日記
次の日、俺は梶井総司の家の前で立っていた。
ところどころ傷んでいる木造の家は、人が住むには古すぎる。しかしここに梶井が住んでいるらしく、人間らしい生活をしているのか不安になった。
晴れ渡っている空が、目に痛い。
人付き合いに関してあまり積極的でない俺は、戸を叩くことすら躊躇していた。まだ二回しか話していないのに、突然家を訪ねるのは失礼に値するだろう。それでも兄との関係を糾弾せずにはいられない。そして、叶うことならまた『白北睡蓮』の作品を読みたかった。
大きく息を吸って、吐く。いつもは肌寒い空気が、今日は少し暖かい。
……ここでうだうだしていても、だめだよな。
覚悟を決め、右手で戸をノックしようとした。
すると、ノックする前にがらっと荒々しい音を立て、戸が開いた。梶井は、昨日祖母に見せていた愛想が嘘のように、機嫌悪くしかめっ面をしていた。
「……なんだよ」
「び、びっくりするだろ。気づいてたのか」
「そりゃあ、あれだけ長い時間うろうろされたら誰だって気づくだろ」
「長い時間ってほどでもない気がするが……すみません」
「別にいいけどさ、なんで家知ってるんだよ」
「ばあちゃんに教えてもらった」
梶井は目に見て分かるほど不機嫌だった。眉間のしわを隠そうともせず、ちっと舌打ちする。剣呑とした表情を隠すように梶井は眼鏡をかけ直す。
しかしここでへこたれるわけにはいかない。生憎、自分の無表情はそんなことで崩れない。
俺はスポーツバッグからファイルを取り出し、そこから40枚程度の紙束を取り出した。そして背を丸くしている梶井の顔面に紙束を突きつける。
「あ……?」
「『白北睡蓮』の原稿だ」
白い紙に印字されたそれは、どこもかしこも赤まみれだった。
「梶井さん、あんたが『白北睡蓮』だな?」
「……どうしてそう思う?」
「あんたから檸檬の匂いがしたからだ」
「檸檬?」
『檸檬のような男だった』。兄の日記にはそう記されていた。しかし、兄がそのように形容していたのを、この男は知らない可能性もあるのだった。
若干不安になりつつも、考え込む梶井を睨み上げる。
梶井は合点がいったのか、ああ、と小さく呻いた。
「檸檬か」
「心当たりがあるな?」
「まあ、栽培してるしな」
そう言って俺に家へ入るよう促す。恐る恐る玄関に入ると、ふわりと檸檬の香りがした。玄関の隅に鉢植えが3つほどあり、香りはそこから漂っているようだった。
「そもそも、檸檬を育てろと言ってきたのはあいつなんだ」
「兄貴が?」
「ああ。「梶井」だから檸檬がぴったりだろって」
「そんなことで?」
「そんなことで、だ」
おそらく兄は、ある文学作品をイメージして梶井に檸檬を薦めたのだろう。だが俺から言わせれば、この梶井という男と檸檬は不釣り合いだ。梶井自体が清涼とした檸檬のイメージではない。作品は、確かに檸檬のようだとは思えるのだが。
小説だって檸檬というよりは海のようだし、梶井からは煙草の匂いがする。
狭い廊下のすぐ前にある座敷に通された。そこには小さなちゃぶ台とテレビ、枕とぐちゃぐちゃになった毛布があり、日常生活を乱雑に凝縮した光景を作っていた。
「座れよ。茶持ってくる」
梶井がお茶を持ってくる間、俺は座って部屋を見渡した。『白北睡蓮』の部屋は本だらけで、小さいノートパソコンが部屋の真ん中に置いてあるイメージだったのだが、ノートパソコンどころか本すらない。
本を読まないであれだけの作品を作るのは不可能ではないか?
そしてこの部屋にも、檸檬の鉢植えが一つ。
家のそこかしこに檸檬があるのだとしたら、この匂いは家中に染みついているのか。
首を傾げていると、梶井がお盆にお茶をのせてやってきた。
お茶をちゃぶ台の上に二人分置くと、梶井はふてぶてしい様子でどかりと座る。
「で、なんだ? まあ、どうせあいつのことなんだろうけど」
俺はお茶に口をつけず、単刀直入に尋ねた。
「兄貴とどういう関係だったんだ?」
その言い方に梶井はぎょっとして俺をまじまじと見る。その様子に優越感を抱いたが、表情の乏しい俺の顔は無のままなのだろう。
「どういう関係って……友達だろ、普通の」
「本当にそうか? 恋人とかではなく?」
「だから――」
梶井は口を開いたが、考え直したのか口元に手をあてる。彼の顔はずっといかめしい。
「いや、違うな。普通ではなかったかもしれない」
「そうか」
「恋人ではない。それは断言できる。少なくとも俺にとっては最高の友人だった」
「そうか。だから小説を書くのをやめたのか?」
そこで俺ははじめてお茶を一口啜った。
「今でもモノを書いているのなら本の一冊や二冊置いていてもおかしくはない。だがこの部屋には本もなければ、執筆道具であるはずのパソコンすらない」
その指摘に、梶井は苦々しげに反抗した。
「でもそれと……無花果のことは無関係じゃないか?」
「果たして、そうだろうか」
俺は湯のみをちゃぶ台に置き、ひと呼吸置いて言った。
「これは推測だが、兄貴が亡くなってから、あんたは小説を書く気がなくなったんじゃないか?」
梶井は険しい顔をしわくちゃにした。
ここにも兄の影に取り憑かれた男がいた。
「白北睡蓮。あんたに会うためだけにここに来た」
そう言うと、梶井はすっと顔を元に戻し、冷徹な声色で返した。
「随分熱烈な告白だな」
「兄貴があんたの作品を読ませてくれたんだ。救いのないあんたの作風は無茶苦茶だが、俺は救われた。あんたの小説をもっと読みたい……そう思ったんだよ」
そして深く呼吸をして、魂の抜けたような顔をしている梶井に言った。
「兄貴の代わりに、俺があんたをプロにする」
「お前、自分が何言ってるのか分かってんのか?」
「もちろんだ」
自信を持ってそう言うと、梶井は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「いい加減にしろ」
「冗談なんかじゃないぞ。俺はいたって真面目に……」
「だとしたら尚更タチが悪い」
傍から見ても分かる苛立ちをごまかすかのように梶井は煙草を取り出す。安物のライターがかちっかちっと、何回か不発に終える。4回目でやっと火がつき、梶井は思いきり煙草を吸った。
空中に浮かぶ鉛色の煙を眺めながら、梶井が一言。
「誰もあいつの代わりになれるわけがない」
それは俺に突きつけてきた、拒絶の言葉だった。
「じゃあ、また明日来る」
「もう二度と来なくていいぞ」
「そういうわけにはいかない。あんたにはなんとしてでも小説を書いてもらう」
俺は立ち上がってそのまま帰ろうとした。だが、立ち上がろうとしてバランスを崩してしまう。足の使い方を間違えた。俺の体はそのまま傾ぐ。
「いって……」
「おい、大丈夫か?」
そのまま床に伏した俺を見過ごせなかったのか、梶井が近づいて俺の体を起こそうとする。
――こいつは中途半端に優しい男なんだな。
俺の体を抱き起こそうとする梶井の手を振り払い、視線も交えない。拒絶には拒絶で返す。それは子どもじみた反抗だろうが、そうしないとこの男の優しさに苛立ちを募らせるだけだ。
「そんなものはいらない。自分で立てる」
壁まで這いつくばり、やっとの思いで立った。壁に寄りかかったままスポーツバッグを手繰り寄せ、自分の肩にかける。
呆然と立ち尽くす梶井を放置し、重たい足を引きずって家から出た。
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