あんたに檸檬は似合わない

海野月歩

1

 そいつは檸檬のような男だった。 ――遠野無花果の日記



 次駅のアナウンスが流れてきたところで、俺は兄の日記を静かに閉じた。

 あまり荷物の入っていないスポーツバッグを肩に掛け、電車から降りる。黒のスポーツバッグは持ち運ぶには大きすぎる。肩にかかる重力を吹き飛ばすように、湿り気を帯びた風が首筋を撫でた。微かな雨の匂いが、潮の香りとともに漂ってくる。

 空には雲が押し込められていて、太陽の光をどこにも漏らしていない。古いぬいぐるみにつめられている綿のような雲は、湿気を含んで上空に滞在していた。

 駅からは海が見える。人の気配すらしない田舎の風景に目を凝らした。

 否、駅員がいるから人は無ではないのだが。

 こじんまりとした改札口を抜けると、またこじんまりとした待合室がある。窓から見える家々は古ぼけているが、駅は最近改装したのか新しい建物の匂いがした。

 これから自分が住むところは、時間が止まっているような、静かな海の町だった。




 部活の都合で都会の高校に行っていたが、大学は地元のところを選んだ。しかし帰省したはいいが、実家から大学まではそれなりに距離があった。そのため、大学により近い祖母の家から通学することにしたのだ。

 既に荷物を届けており、あとは祖母の家にむかうだけだ。天気は悪く、湿気で重くなりそうな足を引きずって歩く。

 そうしていると、ぱらぱらと雨が降ってきた。雨の匂いがするとは思っていたが、本当に降られるとは。スポーツバッグから折りたたみ傘を取り出そうとしたが、それらしきものは入っていなかった。


 もしかして、家に忘れてきた?

 傘の準備もしているはずだったのだが、玄関に置きっぱなしにしてしまっただろうか。とりあえず、本格的に降ってくる前に祖母の家に着かなければ。

 そうして歩いていると、本格的に雨が降り出してきた。家までの時間が長く感じられる。まるで水の中にいるような、息苦しい感覚にぼうっとした。


 さあああああああ


 雨は静かに落ちてくる。このままだと祖母の家に着く頃には濡れ鼠だ。三月下旬のこの地方は肌寒い。

 ぶるりと肩を震わせると、余計寒さを意識してしまう。



「おい」



 後ろから呼びとめられ、反射的に身を固くして振り向く。雨の感触がなくなったかと思えば、頭上は黒い布で覆われていた。


 俺に傘をさしたのは、冴えない長身の男だった。

 ろくに梳かしもしていないもじゃもじゃ頭と無精ひげは、見る者を不快にさせるだろう。

 そんな不潔な容貌とは対照的に、清涼な檸檬の香りが、煙草の匂いに紛れて漂っているのだった。

 突然傘をさされ思わず後ずさるが、男は信じられないものを見たかのように目を見開いた。眼鏡ごしの目は、喪に服した光のない黒だった。

 男の、深い哀愁を湛えた瞳に吸い込まれそうだった。男は硬直していたが、すぐに目をそらす。そして暗い声音で言った。


「ほれ」

「え?」


 男は傘を無理矢理俺の手に持たせ、濡れるのもかまわず傘から飛び出した。


「え! あの!?」

「それ、やるよ」


 雨の音にかき消されそうな低い声だった。

 男はもう一度振り返り顔をくしゃくしゃに歪ませると、そのままどこかへ走り去っていった。


「なんだったんだ一体……」


 そうぼやきながらも傘の柄はしっかり掴み、男が過ぎ去っていった方向を見て立ち尽くす。

 この傘はどうすればいいのだろう。連絡先すらも聞いていない。尋ねる前に去っていってしまったし、追いかけることもできない。

 しかたなく祖母の家まで行こうと足を前に進めた。黒い傘が自分の心に影を作っていくようだった。あの男の、傷ついた表情は一体なんだったのだろう。

 鼻腔を擽った檸檬の香りだけが、いつまでも遺っていた。









「手伝ってくれてありがとう」

「うん」


 男から傘を渡されたその二日後、俺は祖母の手伝いをしていた。

 祖母が趣味で経営している小さな店は、煙草と少量の酒を置いている。自分は成人していないから煙草と酒の良さはまだ分からないのだが、近所の人たちは好んで足を運んでくれているようだ。


 座敷に小さな窓口。そこからはこの町の空がよく見えるのだった。澄み渡る晴天を眺めるため、窓口を開放している。窓口から入ってくる風が心地よい。まだ肌寒いが、このくらいの気温なら耐えられそうだった。

 季節の変わり目、温度差に気をつけなければならないなとぼんやり考えた。


「今日はいい天気だね」

「うんうん。この前の雨が嘘のようだねえ」


 祖母はうひょうひょと笑いながら、店の奥にある傘立てを眺めている。

 傘立てには、男から借りた黒い傘がささっていた。祖母の隣に座り、一緒に傘を覗き込む。


「あのさ、ばあちゃん。本当に梶井さん来るの?」

「そろそろ来る頃だと思うけどねえ。あの人、煙草好きだから」


 祖母の家の近所に、傘を貸してくれた梶井さんが住んでいるらしい。祖母に傘の話をしたら、「それは多分梶井さんのだねえ」と教えてくれたのだ。


「やっぱりちゃんと返さないとさ。居心地悪いし」

「水蓮は真面目だねえ」

「そうでもないけど……」

「真面目だよ。無花果も真面目な子だったけどさ」


 無花果の名前を聞いて、自分の手を強く握りしめた。




 無花果とは、昨年の秋に交通事故でなくなった兄だ。

 大学に進学してからずっと祖母の元で暮らしていた兄は、仕事から帰る途中、よそ見運転の車に轢かれて還らぬ人となった。

 柩に入った兄の顔は真っ白で、どこか後悔が残っていた。

 まだ兄が亡くなってまだ半年も経っていないのだ。家族の心に暗い影を落とし、兄は去っていった。

 兄のことを思い出すとやりきれなさが胸の内から湧いてくる。



「兄貴って、明るくていいやつだったよな。友達も多かったみたいだし」

「なーに。水蓮もいい子だよ」


 確認のため絞り出した言葉に、祖母は少し違う返答をしてくれた。しわだらけの手で頭を撫でられ、少し気恥ずかしい。いつも穏やかに笑っている祖母は、悲しげに首を傾げた。


「あの子は生きづらそうにしとったなあ」

「生きづらい? 兄貴が?」


 自分でそう言って、後悔した。遺品整理のときに本棚の奥から出てきた日記のことを思い出した。



 兄と『白北睡蓮』のことだけ書かれた日記。



 兄が生前書いたと思われるその日記を見つけたとき、心臓が忙しく動いたのを覚えている。

 これは親にも見せてはいけないと、直感的に判断したのだ。

 日記には日常生活のことだけではなく、読んでいるこっちが不安定になるような吐露があった。そしてそれらのほぼすべてが、『白北睡蓮』に関することだったのだ。


 『白北睡蓮』。俺の苦渋をすべて塗りつぶした男。


 俺が落ち込んでいたときに兄が『白北睡蓮』の原稿を見せてくれたのだ。葉陰の間を這うような、救いのない話。それでいて読む人すべてを救済するような世界観に、俺はどっぷりと浸かってしまったのだ。

 それはまるで海の底に沈むような安寧だった。

 いささか潔癖すぎるくらい綺麗なその物語に、幸か不幸か、俺は夢中になっていた。プロ志望のしがない男の作品に魅入ってしまったのだ。

 俺が『白北睡蓮』に関して質問すると、毎回兄は曖昧に笑うだけだった。

 兄は『白北睡蓮』のことを俺たちに隠したかったのかもしれない。だから、兄の日記がほとんど『白北睡蓮』に関することだけだったのが驚きだったのだ。もしくは、誰にも言いたくないから日記で綴っていたのかもしれなかった。



「なあ、ばあちゃん。『白北睡蓮』って人、この近所でいないか?」

「聞いたことないねえ……」

「兄貴の知り合いなんだってさ。多分、ここらへんの人だと思うんだけど……」

「どんな人かねえ」

「俺も詳しくは知らないんだけど、檸檬みたいな人なんだって」


 祖母は相槌を打ちながら考えるそぶりをする。


「檸檬と言えば、梶井さんが趣味で檸檬の栽培をしていると聞いたねえ」


祖母の言葉に覆いかぶさるように、窓口のほうから男の声が聞こえた。


「スズさん。俺がどうしたって?」



 突然この場にいなかった男の声に、驚いて視線をやる。


 そこには、つい二日前に出会った男の顔があった。

 男は俺を見るなり目を細める。そして何事もなかったかのように、気だるげに祖母へ向き直った。祖母はにこにこと笑って応対する。


「おや、梶井さん」

「スズさん。いつもの」

「はいよ。ちょっと待っておくれ。水蓮、渡しなさいな」

「あ、はい」


 祖母に促され、傘を取りに店の奥へ足を運ぶ。傘を持ったところで、くるくると言葉の羅列が流れ込んでくるのだった。

 窓口へ戻ると、祖母が煙草の箱を取り出しているところだった。

 祖母の代わりに対応する。傘を借りたお礼もしないといけなかった。


「この前はありがとうございました」

「……ああ。気にしなくていいのに」


 男……梶井の、舐めまわすような視線に耐え切れなくなり、視線を落とした。舐めまわすような視線と言っても、そこに卑劣な感情はなく。

 だが、俺を通して「何か」を見ているようで、酷く不安な心地になるのだ。


 煙草の匂いの中、梶井は自分に言い聞かせるように呟いた。


「……あいつに似てるな」

「!」


 その言葉を聞き流せるほど、俺は器用ではなかった。

 傘を受け取った梶井の手を掴み、軽く引っ張る。むせ返るような煙草と檸檬の匂いが凝集されていた。


「あんた、『白北睡蓮』だろ」


 至近距離で下から睨まれた梶井は顔色一つ変えず、「知らないな」と答える。逸る心を抑え、慎重に問いただした。


「梶井総司……あんた、兄貴の仏壇を拝みに来ただろう」

「なんで俺の名前を?」

「母さんから聞いた。あんたが仏壇を拝みに来た時は、俺は寮に戻ってたけど」

「……ああ、そうだな」

「でも、俺も母さんも、父さんだって、あんたのことは知らなかったんだ。おかしいだろう? 友達なら、兄貴の口から名前を聞いていてもおかしくないはずなのに」


 そう言うと、梶井は眉間にしわをよせて今にも泣きそうな顔をした。俺はぎょっとしてつい手を離してしまう。

 梶井が俺と距離を少しとったところで、祖母が穏やかな表情で長い煙草のケースを窓口に差し出した。


「はいよ」

「……スズさん、こいつは?」

「おや、挨拶してなかったのかい?」


 祖母に指摘され、慌てて挨拶する。


「……遠野水蓮っていいます。よろしくお願いします」

「無花果の弟だよ。梶井さん、無花果と仲良かったでしょう? 面倒見てあげてくださいな」

「スズさんの頼みとあっちゃ、断れないな」


 祖母の声かけに、梶井は困り顔で笑う。しかし眼鏡越しの目はひたすら暗く、笑みなど浮かべてすらいなかった。

 苦しげな、何も映したくないとでも言いたげな暗い目。

 声をかけるのすら躊躇われる暗澹とした空気に、息をするのが苦しくなる。


「……俺は梶井だ。梶井総司。よろしく」


 そうして俺は、檸檬の印象とはかけ離れた梶井と出会ったのだった。

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